「わかる」ことと「受け入れる」こと
ここ最近になってようやく、「カミングアウト」に対する社会の意識が変わってきたように感じる。
つい先日、LGBTの女子サッカー選手へのインタビュー記事を読んだ。
長く彼女が抱えてきた気持ち・想いを外に吐き出したときの感情って、どんな感じだったのだろう。
ぼくは彼女じゃないからわからないけど、たぶん相当抑圧されていたんじゃないだろうか。
正直に生きようと思って周囲に伝えてみたけど受け入れてもらえず、気持ちを発することに対して重しを乗せられてしまうような体験も、もしかしたらあったかもしれない。
でも、ぼくは彼女じゃないからわからない。
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人の悩みが多種多様であるように、その人が相談相手から返してほしいリアクションもまたその人によって違う。
ただ黙って聞いてほしい人。
解決策を提示してほしい人。
「つらかったね。だいじょうぶだよ。」と抱きしめてほしい人。
(「男女の関係においては、男性は女性のそういう話を黙ってうんうんう頷いて耳を傾けるだけでいい。解決策なんか提示しようものならかえって逆効果」みたいな話をよく聞くけど、それも人によって違うでしょと個人的には思う。当たり前か。)
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「分かるよ。その気持ち。」
この言葉を返すことに対して、ぼくは強烈な危うさを抱く。
その人がめちゃめちゃ悩んで、やっと内から外に出す決断をした、その勇気もまとめて蹴飛ばしてしまうような。
中身は軽いくせにずっしりと重い、そんな言葉に思えてならない。
そもそも、
人の悩みなんて他人にはそんな簡単に分かるもんじゃない。
それを、安易に「分かるよ」なんて言っちゃいけないーと僕は思う。
初めのほうで書いた通り、ぼくは「その人」ではない。
相談してきたり悩みを打ち明けてきたりしてくれる人に寄り添うことは間違いなくやれるけど、
その人が歩んできた人生、その中で感じたことの全てを知ることは絶対できない。
自分も、友達からいろいろ相談されることがままある。
仕事のこと、家族のこと、恋人のこと。
その度に思う。
「わかったふり」をして「わかるよ」なんて言わないようにしよう。
その人が抱えた想いは、ぼくみたいなちっぽけな人間に簡単にわかるような、そんな浅いものじゃないから。
でも、少しだけでも、その人に寄り添うことはぼくにだってできる。
「わかる」ことはできないまでも、受け入れることはできるから。