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吉川英治『三国志』新聞連載版(9)義盟

前章「三花一瓶(さんくわいつぺい)」へ

(一)

  桃園へ行つてみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇つて来て、園内の中央に、もう祭壇を作つてゐた。
 壇の四方には、笹竹を建て、清縄(セイジヤウ)を繞(めぐ)らして金紙銀箋の華をつらね、土製の白馬を贄(いけにへ)にして天を祭り、烏牛を屠つた事にして、地神を祠(まつ)つた。
「やあ、おはやう」
 劉備が声をかけると、
「おゝ、お目ざめか」
 張飛、関羽は、振向いた。
「見事に祭壇が出来ましたなあ。寝る間はなかつたでせう」
「いや、張飛が、興奮して、寝てから話しかけるので、ちつとも眠る間はありませんでしたよ」
 と、関羽は笑つた。
 張飛は劉備のそばへ来て、
「祭壇だけは立派にできたが、酒はあるだらうか」
 心配して訊ねた。
「いや、母が何とかしてくれるさうです。今日は、一生一度の祝ひだと云つてゐますから」
「さうか、それで安心した。然(しか)し劉兄、いゝおつ母さんだな。ゆうべから側(そば)で見てゐても、羨しくてならない」
「さうです。自分で自分の母を褒めるのも変ですが、子に優しくて、世に強い母です」
「気品がある、どこか」
「失礼だが、劉兄には、まだ夫人(おくさん)はないやうだな」
「ありません」
「はやくひとり娶らないと、母上がなんでもやつて居る様子だが、あのお年で、お気の毒ではないか」
「…………」
 劉備は、そんな事を訊かれたので、又ふと、忘れてゐた白芙蓉の佳麗なすがたを思ひ出してしまつた。
 で、つい答へを忘れて、何となく眼をあげると、眼の前へ、白桃の花びらが、霏々(ヒヒ)と情有るものゝやうに散つて来た。
「劉備や。皆さんも、もうお支度はよろしいのですか」
 厨(くりや)に見えなかつた母が、いつの間にか、三名の後(うしろ)に来て告げた。
 三名が、いつでもと答へると、母は又、いそ/\と厨房の方へ去つた。
 近隣の人手を借りて来たのであらう。きのふ張飛の姿を見て、きやつと魂消(たまげ)て逃げた娘も、その娘の恋人の隣家(となり)の息子も、ほかの家族も、大勢して手伝ひに来た。
 やがて先(ま)づ、一人では持てないやうな酒瓶(さけがめ)が祭壇の莚(むしろ)へ運ばれて来た。
 それから豚の児(こ)を丸ごと油で煮たのや、山羊の吸物の鍋や、干菜を牛酪で煮つけた物だの、年数のかゝつた漬物だの——運ばれてくる毎(ごと)に、三名は、その豪華な珍味の鉢や大皿に眼を奪はれた。
 劉備さへ、心のうちで、
「これは一体、どうしたことだろう」
 と、母の算段を心配してゐた。
 そのうちに又、村長の家から、花梨(カリン)の立派な卓と椅子が担(かつ)がれて来た。
「大饗宴だな」
 張飛は、子どものやうに、歓喜した。
 準備ができると、手伝ひの者は皆、母屋へ退がつてしまつた。
 三名は、
「では」
 と、眼を見合せて、祭壇の前の蓆(むしろ)へ坐つた。そして天地の神へ、
「われらの大望を成就させ給へ」
 と、祈念しかけると、関羽が、
「御両所。少し待つてくれ」
 と、何か改まつて云つた。
[47]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月20日(金)付夕刊掲載

(二)

 「こゝの祭壇の前に坐ると同時に、自分はふと、こんな考へを呼び起されたが、両公の所存は何(ど)んなものだらうか」
 関羽は、さう云ひ出して、劉備と張飛へ、かう相談した。
 総(すべ)て物事には、体(タイ)を基(もと)とする。体形を整へてゐない事に成功はあり得ない。
 偶然、自分たち三人は、その精神に於て、合致を見、けふを出発として、大事を為さうとするものであるが、三つの者が寄り合つただけでは、体を為してゐない。
 今は、小なる三人ではあるが、理想は遠大である。三体一心の体を整へ置くべきではあるまいか。
 事の中途で、仲間割れなど、よく有る例である。さういふ結果へ到達させてはならない。神をのみ禱(いの)り、神をのみ祀(まつ)つても、人事を尽さずして、大望の成就はあり得べくもあるまい。
 関羽の説く所は、道理であつたが、偖(さて)どういふ体を備へるかと成ると、張飛にも劉備にもさし当つて何の考へもなかつた。
 関羽は、語をつゞけて、
「まだ兵はおろか、兵器も金も一頭の馬すら持たないが、三名でも、こゝで義盟を結べば、即座に一つの軍である。軍には将がなければならず、武士には主君がなければならぬ。行動の中心に正義と報国を奉じ、個々の中心に、主君を持たないでは、それは徒党の乱に終り、烏合の衆と化してしまふ。——張飛もこの関羽も、今日まで、草田(サウデン)に隠れて時を待つてゐたのは、実に、その中心たるお人が容易にない為だつた。折ふし劉備玄徳といふ、しかも血統の正しいお方に会つたのが、急速に、今日の義盟の会となつたのであるから、今日只今、こゝで劉備玄徳どのを、自分等(ら)の主君と仰ぎたいと思ふが、張飛、おまへの考へは何(ど)うだ」
 訊くと、張飛も、手を打つて、
「いや、それは拙者も考へてゐたところだ。いかにも、兄(ケイ)の云ふ通り、極(きめ)るならば、今こゝで、神に禱るまへに、神へ誓つたはうがよい」
「玄徳様、ふたりの熱望です。御承知くださるまいか」
 左右から詰(つめ)よられて、劉備玄徳は、黙然と考へてゐたが、
「待つて下さい」
 と、二人の意気ごみを抑へ、猶(なほ)やゝ暫く沈思してから、身を正して云つた。
「なる程、自分は漢の宗室のゆかりの者で、さうした系図からいへば、主たる位置に坐るべきでせうが、生来鈍愚、久しく田舎(デンシヤ)の裡(うち)にひそみ、まだ何も各々の上に立つて主君たるの修養も徳も積んでをりませぬ。どうか今暫く待つて下さい」
「待つてくれと仰つしやるのは」
「実際に当つて、徳を積み、身を修め、果たして主君となるの資才がありや否や、それを自身も貴方達(あなたたち)も見届けてから約束しても、遅くないと思はれますから」
「いや。それはもう、われわれが見届けてあるところです」
「左(さ)は云へ、私は猶、憚られます。——ではかうしませう。君臣の誓ひは、われわれが一国一城を持つた上として、こゝでは、三人義兄弟の約束を結んでおく事にして下さい。君臣となつて後も、猶三人は、末永く義兄弟であるといふ約束をむしろ私はしておきたいのですが」
「うむ」
 関羽は、長い髯を持つて、自分の顔を引つ張るやうに大きく頷いた。
「結構だ。張飛、おぬしは」
「異論はない」
 改めて三名は、祭壇へ向つて牛血と酒をそゝぎ、額(ぬか)づいて、天地の神祇(シンギ)に黙禱をさゝげた。
[48]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月21日(土)付夕刊掲載

(三)

  年齢からいへば、関羽がいちばん年上であり、次が劉備、その次が張飛といふ順になるのであるが、義約のうへの義兄弟だから年順を践(ふ)む必要はないとあつて、
「長兄には、どうか、貴郎(あなた)がなつて下さい。それでないと、張飛の我儘にも、圧(おさ)へが利きませんから」と、関羽が云つた。
 張飛も、共々、
「それは是非、さうありたい。いやだと云つても、二人して、長兄長兄と崇(あが)めてしまふからいゝ」
 劉備は強(し)ひて拒(いな)まなかつた。そこで三名は、鼎座して、将来の理想をのべ、刎頸の誓ひをかため、やがて壇を退(さが)つて桃下の卓を囲んだ。
「では、永く」
「変るまいぞ」
「変らじ」
 と、兄弟の杯を交(かは)し、そして、三人一体、協力して国家に報じ、下万民の塗炭の苦を救ふを以(もつ)て、大丈夫の生涯とせんと申し合つた。
 張飛は、すこし酔うて来たとみえて、声を大にし、杯を高く挙げて、
「ああ、こんな吉日はない。実に愉快だ。再び天に云ふ。われらここに在(あ)るの三名。同年同月同日に生まるゝ事を希(ねが》わず、願はくば、同年同月同日に死なん」
 と、呶鳴つた。そして、
「飲まう。大いに、けふは飲まう——ではありませんか」
 などと、劉備の杯へも、やたらに酒を注(つ)いだ。さうかと思ふと、自分の頭を、独りで叩きながら
「愉快だ。実に愉快だ」
 と、子供みたいに叫んだ。
 餘り彼の酒が、上機嫌に発しすぎる傾きが見えたので、関羽は、
「おいおい、張飛。今日の事を、そんなに歓喜してしまつては、先の歓びは、どうするのだ。今日は、われら三名の義盟ができただけで、大事の成功不成功は、これから後の事ぢやないか。少し有頂天になるのが早すぎるぞ」
 と、たしなめた。
 だが、一たん上機嫌に昇つてしまふと、張飛の機嫌は、なか/\水をかけても醒めない。関羽の生真面目を、手を打つて笑ひながら、
「わはゝゝゝ、今日かぎり、もう村夫子は廃業したはずぢやないか。お互(たがひ)に軍人だ。これからは天空海闊に、豪放磊落に、武人らしく交際(つきあ)はうぜ。なあ長兄」
 と、劉備へも、すぐ馴々(なれ/\)と云つて、肩を抱いたりした。
「さうだ。さうだ」
 と、劉備玄徳は、にこにこ笑つて、張飛のなすがまゝになつてゐた。
 張飛は、牛の如く飲み、馬の如く喰(くら)つてから、
「さうさう。こゝの席に、劉母公がゐないという法はない。われわれ三人、兄弟の杯をしたからには、俺にとつても、尊敬すべきおつ母さんだ。——ひとつおつ母さんをこれへ連れて来て、乾杯し直さう」
 急に、そんな事をいひ出すと、張飛はふら/\母屋のはうへ馳けて行つた。そして軈(やが)て、劉母公を、無理に、自分の背中へ負つて、ひよろ/\戻つて来た。
「さあ、おつ母さんを、連れて来たぞ。どうだ、俺は親孝行だらう——さあおつ母さん、大いに祝つて下さい。われ/\孝行息子が三人も揃ひましたからね——いやこれは、独りおつ母さんに取つて祝すべき孝行息子であるのみではない。支那の——国家に取つてもだ、われわれかう三名は、得難い忠良息子ではあるまいか——さうだ、おつ母さんの孝行息子万歳。国家の忠良息子万歳つ」
 そしてやがて、かう三人の中では、酒に対しても一番の誠実息子たるその張飛が、まづ先に酔ひつぶれて、桃花の下に大鼾声(おほいびき)で寝てしまひ、夜露の降(おり)る頃まで、眼を醒まさなかつた。
[49]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月22日(日)付夕刊掲載

(四)

  大丈夫の誓ひは結ばれた。然(しか)し徒手空拳とはまつたくこの三人の事だつた。しかも志は天下に在る。
「さて、何(ど)うしたものか」
 翌日(あくるひ)はもう酒を飲んでたゞ快哉を云つてゐる日ではない。理想から実行へ、第一歩を踏出す日である。
 朝飯を喰べると、すぐその卓の上で、いかに実行へかゝるかの問題が出た。
「何(ど)うかなるよ。男児が、しかも三人一体で、やらうとすれば」
 張飛は、理論家でない。又計画家でもない。遮二無二、実行力に燃える猪突邁進家なのである。
「何(ど)うかなるつて、たゞ貴公のやうに、力んでばかりゐたつて何(ど)うもならん。先(ま)づ、一郡の土を持たんとするには、一旗(イツキ)の兵が要る。一旗の兵を持つには、尠(すくな)くも相当の軍費と、兵器と、馬とが必要だな」
 が、関羽は、常識家であつた。二人のことばを飽和すると、そこにちやうどよい情熱と常理との推進力が醸されてくる。
 劉備は、その何(いづ)れへも、頷きを与えて、
「さうです。かう三人の一念を以(もつ)てすれば、必ず大事を成し得る事は目に見えてゐますが、さし当つて、兵隊です。——これをひとつ募りませう」
「馬も、兵器も、金もなく、募りに応じて来る者がありませうか」
 関羽の憂ひを、劉備はかろく微笑を以て打消し、
「いさゝか、自信があります。——と云ふのは、実はこの楼桑村の内にも、平常からそれとなく、私が目にかけて、同憂の志を持つてゐる青年たちが少々あります。——又、近郷に亘(わた)つて、檄を飛ばせば、恐らく今の時勢に、鬱念を感じてゐる者も尠くはありませんから、屹度(きつと)、三十人や四十人の兵はすぐできるかと思ひます」
「成程」
「ですから、恐れ入るが、関羽どのゝ筆で、一つ檄文を起草して下さい。それを配るのは、私の知つてゐる村の青年にやらせますから」
「いや、手前は、生来悪文の質(たち)ですから、ひとつそれは、劉長兄に起草していたゞかう」
「いゝや貴方(あなた)は多年塾を持つて、子弟を教育してゐたから、さういふ子弟の気持を打つことは、よくお心得の筈だ。どうか書いて下さい」
 すると張飛が側(そば)から云つた。
「こら関羽、怪(け)しからんぞ」
「何が怪しからん」
「長兄劉玄徳のことば、主命の如く反(そむ)くまいぞ、昨日、約束したばかりぢやないか」
「やあ、これは一本、張飛にやられたな、よし早速書かう」
 飛檄はでき上つた。
 なか/\名文である。荘重なる慷慨の気と、憂国の文字は、読む者を打たずに措かなかつた。
 それが近郷へ飛ばされると、やがての事、劉玄徳の破れ家の門前には、毎日、七名十名づゝとわれこそ天下の豪傑たらんとする熱血の壮士が集まつて来た。
 張飛は、門前へ出て、
「お前達は、われ/\の檄を見て、兵隊にならうと望んで来たのか」
 と、採用係の試験官になつて、いち/\姓名や生国や、又、その志を質問した。
「さうです、大人(タイジン)がたのお名前と、義挙の趣旨に賛同して、旗下に馳せ参じて来た者共です」
 壮士等は異口同音に云つた。
「さうか、どれを見ても、頼もしい面魂(つらだましい)、早速、われわれの旗挙(はたあげ)に、加盟をゆるすが、然(しか)しわれ等の志は、黄巾賊の輩(ハイ)の如く、野盗掠奪を旨とするのとは違ふぞ。天下の塗炭を救ひ、害賊を討ち、国土に即した公権を確立し、やがては永遠の平和と民福を計るにある。分つてをるかそこのところは!」
 張飛は、一場の訓示を垂れて、それから又、次のやうに誓はせた。
[50]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月24日(火)付夕刊掲載

(五)

 「われわれの旗下に加盟するからには、即ち、われわれの奉じる軍律に伏さねばならん。今、それを読み聞かす故、謹んで承(うけたまは)れ」
 張飛は、志願して来た壮士たちへ云つて恭しく、懐中(ふところ)から一通を取出して、声高く読んだ。
  一 卒(ソツ)たる者は、将たる者に、絶対の服従と礼節を守る。
  一 目前の利に惑はず。大志を遠大に備ふ。
  一 一身を浅く思ひ、一世を深く思ふ。
  一 掠奪断首。
  一 虐民極刑。
  一 軍紀を紊(みだ)る行為一切死罪。
「わかつたかつ」
 餘り厳粛なので、壮士たちも、暫く黙つてゐたが、軈て、
「分りました」
 と、異口同音に云つた。
「よし、然(しか)らば、今よりそれがしの部下として用ひてやる。たゞし、当分の間は、給料もつかはさんぞ。又、食物其他も、お互ひに有る物を分けて喰(く)ひ、一切不平を申すことならん」
 それでも、募りに応じてきた若者輩(わかものばら)は、元気に兵隊となつて、劉備、関羽等の命に服した。
 四、五日のうちに、約七八十人も集まつた。望外な成功だと、関羽は云つた。
 けれど、すぐ困り出したのは食糧であつた。故に、一刻もはやく、戦争をしなければならない。
 黄匪の害に泣いてゐる地方はたくさんある。まづその地方へ行つて、黄巾賊を追つぱらふ事だ。その後には、正しい税と食物とが収穫される。それは掠奪でない。天祿(テンロク)だ。
 すると一日(あるひ)。
「張将軍、張将軍。馬がたくさん通りますぞ、馬が」
 と、一人の部下が、こゝの本陣へ馳(か)けて来て注進した。
 何者か知らないが、何十頭といふ馬を珠数(ジユズ)なぎに曳(ひ)いて、この先の峠を越えて来る者があるといふ報告なのだ。
 馬と聞くと、張飛は
「そいつは何とか欲しいものだなあ」
 と正直に唸つた。
 実際今、喉から手の出るほど欲しい物は馬と金と兵器だつた。だが、義挙の軍律といふものを立てて部下にも示してあるので
「掠奪して来い」
 とは命じられなかつた。
 張飛は、奥へ行つて、
「関羽、かういふ報告があるが、何とか、手に入れる工夫はあるまいか。実に天の与へだと思ふのだが」
 と、相談した。
 関羽は聞くと
「よし、それでは、自分が行つて、掛合つてみよう」
 と、部下数名をつれて、峠へ急いで行つた。麓の近くで、その一行とぶつかつた。物見の兵の注進に過(あやま)りなく、成程、四、五十頭もの馬匹を曳いて、一隊の者が此方(こつち)へ下つて来る。近づいて見ると皆、商人ていの男なので、これなら何とか談合(はなしあひ)がつくと、関羽は得意の雄辯をふるふつもりで待構へてゐた。
 こゝへ来た馬商人(うまあきんど)の一隊の頭(かしら)は、中山(チウザン)の豪商でひとりは蘇双(ソソウ)、ひとりは張世平(チヤウセイヘイ)といふ者だつた。
 関羽は、それに説くに、自分等三人が義軍を興すに至つた、愛国の衷情を以(もつ)て、切々訴へた。今にして、誰か、この覇業を建て、人天の正明をたゞさなければ、この世は永遠の闇黒であらうと云つた。支那大陸は、遂に、胡北(コホク)の武民に征服され終るであらうと嘆いた。
 張世平と蘇双の両人は、何か小声で相談してゐたが、軈(やが)て
「よく分りました。この五十頭の馬が、さういふ事でお役に立てば満足です。差上げますからどうぞ曳いて行つて下さい」
 と、意外にも、潔く云つた。
[51]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月25日(水)付夕刊掲載

(六)

  いづれ易々とは承知しまい。最悪な場合までを関羽は考えてゐたのである。それが案外な返辞に
「ほ。……いや忝(かたじ)けない。早速の快諾に、申しては失礼だが、利に敏(さと)い商人たるお身等が、どうしてさう一言の下に、多くの馬匹を無料でそれがしへ引渡すと云はれたか」
 懸合(かけあひ)に来た目的は達してゐるのに、かう先方へ要らざる念を押すのも妙なはなしだと思つたが、餘り不審なので、関羽はかう訊ねてみた。
 すると、張世平は云つた。
「はゝゝゝ。餘りさつぱりお渡しすると云つたので、かへつてお疑ひとみえますな。いや御もつともです。けれど手前は、第一にまづ大人(タイジン)が悪人でない事を認めました。第二に、御計画の義兵を挙げる事は、頗(すこぶ)る時宜を得てをると存じます。第三は、貴郎方(あなたがた)のお力をもつて、自分等の恨みをはらしていたゞきたいと思つたからです」
「恨みとは」
「黄巾賊の大将張角一門の暴政に対する恨みでございます。手前も以前は中山で一といつて二と下らない豪商といはれた者ですが、彼(か)の地方も御承知の通り黄匪の蹂躙に会つて秩序は破壊され、財産は掠奪され、町に少女の影を見ず、家苑(カヱン)の小禽(ことり)すら啼かなくなつてしまひました。——手前の店なども一物もなく没収され、あげくの果(はて)に、妻も娘も、暴兵に攫(さら)はれてしまつたのです」
「むゝ。成程」
「で、甥の蘇双と二人して、馬商人(うまあきんど)に身を落し、市から馬匹を購入して、北国へ売りに行かうとしたのですが、途中まで参ると、北辺の山岳にも、黄賊が道を塞いで、旅人の持物を奪ひ、虐殺を恣(ほしいまゝ)にしてをるとの事に、空しく又、この群馬を曳(ひ)いて立帰(たちかへ)つて来たわけです。南へ行くも賊国、北へ赴くも賊国、かうして馬と共に漂泊してゐるうちには、遂に賊に生命まで共に奪はれてしまふのは知れきつてゐます。恨みのある賊の手に武力となる馬匹を与へるよりも、貴下の如きお志を抱く人に、進上申したはうが、遙かに意味のある事なんです。欣(よろこ)んで手前がお渡しする気持といふのは、そんなわけでございます」
「やあ、さうか」
 関羽の疑問も氷解して、
「では、楼桑村まで、馬を曳(ひ)いて一緒に来てくれないか。われわれの盟主と仰ぐ劉玄徳と仰つしやる人に紹介(ひきあは)せよう」
「おねがひ致します。手前も根からの商人ですから、以上申上げたやうな理由でもつて、無料で馬匹を進上しましても、やはりそこはまだ正直、利益の事も考へてをりますからな」
「いや、玄徳様へお目にかゝつても、唯今(ただいま)のところ、代金はお下げになるわけにはゆかぬぞ」
「そんな目先の事ではありません。遠い将来で宜しいので。……はい。もし貴郎(あなた)がたが大事を成し遂げて、一国を取り、十州二十州を平(たひら)げ、あはよくば天下に号令なさらうといふ筋書のとほりに行つたらば、私へも充分に、利をつけて、今日の馬代金を払つて戴(いたゞ)きたいのでございます。私は、貴郎の計画を聞いて、これが貴郎がたの夢ではなく、わたし共民衆が持つてゐたものであるといふ点から、きつと御成功するものと信じてをります。ですから、今日この処分に困つてゐる馬を使つて戴くのは、商人として、手前にも遠大な利殖の方法を見つけたわけで、まつたくこんな欣(よろこば)しい事はありません」
 張世平は、さう云つて、甥の蘇双と共に、関羽に案内されて従(つ)いて行つたが、その途中でも、関羽へ対して、かういふ意見を述べた。
「事を計るうへは、人物はお揃ひでございませうし、馬もこれで整ひました。これで一体、あなた方の御計画の内輪には、よく経済を切りまはして糧食兵費の内助の役目をする算数の達識が控へてゐるのでございますか。算盤(そろばん)といふものも、充分お考へのうへでこのお仕事にかゝつておいでゞ御座いますかな?」
[52]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月26日(木)付夕刊掲載

(七)

  張世平に、さう指摘されてみると、関羽は、自分等の仲間に、大きな缺陥(ケツカン)のあるのを見出した。
 経営といふ事であつた。
 自分は元より、張飛にも劉玄徳にも、経済的な観念は至つてない。武人銭を愛さずといつたやうな思想が甚(はなは)だ古くから頭の隅に有る。経済といへばむしろ卑しみ、銭といへば横を向くを以(もつ)て清廉の士とする風が高い。一箇の人格にはそれも高風と仰ぎ得るが、国家の大計となればそれでは不具を意味する。
 一軍を持てばすでに経営を思はねばならぬ。武力ばかりで膨らまうとする軍は暴軍に化しやすい。古来、理想はあつても、その為、暴軍と堕(ダ)し、乱賊と終つた者、史上決して尠(すくな)くない。
「いや、いゝ事を聞かしてくれた。劉玄徳様にも、大いに、その辺の事をはなして貰ひたいものだ」
 関羽は、正直、教へられた気がしたのである。一商人のことばと雖(いへど)も、これは将来の大切な問題だと考へついた。
 軈(やが)て、楼桑村に着く。
 関羽は直ぐ張世平と蘇双のふたりを、劉玄徳の前へつれて来た。勿論、玄徳も張飛も、張の好意を聞いて非常によろこんだ。
 張は五十頭の馬匹を、無償で提供するばかりでなく、玄徳に会つてから玄徳の人物を更に見込んで、それに加ふるに、駿馬に積んでゐた鉄一千斤と、百反の獣皮織物と、金銀五百両を挙げて皆、
「どうか、軍用の費に」
 と、献上した。
 その際も、張は云つた。
「最前も、途々(みち/\)、申しました通り、手前はどこ迄(まで)も、利を道とする商人です。武人に武道あり、聖賢に文道あるごとく、商人にも利道があります。御献納申しても、手前はこれを以(もつ)て、義心とは誇りません。その代り、今日さし上げた馬匹金銀が、十年後、廿年後には、莫大な利を生むことを望みます。——たゞその利は、自分一個で飽慾(ホウヨク)しようとは致しません。困苦の底にゐる万民にお頒(わか)ちください。それが私の希望であり、又私の商魂と申すものでございます」
 玄徳や関羽は、彼の言を聞いて大いに感じ、どうかしてこの人物を自分等の仲間へ留め置きたいと考へたが、張は、
「いやどうも私は臆病者で、迚(とて)も戦争なさる貴方(あなた)がたの中にゐる勇気はございません。何か又、お役に立つ時には出て来ますから」
 と云つて、倉皇(ソウクワウ)、何処ともなく立ち去つてしまつた。
 千斤の鉄、百反の織皮(シヨクヒ)、五百両の金銀、思ひがけない軍費を獲て、玄徳以下三人は、
「これぞ天の御援助」
 と、いやが上にも、心は奮ひ立つた。
 早速、近郷の鍛冶工(カヂコウ)をよんで来て、張飛は、一丈何尺といふ蛇矛(じやぼこ》を鍛(う)つてくれと註文し、関羽は重さ何十斤という偃月刀を鍛へさせた。
 雑兵の鉄甲、盔(かぶと)、槍、刀なども併せて誂(あつら)へ、それも日ならずして出来てきた。
 日月(ジツゲツ)の旗幟(キシ)。
 飛龍の幡(ハン)。
 鞍(くら)、鏃(やじり)。
 軍装はまづ整つた。
 その頃漸(やうや)く人数も二百人ばかりになつた。
 もとより天下に臨むには足りない急仕立の一小軍でしかなかつたが、張飛の教練と、関羽の軍律と、劉玄徳の徳望とは、一卒にまでよく行き亘(わた)つて、あたかも一箇の体のやうに、二百の兵は挙手踏足(キヨシユタフソク》、一音に動いた。
「では。——おつ母さん。行つて参ります」
 劉玄徳は、一日(あるひ)、武装して母にかう暇(いとま)を告げた。
 兵馬は、粛々、彼(か)の郷土から立つて行つた。劉玄徳の母は、それを桑の木の下からいつまでも見送つてゐた。泣くまいとしてゐる眼が湯の泉のやうになつてゐた。
[53]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月27日(金)付夕刊掲載

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竹内真彦
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