1994年秋から1995年元日の思い出〜震災前、あなたは何をしていましたか
◆はじめに
1995年1月17日午前5時46分に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)から間もなく30年。
本稿では、震災が発生する直前の1994年秋から1995年元日までの間の出来事をいくつか振り返り、平穏な日常が突然壊されたあの日に思いを巡らせようと思います。
■1.関西国際空港開港
1994年9月4日(日)、大阪府泉佐野市・泉南郡田尻町・泉南市沖の大阪湾に関西国際空港が開港。
関西財界の期待を集めた24時間離発着可能な新空港が開港したということで、当日は祝賀ムード一色。一日中テレビの特別番組にかじりついていたのを覚えています。
その一方で、それまで関西の空の玄関口として国際線・国内線のフライトを一手に引き受けていた大阪国際空港(伊丹空港)は、国内線専用の空港となりました。
当たり前のように毎日自宅や小学校から見ていた諸外国の航空会社の飛行機が、9月3日を最後に一斉に姿を消したことには子供心に寂しさを感じたものです。
■2.プロ野球セ・リーグ「10・8決戦」と長嶋巨人日本一
当時の私はJリーグの応援に専念しており、なおかつ阪神タイガースが低迷期に入りつつあったので、正直なところプロ野球には疎かったのですが、1994年のセ・リーグを象徴する出来事である「10・8決戦」についても少々触れさせていただきます。
この年のセ・リーグでは残り1試合を残した状態で読売ジャイアンツ(長嶋茂雄監督)と中日ドラゴンズ(高木守道監督)がともに69勝60敗で並んでいました。
最終戦は10月8日のナゴヤ球場での両チーム直接対決。勝利したチームがセ・リーグ優勝となるわけで、この一戦には両チームの関係者はもとより他球団ファン、あるいは普段野球に興味がない層の人々からも注目が集まっていたといいます。
試合の結果は6-3でジャイアンツが勝利、4年ぶり27回目のリーグ優勝を果たしました。ジャイアンツはその後、パ・リーグ優勝チームの西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)(森祇晶監督)との日本シリーズを4勝2敗で制し、5年ぶりの日本一に輝いています。
ちなみに長嶋監督と森監督はV9時代のジャイアンツのチームメイト。
長嶋監督は監督として初の日本シリーズ優勝を果たし、ジャイアンツファンにとってはこの上ないシーズンの締めくくりになったかと思います。
■3.「湘南の暴れん坊」ベルマーレ平塚の大躍進
1994年シーズンよりJリーグに加入していたベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)。
1stステージ(サントリーシリーズ)では失点が多かったこともあり12チーム中11位と低迷しましたが、続く2ndステージ(ニコスシリーズ)を迎えるにあたって古前田充監督は左サイドバックに公文裕明選手を起用、それまで左サイドバックだった岩本輝雄選手をオフェンシブハーフにコンバートし、守備の強化を図りました。
結果的にこれが功を奏したこと、また岩本選手、名良橋晃選手、名塚善寛選手、田坂和昭選手、野口幸司選手、小島伸幸選手といった主力選手が揃って活躍したこともあり、優勝こそヴェルディ川崎に譲ったものの、2ndステージを2位という好成績で終えることができました。快進撃を続けるベルマーレには、いつしか「湘南の暴れん坊」という異名が付けられていました。
翌1995年元日の天皇杯決勝では、春からJリーグに参入することが決まっていたセレッソ大阪を2‐0で下し優勝。プロ化後初のタイトルを獲得しています。
■4.セレッソ大阪・柏レイソルJリーグ昇格
1994年シーズンのJFL(ジャパンフットボールリーグ)では、ともにJリーグ準会員のセレッソ大阪・日立FC柏レイソル(現柏レイソル)がそれぞれ1位、2位に入り、1995年シーズンからのJリーグ昇格を決めました。
セレッソがJFL2位以内を確定し、Jリーグ昇格を決めた試合は、1994年10月20日の中央防犯藤枝ブルックス(現アビスパ福岡)戦でのこと。
この試合の会場は当時私が住んでいた兵庫県尼崎市にある、尼崎市記念公園陸上競技場でした。尼崎市は、セレッソの前身にあたるヤンマーディーゼルサッカー部の発祥の地でもあります。
■5.ヴィッセル神戸の船出
神戸市ではかねてJリーグチームを誘致する動きがあり、岡山県倉敷市を本拠地としていた川崎製鉄水島サッカー部が1995年1月から神戸市に本拠を移すことになりました。
メインスポンサーとして、ダイエーが名乗りを挙げ、1994年6月に「㈱神戸オレンジサッカークラブ」を設立。
9月にはクラブ名が「ヴィッセル神戸」に決定し、神戸での初練習の日にちは1995年1月17日の予定でした。
■6.智頭急行開業
1994年12月3日、智頭急行智頭線(上郡~智頭間)が開業。
国鉄再建の煽りを受けて建設工事が凍結されたものの、地元3県が設立した第三セクターにより開業に漕ぎ着けた同線を経由する列車として、特急「スーパーはくと」・「はくと」が新大阪~鳥取・倉吉間で運転を開始しました。
それまで、播但線経由の特急「はまかぜ」で4時間台を要していた大阪~鳥取間の所要時間は2時間30分台に短縮され、大幅な利便性向上が実現しています。
■7.私自身のこと
当時の私は小学5年生。中学受験のため塾に通っていましたが、時間のあるときはサッカーや読書に興じ、それなりに楽しい時間を送っていたように思います。
10月には小学校の自然学校(林間学校)に参加、兵庫県氷上郡青垣町(現氷上市)の青少年施設で5日間にわたって級友や先生方と楽しい時間を過ごしたのも良い思い出でした。
親が中学受験の勉強のことでいろいろうるさかったのは苦痛でしたが、級友や学習塾の先生とは概ね仲良かったように記憶しています。
この頃の私ですが、周りとは違った感性があり、誤解されやすい一面はあるという自覚はあり、実際に級友たちとの間にコミュニケーションの齟齬が生じたことが多々ありました。
また、いじめっ子に暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたことも何度かありました。
しかし、いじめっ子が標的にしていた児童は必ずしも私だけではなく、また私と仲良くしてくれた友人も多くいたこともあり、あまり自分だけがいじめられている、孤立しているというような意識はなかったように思います。
理解してくれない同級生や大人もいるけど、2年後、第一志望の中学校に入れたら今よりも明るい未来が待っているのだろうなと、漠然とした希望を抱きながら日常を送っていた私ですが、その後5年生の1月と3月にあのような未曾有の事態が起こり、さらに猛勉強の末入学した中学校で厳しい現実が待っていようとは知る由もありませんでした。
◆おわりに
以上、阪神・淡路大震災が発生する直前の1994年秋から1995年元日にかけて起きた出来事のうち、私の趣味分野に関連するものをいくつかピックアップして回顧してみました。あわせて、当時の私自身がどのような少年であったかについても、今一度振り返ってみました。
上で紹介した出来事について振り返りながら執筆を進めるにつれ、30年という歳月の長さ、つくづく自分が歳を取ったことを痛感させられた次第です。
そして、私たちとともにこれらの出来事をリアルタイムで経験していた人々のなかに、あの朝襲った大地震で突然にしてその生命を断ち切られた方が何人もいたことについても思いを巡らせずにいられませんでした。
改めて、阪神・淡路大震災で犠牲になられた6437名の方々のご冥福をお祈りします。