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柔らかい殻(1990)

フィリップ・リドリーが1990年に発表した初長編監督作品「柔らかい殻」が、デジタルリマスター版で劇場公開されたので観てきた。昔からタイトルだけは知っていて気になる作品だったのに未見だったので。

1950年代のアメリカ。黄金色に染まる広大な小麦畑が広がる田舎町で、両親と暮らす8歳の少年セスはやんちゃな男の子。自宅の隣でガソリンスタンドを営む読書好きで気弱な父親と、父のことをボロクソに貶し、セスのことより戦争に行ってしまった長男のことばかり賛美する母親。

ある日、セスは友人のイーブンとキムと共に道を歩いていた女性に酷いいたずらを仕掛けたのがばれ、母親から謝り行くよう強制される。

嫌々、謝罪に出向いたセスを出迎えた孤独なイギリス人女性ドルフィンは怒ることもなくセスを迎え入れ、亡き夫への愛や悲しみについて語って聞かせる。そこで彼女が年齢を200歳と言ったことや、見せてもらった夫の形見や、子供には理解できない話から、セスはドルフィンが恐ろしい吸血鬼だと思い込む。

そんなある日、行方不明になったイーブンの死体がセスの家の井戸で発見される。セスはドルフィンを疑うが、警察は過去の出来事を理由にセスの父親を犯人と決めてかかり、そこから悲劇の連鎖が始まる。

あまりにも美しい小麦畑や太陽や青空が絵画的に写し出される中で、白昼堂々不穏な出来事が次々と起こり、精神的に不安定になった人々が怒り、得体の知れない気持ち悪さが立ち込めていく。

本作は少年殺しの真犯人を明確に示しながら、その犯人を追うことをせず、セスがドルフィンを吸血鬼だと思い込んでいるのと同様に警察も村の人々もセスの父親を犯人と思い込んだまま行動させ、無知と思い込みと真因の放置が起こす嫌な出来事をそのまんま観客に突きつける。

何故こんなあからさまな真犯人に誰も気付かないのか? 何故セスは身の回りで起きる悲劇に動じずに客観視しているのか?(多分にそこには教育がなされていない故の無知があるのだと思うが…) 何故セスの父親がこんなに村の人々から嫌悪されたのか? など、説明しようとすれば出来ることを、あえて放置して不穏な空気ややるせない悲劇を見せることを徹底した作りに、監督の強い意図を感じる作品でした。

とても嫌な後味の映画ですが、劇場で観られて良かったです。


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