ぼくが「想う」こと
「想い」という言葉を、ぼくはめちゃめちゃ多用する。
あえて意識的に。
「思い」よりもより心から何かに寄り添っているような、そんなイメージがあるからっていうのが理由なのだが、その根本とか原点とかは今まであまり振り返っていなかった。
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小さいときから、ぼくには「吃音」という症状がある。
話すときに言葉が詰まったり出にくかったりする障がいだ。
自分の気持ちとか「こうしたい」っていうのをはっきり口に出して主張するのが得意じゃなかった記憶がある。むしろ苦手だった。
そのせいで、「自信もちなよ」とか、「おとなしいね」って言われることが多々あった。
俺だって、考えていることちゃんとあるのに・・・・・・・・
そんなことを日々感じていたように思う。
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大学生になって、ぼくと同じように吃音をもっている当事者の人に出会うことが度々訪れるようになった。
確かに、自分の気持ちとかを自信に溢れた表情で語るのは一様に苦手そうだった印象がある。
でも根気強く話を聞いてみると、それぞれがすてきな想いや夢をもっていることもまた事実だった。
そしてそれを、もっと外に出していきたいと考える人も少なからずいることも。
そんな時、以前スタッフとして関わっていたコンテストのことを思い出した。
ざっくり言うと、自らのやりたいこと・夢を思い思いにプレゼンし、一般の投票などで最優秀賞を決め、一番になった人には実際に資金(正確にはあるチケット)をプレゼントするというものだった。
延べ300人くらいの若者が応募してきて、ぼくたちスタッフは、送られてきた動画や実際のプレゼンを見て、参加してくれた人たちの想いに触れた。
みんながそれぞれの方法で、自分らしく、熱く、自らの想いをぼくたちにぶつけていった。その場は本当に、ある種の「温かさ」に包まれていたと思う。
参加してくれた人の中には、今も度々連絡をとってくれる人も多い。みんながそれぞれやりたいことを発信して、それを実現していっているのを見ていると、ぼくも嬉しくなる。
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この2つがリンクしたとき、「1人1人が、自分らしく、自らの想いを発信できる、そしてみんながそれを応援できる社会・場」をつくりたいと考えるようになった。
小さいことから感じてきた違和感・もどかしさと、コンテストのスタッフをしたときの温かさがパズルのピースのようにはまった。そんな気がした。
気がした、だけかもしれないけど。
思えば、誰かの応援だったり、サポートをすることだけはぼくは得意だった。
イコールそれが「自分を殺す」ことに繋がったこともあるのかもしれないが、でも、大好きな友達が夢を叶えたりやりたいことをやっている瞬間をみれることが嬉しさになっていたことも事実だ。
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「おもう対象が心の中ではっきりしているとき」に、「想う」という文字は使われるらしい。
誰かが自分の夢ややりたいことを心から発信する。それを誰かが心から応援する。
誰かが誰かを想う、そんな世界って素敵じゃないですか。
ともすれば人との繋がりが希薄になりがちな今の時代、改めてそんなことを思っている。