2021.01.04函館教育大学韓国語授業資料「不要不急とは何か」
1.「不要不急」っていったい何だろう?
2020年初頭に使われだした「不要不急」という言葉。これは今や「外出自粛を呼びかけるための常套句」として使われています。しかし、「世の中に必要な仕事の人は行動していいけど、世の中の役に立たない仕事の人は家にいなさい」という解釈のされかたもしているようです。
「人の役に立たない仕事はないんだよ」「目立たない仕事をしている人でも必ず誰かの役に立っているんだ」そういうきれいな言葉を簡単に汚してしまう解釈ですね。
確かに、医療や物販・物流といった、「人と接することで仕事が成り立ち、かつ止まってしまっては困る仕事」以外の仕事、つまり、「人と接しなくても仕事が成り立ち、かつ止まっても別段困る人がでない仕事」は、コロナ禍において、「あー、よく考えてみたらこの仕事っていらなくね?」と思われても仕方ないのかもしれません。
ただ、「不要不急」は「世の中に要らない仕事」を選別する指標になってはいけないなと思います。
2.なぜ大学はキャンパス「開放」が遅れたのか?
2020年は様々な行事が取りやめになりました。3月には卒業式、4月には入学式が取りやめになった学校もあります。学校自体が閉鎖されたところもあります。その基準は何だったかと言うと「不要不急」だったと思うんですね。でも、前期多くの大学はキャンパスが閉鎖されて遠隔授業になった一方で、保育園や幼稚園、小中高校は早い段階で再開されていました。この違いはどこにあったのか?
私は、この現象を見て、「私たちが同じように学ぶ場所」とか、「学校」捉えている場所であっても、大学はなぜ永遠と「不要不急」にされているのかを考えてみました。
保育園や幼稚園は、小学校への準備段階として、「学校」と同じように考える人もいるかもしれないけど、「親が働くために必要な所」「午前中だけでも親が休む時間が作れる所」という福祉の機能があります(実際、保育園は厚生労働省の管轄です)。小学校や中学だって、「保育園・幼稚園」の延長のように利用している親もいるでしょう(学童が必要とされているのは、放課後も何かしら親が活動したいという思いもあるわけです)。高校生は親が面倒を見る必要がないように思われますけど、それでも未成年だし、親の留守中に何かあったら親が責任を取らないといけない。一方、大学はというと、親元から離れて通っている人もいるし、地元の学生であっても「親が見ていないと心配」ということがありません(親がいないと勉強しなくなるというのはあるかもしれませんが)。
「学ぶ」とか「部活・サークル」、「人間関係の構築」といった面を考えると、「学校」と呼ばれているところは、全部に当てはまるんですけど、「親の社会活動を助ける」という機能だけは、「大学」が劣ってしまう。このことが大学のキャンパスを「不要不急」にさせる一因となっているんじゃないかなと思います。
3.大学生活の何を「不要不急」とするか問題
こういう話をすると、「大学生はアルバイトもしているし、サークル活動も他団体との交流があったり、恋愛する人も多いから、交際範囲が広いじゃないか。そういうリスクもあるんだ」という人もいるかもしれません。たしかにそうかもしれません。
学費や生活費を稼がなくていけない大学生にとってはアルバイトは不要不急ではないし、就職のためにもいろんな経験を積まないとならない時期ですから、活発に活動しなきゃいけない分、小中学生とは違います。それを理由にキャンパスを閉鎖しているのならそうでしょう。
「勉強」のために、「アルバイト禁止」「男女交際禁止」とかのほうがやばいなというのは直感的にわかります。そこまでしてコロナ封じをしだしたら、「大学に行きたい!」って言っている人たちだって猛抗議するはずです。ちょっとひねくれた発想かもしれませんが、大学は、「学校の勉強よりも、アルバイト、男女交際のほうが必要」「学生のキャンパス以外での自由の方が優先」と考えてくれているともとれるわけです。
大学キャンパスは「親の社会活動を助ける」役割がないし、親が困らない。かつ、学生の自由を優先するためには、「キャンパスに犠牲になってもらえばいい」。という不要不急の優先順位がキャンパス閉鎖に繋がっているんだろうと推測できます。
4.大学通学を不要不急とすることで失われたもの
そう考えると学校は、「学校以外の大学生活」の保障のために、「キャンパスを閉鎖」していると言い換えられるのかなと思います。
学生が家にいても親が困らない。学生も教科書を読むことで、物事を暗記したり、考えたり、課題をこなしたりできる。動画があれば先生の講義も聞けるし、zoomで友達との話し合いもできます。
先生も、zoomで授業しようが、課題提出で単位認定しようが、「何しようが」、「授業しましたよ」という報告書さえ学校に提出すれば給与がでます。
とりあえず、サークル活動だけは我慢してもらえれば、キャンパスがなくても学生生活は正常に保てるような気がしてしまいます。先生たちも給与が出れば生活保障はされる。めでたしめでたし。
でも、何かが違うよなと思います。それが何なんだろうと今学期中ずっと考えていました。今年は対面7回と遠隔8回(残り3回はこれから)をしたわけですけど、遠隔になって気づいたことがあります。私は授業中、学生に話しかけることをしょっちゅうするわけですけど、一人の学生に話しかけていても、教室では必然的に全員が同じ話を聞くことになります(囁いたら別ですが、私が学生に囁くとキモイと言われると思うのでやりません)。私とある学生とのやり取りというのは、周辺の人も聞けるので、それが参考になるということが起こります(ただの雑談は参考になりませんが)。私も教室内で1対1で話していたとしても、「誰かが聞いている」という意識を持って話すので、自然と「みんなも聞いていてほしいな」という話し方になっていることもあります。私の学生時代を思い返しても、教室内の誰かが話していることや、誰かが先生から説明を受けていることをこっそり聞いて、勉強になったということが多々ありました。遠隔だとこういう「偶然入ってくる知識」というのがありません。
あと遠隔だと、授業中や授業が終わった後に、「あのことがわからなかったんだけど、どういう意味だったの?」と友達に聞く時間も与えられないし(LINEでやりとりすれば別ですが)、ノートの貸し借りとかが物理的に難しくなります(写メとかインスタで共有してしまえば別ですが)。私は、こういう友達に尋ねたり、ノートの貸し借りとかって意外と、「教室内で目が合ったから聞いた」とか、「廊下ですれ違ったから借りた」みたいな偶発性によって起こされている部分もあるなと思います。
教室内の先生の話は「偶然そこに、その学生がいたから、ちょっと話したくなった」とか、「教室の雰囲気を変えたいな」というリアルタイムで起こる気持ちの変化から発生するし、友達との質問もノートの貸し借りも「友だちがそこにいたから」、「偶然通りかかったから」みたいな「思いつき」で起こるんじゃないかなと思います(私だけなのかもしれないけど)。
遠隔授業はこのような「偶然性」を奪い去ってしまった、と私は考えています。
5.大学キャンパスは本当に不要不急なのか?
遠隔授業は「決まった時間」「決まった場所(仮想空間)」で授業を行います。教室もそれについては同じです。しかし、遠隔授業はわりと、決められた時間軸にそって授業が進行し脱線しにくいし、偶発的な会話の発生は少ないような気がします。さらに、授業が開始される前、終了後は、それぞれ違う空間に放り出される(というか戻される)。そこには、偶発的な出会いや会話は生まれにくい。
「そんなのなくても勉強はできる」
確かにそれはただしい。正しいのだけれど、それもまた寂しい。じゃ、何をどうすればいいわけ?と言われるかもしれないけど、その答えを導けないのがもどかしい(なんだか韻を踏んでしまってますね)。
だけど、「コロナ禍」がどこまで続くかは誰にもわからないからこそ、今こうやって考えてみることは大切だと思います。遠隔で、どこまで「偶発性」を作り出せるのか。ちょっとやってみる価値はあるかもしれません。
<今回のオススメ図書>
内田樹編(2020)『ポストコロナ期を生きる君たちへ』晶文社
様々な分野、様々な年代の人が「ポストコロナ期」について語ったアンソロジー文集。「ポストコロナ期を生き抜くためにはこうしろ!」という答えではなく、執筆者たちは「自分で考える力」の大切さを教えています。
正直、2021年もどうなるかわからない状況です。皆さん一人一人が「自分の考え」を持って、そして、互いの意見を論破するとかねじ伏せるために自分の考えを使うのではなく、共有し合い時には、修正しながら、集団知として活用できるようになることを願します。
かつてカンフーの伝道師、ブルースリーは「考えるな、感じろ」と言いましたが、「考えろ、そして感じろ」と私は言いたいです。
是非皆さんと共有したい文があったので、少し長いですけど、内田樹編(2020)『ポストコロナ期を生きる君たちへ』の中から、増田聡「『大学の学び』とは何か」を引用します。
私は現在、大阪の大学で音楽文化論などを教えていますが、かつてとある地方の教育大学で助手をしていたときのことです。ある4年生が進路相談にのってほしい、とやってきました。
勤務していたのは音楽教育家でしたので、学生の多くは小中学校などの音楽の先生を目指していました。しかし彼女は、地方の学校教師ではない生き方がしたかったのでしょう。ロックやJポップなど、「学校の外の音楽」を研究していた私に、意を決したようにこんな質問をしました。
「先生、私は将来椎名林檎みたいになりたいんですけど、どこの学校で何を勉強すればなれるのでしょうか?教えてください」
(中略)
「椎名林檎になるための学校」という考えは、当時の(今でも)私には想像すらできないことでした。しかし「そういうものがどこかに必ずある」という確信を彼女が持っていたことは間違いありません。そしてそれを学びさえすれば(私には不可能と思える)「椎名林檎になる技能でも、どこかでパッケージされて存在している」はずであり、「大学とは、そのような『能力のパッケージ』を学生に『インストール』するところである」という彼女の確信に、私はたじろいだのです。
(中略)
かつては、知識とはそれとの長い格闘の末に身につけるものでした。それが「コンテンツ」と呼ばれるようになってから、教育のあり方も変化したように感じます。何かのために必要な知識は、どこかに「コンテンツ」として存在しており、必要ならそれを見つけて「アクセス」しさえすればいい、という感覚が、学生や社会に浸透したように感じます。
先に触れた、「カリキュラム通りに学生をしっかり勉強させる」ことを目指した大学「改革」の背景にあった考え方は、私の考え方では、知識や能力を「コンテンツ」としてとらえる考え方です。学費を払った分に見合うだけの知識や能力が得られる場として、つまり、「知」を商品のように取引するような場へと大学は変化させられてきました。
しかし、大学教育は「コンテンツをインストールする」こととは本質的に異なります。皮肉なことに、コロナ禍によって大学に通えなくなり、「オンライン授業はうんざりだ」「早く大学を再開してくれ」と声をあげる学生たちこそが、そのことに気づきつつあるのかもしれません。
教育内容=コンテンツが、オンライン授業のかたちで学生に伝達されている現在の大学の状況は、いわば(政府が、あるいは社会が理想とした)「勉強に純化された大学」です。授業と授業の間の移動時間や、友人との雑談や、サークル活動などといった「勉学と直接関係ない」要素をすべて排除した、純化された「知識コンテンツのインストール」に多くの人々が不満を漏らしている。この事実は、勉強以外の無駄なことがむしろ大学の本質であったことを示しているのではないでしょうか。
いえ、もっと強く言いましょう。「大学は勉強するところではない」のです。
大学は「学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与する」(教育基本法第7条)と定められている制度です。「新たな知見を創造し」というところがポイントです。大学とは「まだ存在しない知」を生み出すことこそがその存在根拠なのです。
(中略)
コロナ禍がわれわれに教えたことは、このような経験したことのない難局に対するために必要な知とは、すでに誰かによって形作られパッケージされている「コンテンツ」ではありえない、という簡明な事実です。われわれはメディアで発言する専門家の意見の「食い違い」を日常的に目にしています。
(中略)
われわれはこのコロナ禍を解決してくれる解決策がどこかにあるはずだ、と信じたい。しかしそんなものは「まだ」どこにもない。コロナ禍乗り越える知見はコンテンツとしては「まだ」存在してないのです。それは身銭を切って必死に考え、調査し、研究している「誰か」がこれから生み出す「かもしれない」ものです。それを担うのが「知」の仕事であり、大学の仕事なのです。
コロナ禍に限りません。何であれ「問題を解決すること」の確かな筋道は、どこかの誰かが出来合いの答えを示してくれるわけではありません。それは最終的には、自分の知性をもとに、自分の責任と判断で、自分自身で選び取っていくしかないのです。
椎名林檎になるための「コンテンツ」がどこで学べるかを私に尋ねた彼女が今どこでどうしているか、私は知りません。ですが彼女には、現在のコロナ禍の中で「誰かが教えてくれる簡単な解決策なんてない」と思っていくれたらいいな、と私は願っています。