【他者と働く】読書会から掘り下げた次の「問い」
11/3(日)、CDSの活動スタートの企画として「他者と働く」の読書会を行いました。多様な参加者の皆さんにご参加いただきありがとうございました。
さて、CDSとして活動していくスタートとしてなぜこの「他者と働く」をテーマとして読書会を開催したのか。
「つながる」ことそのものの価値は、おそらく多くの方が感じていることと思います。しかし、なぜつながることに価値があるのか、あるいはそもそも「つながる」とは一体どんな状態であるのかを解像度高く語ることは難しいです。
「つながる」に対して価値を感じていながら、「つながる」が何なのか分かっていない。どんな「つながる」がどんな意味を持つのか。十把一絡げに語ることができるものなのかも分からない。
その解像度を高めていくための一つのヒントがこの本にあるのでは?と感じたことがキッカケでした。
この本では「分かり合う」ことの難しさや、そもそもの誤解が生じる要因を「ナラティヴ」という角度から紐解いています。
溝に気づく(相手のナラティヴと自分のナラティヴとの間の溝)
溝の向こうを眺める(相手の言動や状況を見聞きし、溝の位置や相手のナラティヴを探る)
溝を渡り橋を設計する(溝を飛び越えて、橋が架けられそうな場所や架け方を探る)
溝に橋を架ける(実際に行動し、橋(新しい関係性)を築く。新しい関係を通してさらに観察を続ける)
ナラティヴの溝について考えてみること。それを乗り越える橋をつくりだそうとすること。これは「つながる」という言葉を考えるときのヒントになるのではと感じたのです。
だからこそ「読書会」という場をとおして、このテーマを受け取った皆さんの経験や想いを交わし合うことで、「つながる」が何なのかを考えようと試みたのです。
一方で、この本を読みながら具体的方法論の部分で課題を抱えていました。 いかにして「自分のナラティヴを脇に置く」を実践するかです。
どうしても自分の認識のなかに自分のナラティヴを横に置ききれていない感覚がある。横に置いているつもりでも、それは単なる「つもり」に過ぎないのではないか。そもそもナラティヴが自分の人生を通して形成されてきたのであれば、認識の枠組み自体を横に置くことなど不可能じゃないのか。
ナラティヴを横に置くって、どうやって?
それが知りたかったことも、読書会を開催するにあたってのテーマでした。
「実際、難しいよね」という問いから始まってみた対話は、しかしどんどん掘り下げていくと「でも、こういうことはやってるよね」「こんなことを考えるようにしているよ」というそれぞれのアプローチが徐々に出始め、100%とはもちろん言わないまでも自身のナラティヴを脇に置こうとするアプローチを個々人に取っていることが対話の中から十分に現れてきました。この試行錯誤の共有にこそ意味があるのかもしれません。
自分自身、「実感として他者のナラティヴ」は受け取るところまではいけない。この本にも「観察」という言葉が使われていたことからも分かるとおり、あくまでも実感を伴わない理解という範囲で他者のナラティヴを受け取っているのだと思います。
いや、そもそもその領域まで辿り着く必要はないと思われるかもしれませんが、しかし実感を伴わない状態で相手のナラティヴは果たして受け取れているんだろうかという疑問は相変わらず残っています。
程度問題にしてしまうのは少しズレているような気もしますが、自分のナラティヴのうち実際何割ぐらいを脇に置くことができているのか、その度合いに意識を向けてみてもいいのかもしれません。
あるいは、自分の中にある「どのナラティヴ」を脇に置くのか。仮にナラティヴを細分化できると考えてみて、そのなかで「決して脇に置けないナラティヴ」と「脇に置くことができるナラティヴ」について意識的になったうえでの、移動できるナラティヴを脇に置こうとする。ナラティヴの種類問題で考えてみるのもアリのように感じます。
一つ見えてきたことは、自分にとって、どのようなアプローチであればナラティヴを脇に置けるのかは、きっと人それぞれに異なっているということです。僕にとって自分のナラティヴ脇に置くことのできるアプローチは、他者にとってナラティヴを脇に置くことのできるアプローチとは限らない。
もしかしたら、一定の傾向でそのHOWを体系化できる可能性はあるけれども、しかしどんなアプローチが自分にフィットするのかは自分で実験を重ねてみるしかないのだとも感じました。
なぜそこまで考える必要があるのか。「他者と働く」はあくまでも組織の中におけるナラティヴの異なりを乗り越えていく方法論と受け取られています。実際にはもっともっと広く活用できるアプローチであるとも感じますが、しかしこれを組織の外に飛び出して、ビジネスの文脈から離れたところで実践しようとすると、もう一歩踏み込んだアプローチが必要かもしれないと感じるからです。
「働く」という言葉の範囲を広げてみましょう。私たちは生きていく中で多様な人々と協働している。ここまで含めて「他者と働く」であると捉えると、ナラティヴの溝はおそらくより大きく深いものになっているような気がします。
組織であれば共通の目的(例えばMVVなどや売上、事業継続など)は旗として立てやすい。しかし、そもそも旗の存在しない、旗などあり得ない状況の中で、しかしそれでもお互いのナラティヴの溝に橋をかけるために何が必要なのだろうと。そこを追いかけてみたいのです。
こういう状態にあるとき、「橋を架ける必要性」自体はおそらく感じている人が多いはず。でも、実際に橋を架けていくためのエネルギーの多さに尻込みする。あるいは、橋を架けた先に何が存在するのかをイメージできません。
実際、架けた橋が何になるのかは表現できない。その橋自体が橋の当事者にとって意味を為すのかは分からない。でも、そんな橋がたくさん存在することが、誰かにとっての意味になる。それは社会にとっての意味だと言い換えることができるのかもしれません。
と、ここまでが「他者と働く」の読書会を通じて考えたことです。たくさんの気づきと、しかしその先にさらに深めていかないといけない道のりに気づきました。
さて、ではどうやってナラティヴの溝に橋をかけていくのか。
次のヒントになるのが「問い」ではないかと感じています。
実は「問いのデザイン」という有名な本の中で「他者と働く」のナラティヴに橋を架けていくアプローチが引用されています。だからこそ次のテーマとして扱ってみたいと思ったわけでもあるのです。ナラティヴの溝を乗り越えていく、しかも一つの組織や共同体の枠組みを超えた領域で生じるナラティヴの溝に橋を架けていく、そのヒントが「問い」にある予感がする。
ではその「問い」とは、どんな「問い」なのか。
そのような「問い」は、どのように生み出されるのか。
そんなことを考えてみたいと思います。
なお、次回は読書会という形式よりも、さらにライトに本を持っていなくても参加でき、考えることのできるフォーマットを考えています。(とは言えイイ本なので興味ある方はぜひ入手してみてください。)
改めてご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。
また、この活動に興味を持っていただいた方はぜひCDSのマガジンをフォローしてください。読書会に限らずさまざまな企画を実施していきますので、ぜひ追いかけていただければと思います。