【気づき】屋号を手放す、専門性を主体的に「持たない」選択が有り得てしまう。
この気づきは、僕にとって劇薬かもしれない。
万人に向けたものでは、全くないです。
僕自身に生じた、おそらくは大変珍しい類の違和感に対して僕自身がどう答えを見つけ出すのかというプロセスです。「気づきはじめた」ことについて、書き散らしていきます。
01.屋号をアップデートする感覚の起こり
一年前〜半年前ぐらいからなんとなく「そろそろ屋号を変えるかも」という感覚が自分の中に芽生え始めてきていました。あ、またこの感覚がきたなと、自分の中に何度か生じた感覚です。
フリーランスになったのが2016年のこと、当初は個人名で活動していたけど、そのうちにどんな価値を自分が生み出すのかを表現したくなりIdea Sculptorと言う名前を見つけ出しました。たしか2018年ぐらいだったと思います。
しかしある時期に自分のあり方に対する疑問が生じてきて、そこから屋号をアップデートしようと模索しました。その結果、見つけたのがいま掲げている「突破計画」という屋号です。これにアップデートしたのが2020年の11月ごろです。
僕にとっての屋号とは「他人にどう思ってもらいたいか」という性質以上に「自分がどうあるか」を規定するものでした。その屋号を毎日目にすることで「そういう自分になっていく」ことができる。他人からの印象や評価はその結果論です。
で、ここ最近の自分の中に一つの予感として「そろそろ屋号を変えるかも」という発想が生まれ始めたんですよね。ただ、この感覚の芽生えとともに考えていたことは「次はどんな言葉を屋号として掲げるんだろうな」というモノでした。あくまでも掲げるものを変えるだけ、掲げるという行為そのものは変えない。そんなつもりでいたんです。
でも、この数日で自分の中に芽生え始めた感覚が、自分にとっても全く予想外な方向性を提示してくれています。まだその結論に至るかどうかは分かりません、あくまで可能性の一つ。でも、その可能性は今まで自分の中に全く入ってこなかった選択肢。突然生じたその選択肢に自分自身が驚くと同時に、何か腹落ち感もあるような気がしています。
勿体ぶるなと言われそうですね。
屋号は掲げずに、名前で活動するという選択肢が浮かんできたんです。
でも、これは「自分の名前で勝負する」みたいな感覚とは全く違います。自分の名前を自分の認識から解き放って、ある意味で公的なモノ・公器として扱っていくという発想です。自己に軸を置いたがゆえの自分の名前ではなく、社会に軸を置いたがゆえの名前です。
フリーランスになった当初は「自分の名前で勝負する」とか「名前を覚えてもらう」ことの重要性を殊更色んな人から聞いていました。実際、自分でもそのように動いていたと思います。「自分自身が商材だ」と言わんばかりのスタンスで名前を押し出していた。そんなあり方に違和感が生じたがゆえの最初の屋号への変化だったのですが、しかしこの感覚とは全く違います。
02.軸とか専門性とか、定めてしまうことで起こること
さて、この発想に大きく影響を与えていそうな僕のモノの捉え方について、ちょっと掘り下げておく必要がありそうです。
実は、「専門性」追求に対する違和感がすごくありました。
「何者か」を定義しようとする行為に対する違和感がすごくありました。
あくまでコレは自分自身に対する感覚なので、他の方が専門性を追求することはそれ自体が素晴らしいことだと思います。そこは誤解なきようお伝えしておきますね。僕が僕に対して思っていること。
果たして本当に専門性を持たなければいけないのか。
もしかすると、専門性は僕にとって呪縛なのかもしれない。
この違和感は、そもそも世間で言うようなスペシャリスト/ゼネラリスト議論なのかと言えば、それも全然違っている感覚。僕自身、自分のことをスペシャリストと認知したことはないですが、逆にどう考えてもゼネラリストではないとも感じています。めっちゃ凸凹。もっと言うとスペシャリストともゼネラリストとも自分自身を「捉えたくない」感覚がずっとありました。
この感情の背景にあったのが、言語で認識を固定化することで自分の認識を自分で越えられなくなってしまうジレンマです。
言葉にした瞬間、その瞬間の自分の認識の世界観でしか捉えられなくなってしまう。でも自分はどんどん変化している、色んなモノを自分に取り込んでいる、なのに軸がずっと言葉にした瞬間に留まっている。
突破計画と名をつけた2020年11月から、自分はどんどん変化しているはずなのに、言葉にした瞬間の自分の認識に囚われてしまっている。このギャップは時間が経てば経つほどに拡大していく。突破計画という名がもたらした「あり方」は2020年の時点の自分が描くことのできるあり方です。しかしそれは2024年の時点の自分が描くことのできるあり方ではない。名前が過去に自分を置き去りにする、そんな感覚を抱いていました。
03.フリーランスと自由とは
よく僕はフリーランスという生き方について、こう言葉にします。
「フリーランスって、極論何をしてもいいんですよ」と。
実際、そうなんですよね。自分が何者で何屋かを定義する「必要性」はあったとしても「必然性」はない。
できるんなら、自分が納得しているなら、どんな仕事をしてもいい。
今日デザインして、明日販売員をして、明後日外部人事して、明々後日は調査員をしてもいい。
そんな「自由さ」が僕にとってはフリーランスという生き方の持つ意味でした。
でも、フリーランスって自由なはずなのに、「何をしてもいいんです、どんな仕事をしてもいいはず」って言ってるのに、自分を固定化させる「言葉」を使ってしまう。言葉で自分を定義することで自分の求めた自由さを自ら手放してしまっているのかもしれないと思うようになったのです。
●自由という言葉をどう捉えているか
そもそも「自由」と言う言葉をどう捉えているのか、コレ自体がきっと他の人とは違うかもしれません。
僕にとって「自由」であるとは「自分自身の認識からすらも、今すぐにでも自分を解き放つことができるしなやかさを常に持っていられること」だと、今の段階では捉えています。
実際にそうするかしないかは自分自身の選択に委ねられるが、しようと思うならば今すぐにでもそれができる状態、それが自由です。しかし自分の認識を自由にできなくしているのが、自分が過去に置いてきた言葉です。
半分冗談、半分本気で「来年何しているか分かりません」と言い続けてきました。
実際、この4月からの自分の動きは一年前の自分にはまず想像できないモノになっています。
この春から2つの大学で教員として関わり始めました。でも、「専門分野」という括りで言えば全く違う分野の2つの大学です。えっ!?、何が専門なんですか?って聞かれることもよくある。逆に「専門」という言葉で自分を捉えていないが故に起こっている状況のように感じます。そしてこの流れは加速させていきたい。
もしかすると、言葉で自分を定義することそのものから、自分を解き放たないといけないのかもしれない。現実が実際にそう動く中で、感覚が追いついてきたとも表現できそうです。
04.自分の名前を自分の持ち物でないと捉えてみる
しかし、そう考えていくと「屋号」を掲げてしまうこと自体が自分にとってはあり方からズレてしまう。ならばどうすればいいのだろう・・・とモヤモヤしていたところに唐突に降って湧いたアブダクション的な発想が、「公器としての自分の名前」という思考アプローチでした。
自分の名前を、自分のモノではなく、社会のモノと位置付けて考えてみる。
いやもう、ホント唐突に降って湧いてきた発想です。
自分の名前を自分の名前と捉えるのではなく、関係性の中に存在する名前と位置付ける。人間観の「分人思考」と似たようなところがあると思います。
相手との関係性によって自分自身が創出する価値は多様に変化しうる。だから自分の持っている絶対的価値などは存在せず、すべては相対性の中で「立ち上がってくる」モノであるという捉え方です。
もう、完全に一般的な「フリーランスやビジネスの価値創出の王道」からは逆張りもいいところかもしれませんね。何言ってんだコイツと思われた方、あなたの感覚が正しいと思います。
でも、その萌芽みたいなモノを、実は今の「突破計画」という屋号に行き着く際にすでに感じていました。ようやくあのときに感じた言語化できなかった感覚が表現できるようになってきた。
突破計画という屋号に行き着くまでに、実はかなりたくさんの方にヒアリングしたんです。それこそ僕のことをどう捉えているか、ビジネスにおいてどんな部分で価値を感じてくれているか、普段どんなところに期待しているかなど、実際にお仕事に関連してきた人や、お仕事関係ない関わりの方にも聞いてみたりしました。
そのとき、実はある人が評価する僕の価値創出のあり方と、また別の人が評価する僕の価値創出のあり方が結構違っていたんです。大きく分けると3つぐらいには分類できたけど、それが本質的なところで繋がっているかと言えばあまりそうも感じないような捉え方です。なので、この時は分類できななかで「心地よく、そうありたい」と思ったモノから屋号を導き出しました。それが突破という言葉であり、突破計画という屋号です。
でも、そうありたいと強く思ったわけではないあり方もまた自分の姿であり、そこに価値を感じていた人がいることも事実なんですよね。ただ、何かを「選ぶ」とか「絞る」ことをしなきゃいけないような気がしていて絞ったのがこのときでした。もし2020年の自分が「分人的発想」を持っていれば結論は違ったかもしれません。
●人間観としての分人的なあり方、生業としての分人的なあり方
とはいえ生業においての分人的なあり方と、人間観としての分人的なあり方はだいぶ異なります。
人間観的な分人のあり方は関係性によって自分が見せる姿はかなり固定されています。言わば「回らないルーレット」の分割数が関係性の数だけあるような状態です。
しかし生業においての分人的なあり方は「回るルーレット」です。Aさんに提供できる僕の持つ価値が①であったとして、しかしこのAー①の関係性が固定化されているわけではなくAー②もAー③もあり得るのが生業においての分人的なあり方です。
人間観における分人的なあり方は多くがAー①、Bー②、Cー③と固定的です(もちろん変化することもありますが)。この違いは結構大きいです。
05.自分の名前を「どこ」に位置付けるか
さて、分人的な発想だけで生業を見つめるのであれば、まだ軸は「自分」にあります。その自分が「唯一無二の絶対的自分」であるか「関係性によって変化する分割された自分」であるかだけの違いです。どちらであっても軸が「自分」にあることは変わりない。
しかし、この思考をもっと揺さぶり、自分を「関係性」の中に溶け込ませていくように捉えてみます。すると自分の名前は関係性の中に現れる言葉になります。それはもはや自分という人間を表現する言葉ではなく、関係性の中に現れる「現象」を表現する言葉になっていく。
関係性はつながる相手によって変わるから、その性質も変わっていく。ここは自分に軸がある分人と変わらないようですが、フォーカスしているポイントが関係性になる。そして関係性の総体は「社会」です。そう捉えていくと、自分の名前が自分という認識そのものから離れ、社会の中の「関係性」を表現する言葉になっていく。
この捉え方で社会を見つめると、一つの関係性だけで閉じているわけではなく自分の持つあらゆる関係性が社会の中に網のように存在し、その関係性がものすごい数を伴って存在することによって「新しい意味」が社会の中に新たに立ち上がる。すんごいエフェクチュエーション的な考え方であるようにも感じます。
ああ、そうか。こういう捉え方もできるんだ。こういう捉え方をしていくと「可能性が可能性として存在できる状態」を作ることができるんだ、可能性が可能性として存在できる状態だからこそ自由なんだ、そう感じたのです。
06.劇薬をどう自分に取り込んでいくか
こういう生き方、価値創出のあり方って、まだ体系化されてないような気がします。きっと、「先人」と言えるような人はたくさんいると思うのですが、体系だったものにはなってないと思います。
まだ、実際にそうするかは分かりません。でも、この思考実験は自分にとってかなりの劇薬になったかもしれない。
変化を受け容れている生き方であり、変化の種が芽生えるような動き方である。自分の名前を「どこに位置付けるか」で、こんなに世界の捉え方が変わるのかと、ちょっと驚きました。
まだまだ纏まっていないため要領を得ない言葉を連ねてしまいました。ほぼ怪文書です。でも、ちょっと深掘りしても面白いかもしんない。そう感じるのです。