吉川英治『三国志』新聞連載版(11)檻車(かんしや)
(一)
義はあつても、官爵はない。勇はあつても、官旗を持たない。そのために玄徳の軍は、どこ迄(まで)も、私兵としか扱はれなかつた。
(よく戦つてくれた)
と、恩賞の沙汰か、犒(ねぎら)ひの言葉でもあるかと思ひのほか、休む遑(いとま)もなく
(こゝはもうよいから、広宗の地方へ転戦して、盧将軍を援(たす)けにゆけ)
という朱雋の命令には、玄徳は素直な質(たち)なので、承知して戻つたが、関羽も、張飛も、それを聞くと
「え。すぐに此処を立てといふんですか」
と、憤(む)つとした顔色(ガンシヨク)だつた。殊(こと)に張飛は、
「怪しからん沙汰だ。いかに官軍の大将だからといつて、そんな命令を、おうけして来る法があるものか。昨夜から悪戦苦闘してくれた部下にだつて、気の毒で、そんな事が云へるものか」
と、激昂し
「長兄は、大人しいもんだから、洛陽の都会人などの眼から見ると舐めやすいのだ。拙者が懸合つてくる」
と、剣を摑んで、朱雋の本営へ出かけさうにしたので、玄徳よりは、同じ不快を怺(こら)へてゐた関羽が
「まあ待て」
と、極力抑へた。
「こゝで、腹を立てたら、折角、官軍へ協力した意義も武功も、みな水泡に帰してしまふ。都会人て奴は、元来、吾儘(わがまゝ)で思ひ上がつてゐるものだ。然(しか)し、黙つてわれ/\が国事に尽してゐれば、いつか誠意は天聴にも達するだらう。眼前の利慾に怒るのは小人の業(わざ)だ。われわれは、もつと高い理想に向つて起つはずぢやないか」
「でも癪(シヤク)にさはる」
「感情に負けるな」
「無礼なやつだ」
「分つた。分つた。もうそれでいいだらう」
漸(やうや)く宥めて、
「劉兄。お腹も立ちませうが、戦場も世の中の一部です。広い世の中としてみればこんな事はありがちでせう。即刻、この地を引揚げませう」
ついでに関羽は、玄徳の憂鬱をもさう云つて慰めた。
玄徳は元より、さう腹も立つてゐない。怺へるとか、堪忍とか、二人は云つてゐるが、彼自身は、生来の性質が微温的にできてゐるのか、実際、朱雋の命令にしてもさう無礼とも無理とも思へないし、怒る程に、気色を害されてもゐなかつたのである。
兵には、一睡させて、せめて食糧もゆつくり摂(と)らせて、夜半から玄徳は、そこの陣地を引払つた。
きのふは西に戦ひ。
けふは東へ。
毎日、五百の手勢と、行軍をつづけてゐても、私兵のあぢけなさを、沁々(しみ/゛\)思はずにゐられなかつた。
部落を通れば、土民までが馬鹿にする。——その土民等(ら)を賊の虐圧と、悪政の下から救つて、安心楽土の幸福な民としてやらうといふ此軍の精神であるのに——その見すぼらしい雑軍的な装備を見て
「何ぢや。官軍でもなし、黄巾賊でもないのが、ぞろ/\通りよる」
などゝ、陽なたに手をかざし合つて、嘲弄するやうな眼をあつめながら見物してゐた。
けれど、先頭の玄徳、張飛、関羽の三人だけは、人目をひいた。偉風が道を払つた。土民等の中には土下座して拝する者もあつた。
拝されても、嘲弄されても、玄徳はいづれにせよ、気にかけなかつた。自分が畑に働いてゐた頃の気持を以て、土民の気持を理解してゐるからだつた。
[61]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月7日(火)付夕刊掲載
(二)
駒を並べて来る関羽と張飛とはまだ朱雋の無礼を思ひ出して、時時、腹が立つて来るものとみえ、官軍の風紀や、洛陽の都士人の軽薄を、頻(しき)りに声を大にして罵つてゐた。
「およそ嫌なものは、官爵を誇つて、朝廷の御威光を、自分の偉さみたいに、思ひ上がつてゐる奴だ。天下の紊(みだ)るゝは、天下の紊れに非ず、官の廃頽(ハイタイ)に拠るといふが、洛陽育ちの役人や将軍のうちには、あんなのが沢山ゐるのだらうて」
と、関羽が云へば
「さうさ。俺はよツぽど、朱雋の面へ、ヘドを吐きかけてやらうと思つたよ」
と張飛も云ふ。
「はゝゝゝ。貴公のヘドをかけられたら、朱雋も驚いたらうな。然(しか)し彼一人が官僚臭の鼻もちならぬ人間といふわけではない。漢室の廟堂そのものが腐敗してゐるのだ。彼は、その中に棲息してゐる時代人だから、その悪弊を持つてゐるに過ぎない」
「それやあ分つてゐるが、とにかく俺は、目前の事実を憎むよ」
「いくら黄匪を討伐しても、中央の悪風を粛正しなければ、ほんとのよい時代はやつて来まいな」
「黄巾の賊は猶(なほ)討つに易し。廟堂の鼠臣(ソシン)は遂に趁(お)ふも難し——か」
「その通りだ」
「考へれば考へるほど、俺たちの理想は遠い——」
道をながめ、空を仰ぎ、両雄は嘆じ合つてゐた。
少し前へ立つて、馬を進めてゐた玄徳は、二人の声高なはなしを先刻から後ろ耳で聞いてゐたが、その時、振顧(ふりかへ)つて、
「いや/\両人、そう一概に云つてしまつたものではない。洛陽の将僚のうちにも、立派な人物は乏しくない」
と、云つた。
玄徳は、言葉をつゞけて、
「たとへば先頃、野火の戦野で出会つて挨拶を交した——赤備への一軍の大将、孟徳曹操などゝいふ人物は、まだ若いが、人品といひ、言語態度といひ、寔(まこと)に見あげたものだつた。叡智の才を、洛陽の文化と、武勇とに磨いて、一箇の人格に飽和させてゐるところ彼など、真に官軍の将僚といつて恥かしからぬ者であらう。あゝいふ武将といふものは、やはり郷軍や地方の草莽のなかには見当らないと思ふな」
と、賞(ほ)めたゝへた。
それには、張飛も関羽も、同感であつたが、浪人の通有性として官軍とか官僚とかいふと、先づその人物の真価を観るより先に、その色や臭ひを嫌悪してかゝるので、玄徳にさう云はれる迄(まで)は、特に、曹操に対しても、感服する気にはなれなかつたのである。
「ヤ。旗が見える」
そのうちに、彼等の部下は、かう云つて指さし合つた。玄徳は、馬を止めて
「何が来るのだろうか」
と、関羽を顧みた。
関羽は、手をかざして、道の前方数十町の先を、眺めてゐた。そこは山陰になつて、山と山との間へ道が蜿(うね)つてゐるので、太陽の光も陰り、何やら一団の人間と旗とが、此方(こつち)へさして来るのは分るが官軍やら黄巾賊の兵やら——又、地方を浮浪してゐる雑軍やら、見当がつかなかつた。
だが、次第に近づくに従つて、漸(やうや)く旗幟がはつきり分つた。関羽が、それと答へた時には、従ふ兵等も口々に云ひ交してゐた。
「朝旗をたてゝゐる」
「アア。官軍だ」
「三百人ばかりの官軍の隊」
「だが、をかしいぞ、熊でも捕まへて入れて来るのか、檻車(カンシヤ)を曳(ひ)いて来るぢやないか」
[62]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月8日(水)付夕刊掲載
(三)
大きな鉄格子の檻である。車がついてゐるので驢に曳(ひ)かせる事ができる。まはりには、槍や棒を持つた官兵が、怖い目をしながら警固して来る。
その前に百名。
その後(うしろ)に約百名。
檻車を真ん中にして、七旒(シチリウ)の朝旗は山風に翻(ひるが)へつてゐた。そして、檻車の中に、揺られて来るのは、熊でも豹でもなかつた。膝を抱いて、天日に面(おもて)を俯せてゐる、あはれなる人間であつた。
ばら/\つと、先頭から、一名の隊将と、一隊の兵が、馳け抜けて来て、玄徳の一行を、頭から咎めた。
「こらつ、待てつ」
と言うたふうにである。
張飛も、ぱつと、玄徳の前へ駒を躍らせて、万一を庇(かば)ひながら
「何だつ、虫螻(むしけら)」
と、云ひ返した。
云はずともよい言葉であつたが、潁川以来、とかく官兵の空威(からゐ)ばりに、業腹(ごふはら)の煮えてゐたところなので、つい口を衝(つ)いて出てしまつたのである。
石は石を打つて、火を発した。
「何だと、官旗に対して、虫螻と云つたな」
「礼を知るを以て人倫の始まりと云ふ。礼儀をわきまへん奴は、虫けらも同然だ」
「だまれ、われわれは、洛陽の勅使、左豊卿(サホウキヨウ)の直属の軍だ。旗を見よ。朝旗が見えんか」
「王城の直軍とあれば、猶更の事である。俺たちも、武勇奉公を任じる軍人だ。私軍といへど、この旗に対し、こらつ待てとは何だ。礼を以て問へば、こちらも礼を以て答へてやる。出直して来い」
丈八の蛇矛を斜(シヤ)に構へて、刮(くわ)つとにらみつけた。
官兵は縮み上がつたものゝ、虚勢を張つたてまへ、退(ひ)きもならず、生唾をのんでゐた。玄徳は、眼じらせて、関羽にこの場を扱ふやうに促した。
関羽は、心得て
「あいや、これは潁川の朱雋・皇甫嵩の両軍に参加して、これより広宗へ引つ返して参る涿県の劉玄徳の手勢でござる。ことばの行きちがひ、この漢(カン)の短慮はゆるし給へ。——就(つい)ては又、貴下の軍は、これより何処(いづこ)へ参らるゝか。そして、あれなる檻車にある人間は、賊将の張角でも生擒(いけど)つて来られたのであるか」
詫びるところは詫び、糺(ただ)すところは筋目を糺して、質問した。
官兵の隊将は、それに、ほつとした顔つきを見せた。張飛の暴言も薬にはなつたとみえ、今度は丁寧に
「いやいや、あれなる檻車に押込めて来た罪人は、先頃まで、広宗の征野にあつて、官軍一方の将として、洛陽より派遣せられてゐた中郎将盧植でござる」
「えつ、盧植将軍ですつて」
玄徳は、思はず、驚きの声を放つた。
「されば。吾々には詳しい事も分らぬが、今度勅命にて下られた左豊卿が、各地の軍状を視察中、盧植の軍務ぶりに不届きありと奏された為、急に盧植の官職を褫奪(チダツ)され、これよりその身がらを、一囚人として、都へ差し立てゝ行く途中なので——」
と語つた。
玄徳も、関羽も、張飛も
「噓のような……」
と、茫然たる面を見あはせた儘(まゝ)、暫(しば)し言ふことばを知らなかつた。
玄徳はやがて
「実は、盧植将軍は、自分の旧師にあたるお人なので、ぜひ共(とも)一目(ひとめ)、お別れをお告げ申したいが、何とか許してもらへまいか」
と、切に頼んだ。
[63]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月9日(木)付夕刊掲載
(四)
「はゝあ。では、罪人盧植は、貴公の旧師にあたる者か。それは定めし、一目でも会ひたかろうな」
守護の隊将は、玄徳の切な願ひを、肯(き)くともなく、肯かぬともなく、頗るあいまいに口を濁して、
「許してもよいが、公(おほやけ)の役目のてまへもあるしな」
と、意味ありげに呟いた。
関羽は、玄徳の袖をひいて、彼は賄賂を求めてゐるにちがひない。貧しい軍費ではあるが、幾分かを割いて、彼に与へるしかありますまいと云つた。
張飛は、それを小耳に挟むと、怪しからぬ事である。そんな事をしては癖になる。もし肯かなければ、武力に訴へて、盧将軍の檻車へ迫り、御対面なさるがよい。自分が引受けて、警固の奴らは近寄せぬからと云つたが、玄徳は、
「いやいや、かりそめにも、朝廷の旗を奉じてゐる兵や役人へ向つて、左様な暴行はなすべきでない。と云つて、師弟の情、このまま盧将軍と相見ずに別れるにも忍びないから——」
と云つて、若干(なにがし)かの銀を、軍費のうちから出させて、関羽の手からそつと、守護の隊将へ手渡し
「ひとつ、貴郎(あなた)のお力で」
と、折入つて云ふと、賄賂の効目(きゝめ)は、手のひらを返したやうにきいて、隊将は立ち戻つて、檻車を停(とゞ)め、
「暫(しばら)く、休め」
と、自分の率ゐてゐる官兵に号令した。
そしてわざと、彼等は見て見ぬふりして、路傍に槍を組んで休憩してゐた。
玄徳は、騎を下りて、その間に、檻車のそばへ馳け寄り、頑丈な鉄格子へすがりついて
「先生つ。先生つ。玄徳でございます。いつたい、このお姿は、何(ど)うなされた事でござりますぞ」
と、嘆いた。
膝を曲げて、暗澹と、顔を埋(うづ)めた儘(まゝ)、檻車の中に背をまろくしていた盧植は、その声に、はつと眼を向けたが、
「おうつ」
と、それこそ、宛(さなが)ら野獣のやうに、鉄格子のそばへ、跳びついて来て、
「玄徳か……」
と、舌をつらせて顫(わなゝ)いた。
「いゝ所で会つた。玄徳、聞いてくれ」
盧植は、無念な涙に、眼も顔もいつぱいに曇らせながら云ふ。
「実は、かうだ。——先頃、貴公がわしの陣を去つて、潁川のはうへ立つてから間もなく、勅使左豊といふ者が、軍監として戦況の検分に来たが、世事にうといわしは、陣中であるし、天子の使(つかひ)として、彼を迎へるに、餘りに真面目すぎて、他の将軍連のやうに、左豊に献物(ケンモツ)を贈らなかつた。……すると厚顔(あつかま)しい左豊は、我に賄賂(まひなひ)をあたへよと、自分の口から求めて来たが、陣中にある金銀は、皆これ官の公金にして、兵器戦備の費(つひえ)にする物他に私財とてはなし。殊(こと)に、軍中なれば、吏に贈る財物など、何であらうかと、わしは又、真つ正直に断つた」
「……成程」
「すると、左豊は、盧植はわれを恥かしめたりと、ひどく恨んで帰つたさうだが、間もなく、身に覚えない罪名の下(もと)に、軍職を褫奪(チダツ)されてこんな浅ましい姿を曝(さら)して、都へ差立てられる身とはなつてしまうた。……今思へば、わしも餘り一徹であつたが、洛陽の顕官共が、私利私腹のみ肥やして、君も思はず、民を顧みず、たゞ一身の栄利に汲々としてをる状(さま)は、想像のほかだ。実に嘆かはしい。こんな事では、後漢の霊帝の御世も、怖らく長くはあるまい。……あゝ何(ど)う成りゆく世の中やら」
と、盧植は、身の不幸を悲しむよりも、さすがに、より以上、上下乱脈な世相の果(はて)を、痛哭するのであつた。
[64]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月10日(金)付夕刊掲載
(五)
慰めようにも慰めることばもなく、鉄格子を隔てた盧植の手を握りしめて、玄徳も共にたゞ悲嘆の涙にくれてゐたが、
「いや先生、御胸中はお察しいたしますが、いかに世が末になつても、罪なき者が罰しられて、悪人や奸吏が恣(ほしいまゝ)に、栄耀を全うする事はありません。日月も雲に蔽(おほ)はれ、山容も烟霧に真の象(かたち)を現さない時もあります。そのうちに、御冤罪は拭はれて、又聖代に祝しあう日もありませう。どうか、時節をお待ちください。お体を大切に、恥をしのんで、凝(じつ)とこゝは、御辛抱ください」
と励ました。
「ありがたう」
と、盧植もわれに回(かへ)つて
「思はぬ所で、思はぬ人に会つた為、つい心も弛(ゆる)み、不覚なや涙を見せてしまうた。……わしなどはすでに老朽の身だが、頼むのは、貴公たち将来のある青年へだ。……どうか億生(オクシヤウ)の民草の為に、頼むぞ劉備」
「やります。先生」
「あゝ然(しか)し」
「何ですか」
「わしの如き、老年になつても、まだ佞人の策に墜ち、檻車に生き恥を曝されるやうな不覚をするのだ。汝等(おことら)は殊(こと)に年も若いし、世の経験に浅い身だ。くれ/゛\も、平時の処世に細心でなければ危(あやふ)いぞ。戦を覚悟の戦場よりも、心をゆるめがちの平時のはうが、どれほど危険が多いか知れない」「御訓誡、肝に銘じておきます」
「では、餘り長くなつても、又迷惑がかゝるといけないから——」
と、盧植が、早く立去れかしと、玄徳を眼で急(せ)き立てゝゐると、それ迄(まで)、檻車の横に佇んでゐた張飛が、突然
「やあ長兄。罪もなき恩師が、獄府へ引かれて行くのを、このまゝ見過すという法があらうか。今のはなしを聞くにつけ、又先頃からの鬱憤も重(かさ)んでをる。もはや張飛の堪忍の緒は断(き)れた。——守護の官兵共を、みなごろしにして、檻車を奪ひ盧植様をお助けしようではないか」
と、大声でいひ放ち、一方の関羽を顧みて
「兄貴、何(ど)うだ」
と、相談した。
耳こすりや、眼まぜで諜(しめ)し合わすのではない。天地へ向つて呶鳴るのである。いくら背中を向けて見ぬ振(ふり)をしてゐる官兵でも、それには総立(そうだち)になつて色めかざるを得ない。然(しか)し、張飛の眼中には、蠅が舞ひ出した程にもなく
「何を黙つてをるのか。長兄等は、官兵が怖いのか。義を見て為さざるは勇なきなり。よしつ、それでは、俺ひとりでやる。何の、こんな虫籠のやうな檻車一つ」
いきなり張飛は、その鉄格子に手をかけて、猛虎のやうに、揺すぶり出した。
いつも餘り大きな声も出さないし、滅多に顔いろも変へない玄徳が、それを見ると
「張飛!何をするかツ」
と、大喝して
「かりそめにも、朝命の科人(とがにん)へ、汝、一野夫の身として、何を為さんとするか。師弟の情は忍び難いが、猶(なほ)、私情に過ぎない。いやしくも天子の命とあらば、地を嚙んでも伏すべきである。世々の道に反(そむ)かずといふ事は、抑(そも/\)、われらの軍律の第一則であつた。強(た)つて、乱暴を働くに於いては、天子の臣に代り、又、わが軍律に照らして、劉玄徳が、まづ汝の首を刎(は)ねん。——如何に張飛、なほ𤢖(さは)ぐや」
と、彼(か)の名剣の柄をにぎつて、眦(まなじり)を紅(くれなゐ)に裂き、この人にしてこの血相があるかと疑はれるばかりな声で叱りつけた。
[65]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月11日(土)付夕刊掲載
(六)
——檻車は遠く去つた。
叱られて、思ひ止(とど)まつた張飛は、後(うしろ)の山のはうを向いて、見てゐなかつた。
玄徳は、立つてゐた。
「…………」
黙然(モクネン)と、凝視して、遠くなり行く師の檻車を、暗涙の中に見送つてゐた。
「……さ。参りませう」
関羽は、促して、駒を寄せた。
玄徳は、黙々と、騎上の人になつたが、盧植の運命の急変が、よほど精神にこたへたとみえ、
「……噫(あゝ)」
と、猶(なほ)嘆息しては、振向いてゐた。
張飛は、つまらない顔してゐた。彼に取つては、正しい義憤としてやつた事が、計らずも玄徳の怒りを買ひ、義盟の血をすゝり合つてから初めてのやうな叱られ方をした。
官兵共は、それを見て、いゝ気味だといふやうな嘲笑を浴びせた。張飛たるもの、腐らずにゐられなかつた。
「いけねえや、どうも家(うち)の大将は、すこし安物の孔子にかぶれてゐる気味だて」
舌打しながら、彼も黙りこんだまゝ、悄気(シヨゲ)返つた姿を、騎にまかせてゐた。
山峡の道を過ぎて、二州のわかれ道へきた。
関羽は、駒を止めて、
「玄徳様」
と、呼びかけた。
「これから南へ行けば広宗。北へ指してゆけば、郷里涿県の方角へ近づきます。いづれを選びますか」
「元より、盧植先生が囚(とら)はれの身となつて、洛陽へ送られてしまつたからには、義を以てそこへ援軍に赴(ゆ)く意味ももうなくなつた。ひとまづ、涿県へ帰らうよ」
「さうしますか」
「うム」
「それがしも、先刻(さつき)からいろ/\考へてゐたのですが、何(ど)うも、残念ながら、一時郷里へ退(ひ)くしかないであらう——と思つてゐたので」
「転戦、又転戦。——何の功名も齎(もたら)さず、郷家に待つ母上にも、何となく、会はせる顔もないこゝちがするが……帰らうよ、涿県へ」
「はつ。——では」
と、関羽は、騎首を旋(めぐ)らして、後からつゞいて来る五百餘の手兵へ
「北へ、北へ!」
と、指して歩向(ホカウ)の号令をかけ、そして又黙々と、歩みつゞけた。
「あア——、あ、あ」
張飛は、大欠伸(あくび)して、
「いつたい、何の為に、俺たちは戦つたんだい。ちつともわけが分らない。——かうなると一刻もはやく、涿県の城内へ帰つて、市の酒店(さかや)で久しぶりに、猪(いのこ)の股(もも)でも齧(かじ)りながら、うまい酒でも飲みたいものだ」
と、云つた。
関羽は、苦い顔して
「おい/\、兵隊の云ふやうな事を云ふな。一方の将として」
「だつて、俺は、ほんとの事を云つてゐるんだ。噓ではない」
「貴様からして、そんな事を云つたら、軍紀が弛(ゆる)むぢやないか」
「軍紀の弛み出したのは、俺のせゐぢやない。官軍々々と、何でも、官軍とさへいへば、意気地なく恐がる人間のせゐだろ」
不平満々なのである。
その不平な気もちは、玄徳にも分つてゐた。玄徳も亦(また)、不平であつたからだ。そして一頃(ひところ)の張り切つてゐた壮志の弛みを何(ど)うしやうもなかつた。彼は、女々しく郷里の母を想ひ出し、又、思ふともなく、白芙蓉(ビヤクフヨウ)の麗しい眉や眼などを、人知れず胸の奥所(おくが)に描いたりして、何となく士気の沮喪した軍旅の虚無と不平をなぐさめてゐた。
すると、突然、山崩れでもしたやうに、一方の山岳で、鬨(とき)の声が聞えた。
[66]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月12日(日)付夕刊掲載
(七)
「何事か」
玄徳は聞き耳たてゝいたが、四山に谺(こだま)する銅鑼、兵鼓(ヒヤウコ)の響きに
「張飛。物見せよ」
と、すぐ命じた。
「心得た」
と張飛は駒を飛ばして、山のはうへ向つて行つたが、暫(しばら)くすると戻つて来て、
「広宗の方面から逃げくづれて来る官軍を、黄巾の総帥張角の軍が、天公将軍と書いた旗を進め、勢ひに乗つて、追撃して来るのでござる」
と、報告した。
玄徳は、驚いて、
「では、広宗の官軍は、総敗北となつたのか。——罪なき盧植将軍を、檻車に囚(とら)へて、洛陽へ差立てたりなどした為に、忽(たちま)ち、官軍は統制を失つて、賊にその虚をつかれたのであらう」
と、嘆じた。
張飛は、むしろ小気味よげに、
「いや、そればかりでなく、官軍の士風そのものが、長い平和に狎(な)れ、気弱にながれ、思ひ上がつてゐるからだ」
と関羽へ云つた。
関羽は、それには答へず、
「長兄。何(ど)うしますか」
と玄徳へ計つた。
玄徳は、躊躇(ためらひ)なく、
「皇室を重んじ、秩序を紊(みだ)す賊子を討ち、民の安寧を護らんとは、われ/\の初めからの鉄則である。官の士風や軍紀を司る者に、面白からぬ人物があるからというて、官軍そのものゝ潰滅するのを、拱手傍観してゐてもよいものではない」
と、即座に、援軍に馳せつけて、賊の追撃を、山路で中断した。そしてさんざんにこれを悩ましたり、又、奇策をめぐらして、張角大方師の本軍まで攪乱した上、勢(いきほひ)を挽回した官軍と合体して、五十里あまりも賊軍を追つて引揚げた。
広宗から敗走して来た官軍の大将は、董卓といふ将軍だつた。
辛(から)くも、総敗北を盛返して、ほつと一息つくと、将軍は、幕僚にたづねた。
「いつたい、彼(か)の山嶮で、不意にわが軍へ加勢し、賊の後方を攪乱した軍隊は、いづれ味方には相違あるまいが、何処(どこ)の部隊に属する将士か」
「さあ。どこの隊でせう」
「汝等も知らんのか」
「誰も辨(わきま)へぬようです」
「然(しか)らば、その部将に会つて、自身訊ねてみよう。これへ呼んで来い」
幕僚は、直(たゞち)に、玄徳たちへ董卓の意をつたへた。
玄徳は、左将関羽、右将張飛を従へて、董卓の面前へ進んだ。
董卓は、椅子を与へる前に、三名の姓名をたづねて、
「洛陽の王軍に、卿等のごとき勇将がある事は、まだ寡聞にして聞かなかつたが、いつたい諸君は、何といふ官職に就かれてをるのか」
と、身分を糺(ただ)した。
玄徳は、無爵無官の身をむしろ誇るやうに、自分等は、正規の官軍ではなく、天下万民のために、大志を奮ひ起して立つた一地方の義軍であると答へた。
「……ふうむ。すると、涿県の楼桑村から出た私兵か。つまり雑軍といふわけだな」
董卓の応対ぶりは、言葉つきからして違つて来た。露骨な軽蔑を鼻先に見せていふのだつた。しかも
「——あゝさうか。ぢやあ我軍に従(つ)いて、大いに働くがよいさ。給料や手当は、いづれ沙汰させるからな」
と同席するさへ、自分の估券(コケン)に関はるやうに、董卓は云ふとすぐ帷幕のうちへ隠れてしまつた。
[67]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月14日(火)付夕刊掲載
(八)
官軍に取つては、大功を立てたのだ。董卓に取つては、生命(いのち)の親だと云つてもよいのだ。
然るに!
何ぞ、遇するの、無礼。
士を遇する道を知らぬにも程がある。
「…………」
玄徳も、張飛と関羽も、董卓のうしろ姿を見送つたまゝ、茫然としてゐた。
「うぬつ」
奮然と、張飛は、彼のかくれた幕(とばり)の奥へ、躍り入らうとした。
獅子のやうに、髪を立つて。
そして剣を手に。
「あつ、何処へ行く」
玄徳は、驚いて、張飛のうしろから組み止めながら
「こらつ、又、わるい短慮を出すか」
と、叱つた。
「でも。でも」
張飛は、怒り熄(や)まなかつた。
「——ちツ、畜生つ。官位がなんだつ。官職がない者は、人間でないやうに思つてやがる。馬鹿野郎ツ。民力があつての官位だぞ。賊軍にさへ、蹴ちらされて、逃げまはつて来やがつたくせに」
「これツ、鎮まらんか」
「離してくれ」
「離さん。関羽々々。なぜ見てゐるか、一緒に、張飛を止めてくれい」
「いや関羽、止めてくれるな。おれはもう、堪忍の緒を切つた。——功を立てゝ恩賞もないのは、まだ我慢もするが、何だ、あの軽蔑したあいさつは。——人を雑軍かとぬかし居(を)つた。私兵かと、鼻であしらひやがつた。——離してくれ、董卓の素ツ首を、この蛇矛(ジヤボウ)で一太刀にかツ飛ばして見せるから」
「待て。……まあ待て、……腹が立つのは、貴様ばかりではない。だが、小人(セウジン)の小人ぶりに、いちいち腹を立てゝゐたひには、迚(とて)も大事は為せぬぞ。天下、小人に満ちてゐる時だ」
玄徳は、抱き止めた儘(まま)、声をしぼつて諭した。
「しかし、何であらうと、董卓は皇室の武臣である。朝臣を殺逆すれば、理非にかゝはらず、叛逆の賊子といはれねばならぬ。それに、董卓には、この大軍があるのだ。われわれも共に、こゝで斬死(きりじに)しなければならぬ。——聞きわけてくれ張飛。われわれは、犬死する為に、起(た)つたのではあるまいが」
「……ち、ち、ちく生ツ」
張飛は、床を、大きく沓(くつ)で踏み鳴らして、男泣きに、声をあげて泣いた。
「口惜しい」
彼は、坐りこんで、まだ泣いてゐた。この忍耐をしなければ、世の為に戦へないのか、義を唱へても、遂に為す事はできないのかと考へると悲しくなつてくるのだつた。
「さ。外へ出よう」
赤ンぼをあやすやうに、玄徳と関羽の二人して、彼を、左右から抱き起こした。
そして、その夜
「こんな所に長居してゐると、いつ又、張飛が虫を起さないとも限らないから」
と、董卓の陣を去つて、手兵五百と共に、月下の曠野を、蕭々と、風を負つて歩いた。
わびしき雑軍。
そして官職のない将僚。
一軍の漂泊(さすらひ)は、かうして再び続いた。夜毎に、月は白く小さく、曠野は果(はて)なく又露が深かつた。
渡り鳥が、大陸を赴(ゆ)く。
もう秋なのだ。
いちどは郷里の涿県へ回(かへ)らうとしたが、それも残念でならないし、餘りに無意義——といふ関羽の意見に、張飛も、将来は何事も我慢しようと同意したので、玄徳を先頭にしたこの渡り鳥にも似た一軍は、また、以前の潁川地方に在る黄匪討伐軍本部——朱雋の陣地へと志して行つたのであつた。
[68]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月15日(水)付夕刊掲載