「なりたい」と「ありたい」は何が違うのか(やさしくなりたい)
斉藤和義は歌いました「やさしくなりたい」と。。。ここに日本語の面白さが現れているなぁと感じるのです☺️
やさしく「なる」は、実は「なる」までのプロセスに対する言及で「なったあと」には触れていません。つまりこのタイトルだけでは「やさしくなった」あとに「めっちゃヒドい人になる」ことも可能なのです(ほぼイチャモンに近い🙄)
ある時ふと思ったんですよね。
「やさしくありたい」じゃなくて「やさしくなりたい」なんだ。。。って。
「やさしくなりたい」とは、言い換えると「今はやさしくない」である表現とも言えます。「やさしくない人」が「やさしい人」になるまでのプロセスを話題にしているような言葉です。
ならこれが「やさしくある」だと、どう捉えられるでしょう?
僕は「ある」は二つの性質を持つと感じています。
それが「いまここ」と「永遠性」です。
「やさしくある」と言えば「いまこの瞬間の自分がやさしくある」ことであるのが最初に感じる意味かもしれません。同時に「未来に至るまでずっと自分がやさしくある」ことも指すかもしれないなぁと思ったのです。
「ある」と表現することで「瞬間」と「継続的時間軸」の二つを示してしまう。この時間感覚が面白いなぁと感じているのです。
だからきっと、実は英語に翻訳するときのBeingって表現はちょっと違うんでしょうね。BeingはBeingであり、あり方はあり方である。ホントは翻訳できない感覚のような気もするのです。
と、「やさしくなりたい」から「なる」と「ある」を掘り下げてみました。こういうテーマに面白さを感じているのです☺️☺️
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