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小説・強制天職エージェント⑳

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その後も、山田の依頼で社内の人事について提案を求められて、忙しく動き回っていたため、水島は八重子の近くにいる時間がほとんどなかった。しかし秘書業は板についてきたように見えるし、特に問題ないだろうと安心しきっていた。

ただ、約束の3か月も残り1か月を切ったから、本人の口から現状を聞いておきたい。それから、仕事でなくてもとにかく話したいという気持ちも大きく、今日こそはと思って水島は八重子を誘った。

 終業後、待ち合わせの場所に来た八重子を見ると、表情がすぐれない。
「体調でも悪い?」


「違います」
と泣きそうな顔で八重子はいった。「ちょっと仕事で色々あって……いえ、でも、いいんです」

「仕事? それはいってくれなきゃ。それを聞くのがオレの仕事なんだから」

思いつめた様子の八重子の気持ちをほぐそうと、コンビニでコーヒーを買って、夜風に当たりながら歩くことにした。どうでもいい話を少した後、そろそろいいかな、と水島は八重子に話を振った。

「仕事で何かあったの?」

本心では誰かに話を聞いてほしかった八重子は、一気にしゃべり始めた。

──
重要な資料の翻訳を間違えてしまった。それ自体は思ったほど責められなかったが、しばらく落ち込んだ。気を取り直し、英語を勉強しなければと頑張ることにした。

翌日、社長の海外出張の手配をしようとしたら、止められた。その仕事は英語でやり取りをするのだが、私ではなく、総務の茅田沙織に頼むという。彼女は帰国子女で、英語力が高いからだそうだ。英語力に関しては確かに彼女が上かもしれないが、本来、私がすべき仕事を知らない間に総務の子がやることになるなんて、とショックだった。

その昼休み、他部署の女子社員と昼食を取った時、衝撃の事実を知った。なんと経理の加奈が、沙織に英語関係の仕事をやらせるようにしたらどうかと社長に進言したというのだ。しかも、加奈のおかげで私が楽できたのだ、と得意そうに言いふらしていた。

そんなことを頼んだ覚えはない。そして沙織は、面倒な仕事を押し付けられて、明らかに嫌そうにしている上に、私に仕事を押し付けられたと勘違いしている。
──

「加奈さんたら、頼んでもいないのに社長に提案なんて……。社長も社長よ。私に何も言わずに勝手に仕事を他の人に振ってしまうなんて、ひどいわ」

吉田加奈は水島も知っていた。本人がいないところで、中心になって八重子の噂話をしていた子だ。八重子のために社長に提案したのかは、疑わしいところだ、と水島は思った。

他にもあった。山田は、八重子の仕事が早いのをいいことに、大量の指示を出していた。水島が詳しく聞いてみると、2人分とも思えるくらいの仕事量だった。頑張り屋で完璧主義の八重子は、それに応えようとしていたのだ。

「そんなことがあったのか。全然、気づかなかったよ。でも瀬戸さん、それは明らかにやりすぎだよ。君は十分やっている。でも、それが原因で時間がなくて、翻訳のミスをしてしまったのも事実だろう? できないことはできないとはっきりというのも、大事だと思うよ」

「でも、大きな失敗をしてしまったんです。社長の信用が落ちてしまったから挽回しなきゃ……。そうそう、社長の大事な花瓶も割ってしまったんですよ。それから、ランチの女の子たちが話しているのが聞こえたんです。加奈さんたら、私の失敗を楽しそうに話していて、本当に悔しくて──」
八重子はますますヒートアップしていく。

 水島は思わず八重子を抱きしめた。
「分かった。分かった」
八重子は水島の腕の中で、せきを切ったように泣きじゃくった。

まさか、うまくいっていないどころか、ここまで悩んでいたとは。心から申し訳なく思った。と同時に、八重子の事が愛おしくなった。八重子は優しくて繊細なのだ。このままでは壊れてしまうかもしれない。オレが八重子を守ってやらなければ、と水島は誓った。

その場で自分の気持ちも伝えたいところだったが、今の状態の八重子には言えそうもない。八重子が落ち着くまで話を聞き、適当なところまで送り届けるに留めた。

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