【回想録 由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い 第12回】
🔷 「涙はどれだけ出てくるのでしょうか?」の後半を掲載します。 🔷
タイトルは『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』
(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)です。
2016年1月25日 発行
著者 藤巻 隆
発行所 ブイツーソリューション
✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第12回)✍
「私の想い」の中の「涙はどれだけ出てくるのでしょうか?」の後半を掲載します。
私の想い(2)
涙はどれだけ出てくるのでしょうか?
この原稿を書きながら泣いたことも、数え切れないほどあります。泣き出すと、文章が書けなくなります。しばらく時間をおかないと、再開できませんでした。「自分はなんて弱い人間なんだ。情けない男なんだ」、とつくづく思います。自己嫌悪に陥っています。
でも、一度考えてみてください。最愛の妻を失っても「平常心」を保っていられる夫が、いったいどれだけいるでしょうか? もし、そのような状態にあっても「平常心」を保っていられるとしたら、人間ではありません。もしくは、それほど愛情を感じていなかったためでしょう。どんな時でも平常心を保っていられるのは神か仏しかいない、と考えてしまいます。普通の人間が、如何なる場合でも平常心を保っていられる(ように見える)のだとしたら、人知れず耐え忍んでいるか、あるいは演技をしているのか、のどちらかでしょう。今の私には、とても平常心を保つことはできません。
人間の弱さ
人間の弱さを実感したのは初めてのことかもしれません。自分自身のことであれば、どんなに苦しく、つらくても耐えることはできるかもしれませんが、最愛の妻を亡くした(死なせた)という罪悪感が、私を苦しめます。心の葛藤とどう向き合っていくかが今後の大きな課題となります。
五木寛之さんは『生かされる命をみつめて 見えない風編』(実業之日本社 二〇一五年一〇月十五日 初版第一刷発行)の中で、日本人が泣かなくなったことについて語っています。
(PP.36-38)
➳ 編集後記
第12回は「私の想い」の中の「涙はどれだけ出てくるのでしょうか?」の後半を書きました。
平常心を保つことは難しいことですし、悲しむことを忘れないことが、喜びを実感できるのではないかと感じ入りました。今回の内容を振り返ってみますと、悲しみと喜びは感情の両端にあり分離された感情ではなく、併存する感情ではないかと考えています。