「ルートビア」と「薬用養命酒」~日本における薬草を用いた清涼飲料水考(後編)
前編の続き
「ルートビア」と「黒松沙士」が好きすぎて仕方ない小生ですが、この2つの炭酸飲料についてあれこれ調べるうちに気が付けば「薬用養命酒」に行き着いてしまいました。
後編では、嗜好品の飲み物ではなく、薬用酒とカテゴライズされてはいますが、ある意味で日本の「クラフトコーラ」の源流とも言える「薬用養命酒」について、改めて深掘りしてみようと思います。
清涼飲料水に進化しなかった「薬用養命酒」
変わらぬ伝統のロングセラー商品というイメージの強い「薬用養命酒」ですが、その長い歴史の間には原料となる薬草の変更があったり、若年層をターゲットにしたバリエーション商品の開発がありました。
まず、1958年に若者層の取り込みを狙って、通常品よりもやや甘口に仕立てられた養命酒が発売されました。この甘口の養命酒は、箱の色が黄色かったので、「黄箱」と通称されていましたが、思うように売り上げが伸びず1971年には販売が終了しています。
「若者層」と書きましたが、実は「薬用養命酒」は栄養事情の悪かった昭和20~40年代にかけては子ども向けの滋養強壮剤として位置づけられていた歴史があり、少年少女向けのラジオ番組のスポンサーに付いたり、少年雑誌・少女雑誌に小中高生を意識した漫画タッチの広告を掲載するなどして、少年少女や保護者に向けたセールスを図っていました。
昭和40年代のテレビCMには「(家族)みんなの養命酒」というフレーズも見られました。
Youtubeより
もっとも、高度経済成長の時代を経て食糧事情や栄養事情が改善すると、「薬用養命酒」は子ども向けの滋養強壮剤としての役目を終え、また医薬品と言えどもそもそもアルコール分を含有するお酒であるということもあり、いつごろからか子ども向けの宣伝活動は行われなくなりました。
現行の「薬用養命酒」とは別に、同じ生薬(薬草)を原料にしたノンアルコールの栄養ドリンクないし清涼飲料水があれば、今でも子ども向けの滋養強壮飲料として展開できる可能性はあったかもしれません。
また、かつては中身こそ「薬用養命酒」と同じですが、酒店ルートで流通させるために薬用酒ではなく酒類の扱いで販売されていた「養命酒」がありましたが、こちらも売り上げの低迷により2009年末で終売しています。
その代わり、健康志向の高まりや幅広い年齢層へのマーケティングを狙い、2010年には医薬品ではないリキュール「ハーブの恵み」が販売されています。
この酒類として酒店に卸されていた「養命酒」と、現在発売中のリキュールをベースにしたカクテルやノンアルコールの炭酸飲料があれば、それなりに需要があるのではと思いますが、残念ながら養命酒を大衆向けの清涼飲料水化する動きがある、もしくは過去にそのような動きがあったとは聞いたことがありません。
【参考】フリー百科事典Wikipedia
「ニッポン・ロングセラー考 Vol.65 養命酒」COMZINE 2008年10月号
余談ですが、「薬用養命酒」とは逆に、医薬品として開発して売るつもりが、気が付けば清涼飲料水として世に出るという結果になってしまった商品があります。
その商品とは、大塚製薬の「オロナミンC」(1965年発売)。
先発の大正製薬「リポビタンD」(1962年発売)に対抗すべく、ビタミンCをはじめとする各種ビタミンや必須アミノ酸を含んだ栄養ドリンクとして開発されましたが、炭酸を付加しているという理由で当時の厚生省から「医薬品としては認められない」のお達しを受けました。
やむなく清涼飲料水として世に出ることになりましたが、これが幸いし薬局だけではなく食料品店でも販売可能になったことが、その後の普及・拡販にあたって追い風になったと言われています。
【参考】フリー百科事典Wikipedia
もし「養命酒」をベースにした炭酸飲料があったならば
歴史のifになりますが、もし、戦前の段階で「養命酒」をノンアルコール化したうえで炭酸を加えた、日本版の「ルートビア」・「クラフトコーラ」に相当する清涼飲料水が開発され、日本の内地及びその勢力圏だった地域で販売されていたらどのような展開をたどっていたでしょうか。
風味に癖があるにせよ、うまいこと市場に受け入れられれば、当時の日本を代表する清涼飲料水だった「カルピス」・「どりこの」(注)・「キリンレモン」・「三ツ矢サイダー」あたりと並ぶヒット商品として市場を席巻したかもしれません。
戦時中はほかの清涼飲料水と同様、一般向けの製造販売が中止される苦難を経験したかと思いますが、戦後に砂糖の統制が緩和された段階で復活を遂げ、ロングセラー商品として令和の時代に至っていたことでしょう。
(注)医学博士の髙橋孝太郎氏が開発した滋養清涼飲料水。1927年に特許取得し、1929年から大日本雄弁会講談社(現講談社)が発売。戦後は講談社との契約が切れ、受注生産で細々と製造されるも、1970年髙橋博士の死とともに製造中止。
さらに、この「養命酒」ベースの炭酸飲料が昭和20年代時点で日本本土の一般大衆の間に定着していたならば、コカ・コーラやペプシが日本市場への本格参入に慎重な姿勢を示し、史実より両社の日本での製造・販売開始が遅くなったという世界線もあったかもしれません。
一方、史実通り日本が敗戦し、中国国民党政権の統治下におかれることになった台湾は、おそらく数年~10数年の期間は「カルピス」も、「どりこの」も、「養命酒」ベースの炭酸飲料も入ってこない状況になっていたかと思われます。
この空白期に、当時中国国民党の支配下だった上海に存在した「ルートビア」をもとに開発された「黒松沙士」が登場し、台湾人の間で好評を博するというのは史実通りになりそうです。
おわりに
実は「薬用養命酒」は、亡き母方祖父(1923年生まれ)が愛飲していた飲み物でしたが、幼い日の私にとっては「これは年寄りが飲むものだ」という先入観があり、ある意味敷居の高い存在でした。
それが30年あまりを経た今、「薬用養命酒」の遠い親戚とでも言うべき「ルートビア」と「黒松沙士」がなくては生きていけない身体になってしまったのですから、血は争えないのだなとつくづく感じさせられます。
前置きが長くなりましたが、戦前の日本で「ルートビア」が製造・販売された事例が戦艦金剛以外にもあったのか、あるいはそれに近いものとして「薬用養命酒」の炭酸割りがどの程度嗜まれていたか。「薬用養命酒」をベースにした清涼飲料水の開発が検討されたことがあったのか。
このあたりは文献や当時の新聞広告、雑誌記事、関係各社の社史を地道にたどるという緻密な作業が必要になってくるとは思いますが、「ルートビア」(とその近縁種である「黒松沙士」)を愛してやまない者としては、生涯の研究テーマにしてもいい題材かもしれません。
ちなみに前編でも触れましたが、「薬用養命酒」と「ルートビア」の類似性に気づいた私は、自宅で「薬用養命酒」をベースにした炭酸飲料の試作に乗り出していたりします。
この話を友人にしたところ、「「クラフトコーラ」はシナモン、レモン、バニラといった材料で自作できる」との貴重な意見をいただいたので、「薬用養命酒」と炭酸水を加えた飲み物の改良に活用しようかと考えています。
実際に作ってみたら、その様子と感想を記事にしようと思いますので、乞うご期待ください。
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