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吉川英治『三国志』新聞連載版(12)秋風陣(しうふうぢん)

前章「檻車(かんしや)」へ

(一)

 潁川の地へ行き着いてみると、そこには既に官軍の一部隊しか残つてゐなかつた。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追い狭(せば)めて、遠く河南の曲陽や宛城(ヱンジヤウ)方面へ移駐してゐるとのことであつた。
「さしも旺(さかん)だつた黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自解しはじめたやうですな」
 関羽が云ふと、
「つまらない事になつた」
 と、張飛は頻(しき)りと、今のうちに功を立てねば、何日(いつ)の時か風雲に乗ぜん、と焦心(あせ)るのであつた。
「——義軍何(なん)ぞ小功を思はん。義胆(ギタン)何ぞ風雲を要せん」
 劉玄徳は、独り云つた。
 雁(かり)の列のやうに、漂泊の小軍隊は又、南へ向つて、旅をつゞけた。
 黄河を渡つた。
 兵たちは、馬に水を飼つた。
 玄徳は、黄いろい大河に眼をやると、憶(おも)ひを深くして、
「ああ、悠久なる哉(かな)」
 と、つぶやいた。
 四、五年前に見た黄河もこの通りだつた。怖(おそ)らく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだらう。
 天地の悠久を思ふと、人間の一瞬が儚(はかな)く感じられた。小功は思はないが、頻りと、生きてゐる間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。
「この畔(ほとり)で、半日も凝(じつ)と若い空想に耽つてゐた事がある。——洛陽船から茶を購(あがな)はうと思つて」
 茶を思へば、同時に、母が憶はれてくる。
 この秋、いかに在(お)はすか。足の冷えや、持病が出ては来ぬだらうか。御不自由はどうあろうか。
 いや/\母は、そんな事すら忘れて、ひたすら、子が大業を為す日を待つてをられるであらう。それと共に、いかに聡明な母でも、実際の戦場の事情やら、又実地に当る軍人同士のあひだにも、常の社会と変らない難しい感情やら争ひやらあつて、なか/\武力と正義の信条一点張りでは、世に出られない事などは、お察しもつくまい。御想像にも及ぶまい。
 だから以来、何のよい便りもなく、月日を空しく送つてゐる子をお考へになると、
(阿備(アビ)は、何をしてゐるやら)
 と、さだめし腑がひない者と、焦(じ)れツたく思つてお居(ゐ)でになるに相違ない。
「さうだ。せめて、体だけは無事な事でも、お便りして置かうか」
 玄徳は、思ひつめて、騎の鞍を下ろし、その鞍に結(ゆ)ひつけてある旅具の中から、翰墨(カンボク)と筆を取出して、母へ便りを書きはじめた。
 駒に水を飼つて、休んでゐた兵たちも、玄徳が箋葉(センエウ)に筆を把(と)つてゐるのを見ると、
「おれも」
「吾も」
 と、何か書きはじめた。
 誰にも、故郷がある。姉妹兄弟(シマイケイテイ)がある。玄徳は思ひやつて、
「故郷へ手紙をやりたい者は、わしの手許(てもと)へ持つて来い。親のある者は、親へ無事の消息をしたがよいぞ」
 と、云つた。
 兵たちは、それぞれ紙片や木皮へ何か書いて持つて来た。玄徳はそれを一嚢(イチナウ)に納めて、実直な兵を一人撰抜し、
「おまへは、この手紙の嚢(ふくろ)を携へて、それぞれの郷里の家へ、郵送する役目に当れ」
 と、路費を与へて、直(す)ぐ立たせた。
 そして落日に染まつた黄河を、騎と兵と荷駄とは、黒いかたまりになつて、浅瀬は徒渉(トセウ)し、深い所は筏(いかだ)に棹(さをさ)して、対岸へ渡つて行つた。
[69]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月16日(木)付夕刊掲載

(二)

 先頃から河南の地方に、何十万とむらがつてゐる賊の大軍と戦つてゐた大将軍朱雋は、思ひのほか賊軍が手ごはいし、味方の死傷は夥(おびたゞ)しいので、
「いかゞはせん」
 と、内心煩悶して、苦戦の憂ひを顔に刻んでゐた所だつた。
 そこへ
「潁川から広宗へ向つた玄徳の隊が、形勢の変化に、途中から引つ返して来て、たゞ今、着陣いたしましたが」
 と、幕僚から知らせがあつた。
 朱雋はそれを聞くと、
「やあ、それはよい所へ来た。すぐ通せ、失礼のないやうに」
 と、前とは、打つて変つて、鄭重に待遇した。陣中ながら、洛陽の美酒を開き、料理番に牛など裂かせて
「長途、おつかれであろう」
 と、歓待した。
 正直な張飛は、前の不快もわすれて、すつかり感激してしまひ、
「士は己を知る者の為に死すである」
 などゝ酔つた機嫌で云つた。
 だが歓待の代償は義軍全体の生命に近いものを求められた。
 翌日。
「早速だが、豪傑にひとつ、打破つていたゞきたい方面がある」
 と、朱雋は、玄徳等の軍に、そこから約三十里ほど先の山地に陣取つている頑強な敵陣の突破を命じた。
 否む理由はないので
「心得た」
 と、義軍は、朱雋の部下三千を加へて、そこの高地へ攻めて行つた。
 やがて、山麓の野に近づくと天候が悪くなつた。雨こそ降らないが、密雲低く垂れて、烈風は草を飛ばし、沼地の水は霧になつて、兵馬の行くてを晦(くら)くした。
「やあ、これは又、賊軍の大将の張宝が、妖気を起して、われらを皆ごろしにすると見えたるぞ。気をつけろ。樹の根や草につかまつて、烈風に吹きとばされぬ用心をしたがいゝぞ」
 朱雋からつけてよこした部隊から、誰言ふとなく、こんな声が起つて、恐怖は忽(たちま)ち全軍を蔽(おほ)つた。
「ばかなつ」
 関羽は怒つて
「世に理のなき妖術などがあらうか。武夫(ブフ)たるものが、幻妖の術に怖れて、木の根にすがり、大地を這ひ、戦意を失ふとは、何たるざまぞ。すゝめや者共。関羽の行く所には妖気も避けよう」
 と大声で鼓舞したが
「妖術には敵はぬ。あたら生命をわざ/\墜(おと)すやうなものだ」
 と、朱雋の兵は、なんと云つても、前進しないのである。
 聞けば、この高地へ向つた官軍は、これ迄(まで)にも何度攻めても、全滅になつてゐるといふのであつた。黄巾賊の大方師張角の弟にあたる張宝は、有名な妖術つかひで、それがこの高地の山谷の奥に陣取つてゐる為であるといふ。
 さう聞くと張飛は
「妖術とは、外道魔物のする業(わざ)だ。天地闢(ひら)けて以来、まだ嘗(かつ)て方術者が天下を取つたためしはあるまい。怖(を)ぢる心、惧(おそ)れる眼(まなこ)、顫(わなゝ)く魂を惑はす術を、妖術とは云ふのだ。怖れるな、惑ふな。——進まぬやつは、軍律に照らして斬り捨てるぞ」
 と、軍のうしろにまわつて、手に蛇矛(ジヤボウ)を抜(ぬき)はらひ、督戦に努めた。
 朱雋の兵は、敵の妖術にも恐怖したが張飛の蛇矛にはなほ恐れて、やむなくわつと、黒風へ向つて前進し出した。
[70]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月17日(金)付夕刊掲載

(三)

 その日は、天候もよくなかつたに違ひないが、戦場の地勢も殊(こと)に悪かつた。寄手に取つては、甚だしく不利な地の利に嫌でも置かれるやうに、そこの高地は自然にできてゐた。
 峨々(ガヾ)たる山が、道の両わきに、鉄門のように聳えてゐる。そこを突破すれば、高地の沢から、山地一帯の敵へ肉薄できるのだが、そこ迄(まで)が、近づけないのだつた。
「鉄門峡まで行かぬうちに、いつも味方はみなごろしになる。豪傑どうか無謀は止(や)めて、引つ返し給へ」
 と、朱雋の軍隊の者は、部将からして、怯(ひる)み上がつて云ふ程だから、兵卒が皆、恐怖して自由に動かないのも無理ではなかつた。
 だが、張飛は、
「それは、いつもの寄手が弱いからだ。けふは、われわれの義軍が先に立つて進路を斬りひらく、武夫(ブフ)たる者は、戦場で死ぬのは、本望ではないか。死ねや、死ねや」
 と、督戦に声を嗄(から)した。
 先鋒は、ゆるい砂礫(シヤレキ)の丘を這つて、もう鉄門峡のまぢか迄(まで)、攻め上つてゐた。朱雋軍も、張飛の蛇矛に斬り捨てられるよりはと、その後から、芋虫の群れが動くやうに這ひ上がつた。
 すると、忽(たちま)ち、一陣の風雷、天地を震動して木も砂礫も人も、中天へ吹きあげられるかと覚えた時、一方の山峡の頂きに、陣鼓を鳴らし、銅鑼を打ち轟かせ、
 ——わあつ。わあつ。
 と、烈風も圧するような鬨(とき)の声がきこえた。寄手は皆、地へ伏し、眼をふさぎ、耳を忘れてゐたが、その声に振り仰ぐと、山峡の絶巓(ゼツテン)はいくらか平盤な地になつてゐるとみえて、そこに賊の一群が見え「地公将軍」と書いた旗や、八卦の文(モン)を印(しるし)した黄色の幟(のぼり)、幡(はた)など立て並べて、
「死神につかれた軍が、又も黄泉(よみぢ)へ急いで来つるぞ。冥途の扉(と)を開けてやれ」
 と、声を合せて笑つた。
 その中に一人、遠目にもわかる異相の巨漢があつた。口に魔符を嚙み、髪をさばき、印をむすんで何やら呪文を唱へてゐる容子だつたが、それと共に烈風は益々(ます/\)募つて、晦冥な天地に、人の形や魔の形をした赤、青、黄などの紙片がまるで五彩の火のやうに降つて来た。
「やあ、魔軍が来た」
「賊将張宝が、呪(ジユ)を唱へて、天空から羅刹の援軍を呼び出したぞ」
 朱雋の兵は、わめき合ふと、逃げ惑つて、途(みち)も失ひ、たゞ右往左往うろたへるのみだつた。
 張飛の督戦も、もう効かなかつた。朱雋の兵が餘り恐れるので、義軍の兵にも恐怖症が伝染(うつ)つたやうである。そして風魔と砂礫にぶつけられて、全軍、進む事も退く事もできなくなつてしまつた時、赤い紙片(かみきれ)や青い紙片の魔物や武者は、それ皆が、生ける夜叉か羅刹の軍のやうに見えて、寄手は完全に闘志を失つてしまつた。
 事実。
 さうしてゐる間に、無数の矢や岩石や火器は、うなりを揚げ、煙をふいて、寄手の上に降つて来たのである。またゝくうちに、全軍の半分以上は、動かないものになつてゐた。
「敗れた!負けたつ」
 玄徳は、軍を率ゐてから初めて惨たる敗戦の味を今知つた。
 さう叫ぶと
「関羽つ。張飛つ。はや兵を退けつ——兵を退けつ」
 そして自分も驀(まつしぐ)らに、駒首を逆落しに向け回(かへ)し、砂礫と共に山裾へ馳け下つた。
[71]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月18日(土)付夕刊掲載

(四)

 敗軍を収めて、約二十里の外へ退(ひ)き、その夜、玄徳は、関羽、張飛のふたりと共に、帷幕のうちで軍議をこらした。
「残念だ。けふ迄(まで)、こんな敗北はした事がないが」
 と、張飛がいふ。
 関羽は、腕を拱(く)んでゐたが、
「朱雋の兵が、戦はぬうちから、あのやうに恐怖してゐる所を見ると、何か、あそこには不思議がある。張宝の幻術も、実際、ばかには出来ぬかも知れぬ」
 と、呟いた。
「幻術の不思議は、わしには解けてゐる。それは、あの鉄門峡の地形にあるのだ。あの峡谷には、常に雲霧が立ちこめてゐて、その気流が、烈風となつて、峡門から麓へいつも吹いてゐるのだと思ふ」
 これは玄徳の説である。
「成程」
 と、二人とも初めて、さうかと気づいた顔つきだつた。
「だから少しでも天候の悪い日には、他の土地より何十倍も強い風が吹捲(ふきま)くる。この辺が、晴天の日でも、峡門には、黒雲(くろくも)が蟠(わだかま)り、砂礫が飛び、煙雨が降り荒んでゐる」
「はゝあ、大きに」
「好んで、それへ向つてゆくので、近づけばいつも、賊と戦ふ前に、天候と戦ふやうなものになる。張宝の地黄将軍(チクワウシヤウグン)とやらは、奸智に長(た)けてゐるとみえて、その自然の気象を、自己の妖術かの如く、巧みに使つて、藁人形の武者や、紙の魔形(マギヤウ)など降らせて、朱雋軍の愚(おろか)な恐怖を弄(もてあそ)んでゐたものであらう」
「さすがに、御活眼です。いかにも、それに違ひありません。けれど、あの山の賊軍を攻めるには、あの峡門から攻めかゝるほかありますまい」
「無い。——それ故に、朱雋はわざと、われわれを、この攻口へ当らせたのだ」
 玄徳は、沈痛に云つた。
 関羽、張飛の二人も、良い策もなく、唇(くち)をむすんで、陣の曠野へ眼をそらした。
 折から仲秋の月は、満目の戦野(センヤ)に露をきらめかせ、二十里外の彼方に黒々と見える臥牛のやうな山岳のあたりは、味方を悩ませた悪天候も噓事(うそごと)のやうに、大気と月光の下に横たはつてゐた。
「いや、有る、有る」
 突然、張飛が、自問自答して云ひ出した。
「攻口が、ほかに無いとは云はさん。長兄、一策があるぞ」
「どうするのか」
「あの絶壁を攀(よ)ぢ登つて、賊の豫測しない所から不意に衝(つ)きくづせば、何(なん)の造作もない」
「登れようか、あの断崖絶壁へ」
「登れさうに見える所から登つたのでは、奇襲にはならない。誰の眼にも、登れさうに見えない場所から登るのが、用兵の策といふものであらう」
「張飛にしては、珍しい名言を吐いたものだ。その通りである。登れぬものと極(き)めてしまふのは、人間の観念で、その眼だけの観念を超えて、実際に懸命に当つてみれば案外易々(やす/\)と登れるやうな例はいくらもある事だ」
 更に、三名は、密議を練つて、翌る日の作戦に備へた。
 朱雋軍の兵、約半分の数に、夥(おびたゞ)しい旗や幟(のぼり)を持たせ、又、銅鑼や鼓を打ち鳴らさせて、きのふのように峡門の正面から、強襲するような態(テイ)を敵へ見せかけた。
 一方、張飛、関羽の両将に、幕下の強者(つはもの)と、朱雋軍の一部の兵を率きつれた玄徳は、峡門から十里ほど北方の絶壁へひそかに這ひすすみ、惨澹たる苦心の下に、山の一端へ攀ぢ登ることに成功した。
 そして猶(なほ)、士気を鼓舞するために、総(すべ)ての兵が山巓(サンテン)の一端へ登りきると、そこで玄徳と関羽は、厳かなる破邪攘魔の祈禱を天地へ向つて捧げるの儀式を行つた。
[72]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月19日(日)付夕刊掲載

(五)

 敵を前にしながら、わざとそんな所で、厳かな祈禱の儀式などしたのは、玄徳直属の義軍の中にも、張宝の幻術を内心怖れてゐる兵がたくさんゐるらしく見えたからであつた。
 式が終ると、
「見よ」
 玄徳は空を指して云つた。
「けふの一天には、風魔もない、迅雷もない。すでに、破邪の祈禱で、張宝の幻術は通力を失つたのだ」
 兵は答へるに、万雷のやうな喊声(カンセイ)をもつてした。
 関羽と張飛は、それと共に、
「それ、魔軍の砦(とりで)を踏み潰せ」
 と軍を二手にわけて、峰づたひに張宝の本拠へ攻めよせた。
 地公将軍の旗幟を立てゝ、賊将の張宝は、例に依つて、鉄門峡の寄手を悩ましに出かけてゐた。
 すると、思はざる山中に、突然鬨(とき)の声があがつた。彼は、味方を振返つて、
「裏切り者が出たか」
 と、訊ねた。
 実際、さう考へたのは、彼だけではなかつた。裏切者々々々といふ声が、何処ともなく伝はつた。
 張宝は、
「不埒(フラチ)な奴、何者か、成敗してくれむ」
 と、そこの守りを、賊の一将にいひつけて、自身、わづかの部下を連れて、山谷(サンコク)の奥にある——ちょうど螺(ラ)の穴のような渓谷を、驢に鞭打つて帰つて来た。
 すると傍(かたはら)の沢の密林から、一すぢの矢が飛んで来て、張宝のこめかみにぐざと立つた。張宝はほとばしる黒血(コクケツ)へ手をやつて、わツと口を開きながら矢を抜いた。然(しか)し、鏃(やじり)はふかく頭蓋の中に止(とど)まつて、矢柄だけしか抜けて来なかつた位(くらゐ)なので、途端に、彼の巨躯は、鞍の上から真つ逆さまに落ちてゐた。
「賊将の張宝は射止めたるぞ。劉玄徳、こゝに黄匪の大方張角の弟、地黄将軍を討ち取つたり」
 次に、どこかで玄徳の大音声がきこえると、四方の山沢(サンタク)、みな鼓(コ)を鳴らし、奔激の渓流、挙(こぞ)つて鬨を揚げ、草木みな兵と化(な)つたかと思はれた。玄徳の兵は、一斉に衝いて出で、あわてふためく張宝の部下をみなごろしにした。
 山谷の奥からも、同時に黒煙濛々(モウ/\)とたち昇つた。張飛か、関羽の手勢か、本拠の砦に、火を放(つ)けたものらしい。
 上流から流れて来る渓水(たにみづ)は、みるまに紅の奔河と化した。山吠え、谷叫び、火は山火事となつて、三日三晩燃えとほした。
 首馘(くびき)る数一万餘、黒焦(くろこげ)となつた賊兵の死体幾千幾万なるを知らない。殲滅戦の続けらるゝこと七日餘り、玄徳は、赫々たる武勲を負つて朱雋の本営へ引揚げた。
 朱雋は、玄徳を見ると、
「やあ、足下(ソクカ)は実に運がいゝ。戦(いくさ)にも、運不運があるものでな」
 と、云つた。
「はゝあ、さうですか。ひと口に、武運と云ふ事もありますからね」
 玄徳は、何の感情にも動かされないで、軽く笑つた。
 朱雋は、更に云ふ。
「自分のひきうけてゐる野戦のはうは、まだ一向(イツカウ)勝敗がつかない。山谷の賊は、ふくろの鼠とし易いが、野陣の敵兵は、押せばどこ迄(まで)も、逃げられるので弱るよ」
「御もつともです」
 それにも、玄徳は唯(たゞ)、笑つて見せたのみであつた。
 然るところ、茲(こゝ)に、先陣から伝令が来て、一つの異変を告げた。
[73]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月21日(火)付夕刊掲載

(六)

 伝令の告げるには、
「先に戦歿した賊将張宝の兄弟張梁(チヤウリヤウ)といふ者、地黄将軍の名を称し、久しくこの曠野の陣後にあつて、督軍してをりましたが、張宝すでに討たれぬと聞いて、遽(にはか)に大兵をひきまとめ、陽城へたて籠つて、城壁を高くし、この冬を守つて越えんとする策を取るかに見うけられます」
 との事だつた。
 朱雋は、聞くと、
「冬にかゝつては、雪に凍え、食糧の運輸にも、困難になる。殊(こと)に都聞(みやこきこ)えもおもしろくない。今のうちに攻め墜(おと)せ」
 総攻撃の令を下した。
 大軍は陽城を囲み、攻めること急であつた。併(しか)し、賊城は要害堅固を極め、城内には多年積んだ食物が豊富なので、一月餘も費やしたが、城壁の一角も奪(と)れなかつた。
「困つた。困つた」
 朱雋は本営で時折ため息をもらしたが、玄徳は聞えぬ顔してゐた。
 よせばいゝに、そんな時、張飛が朱雋へ云つた。
「将軍。野戦では、押せば退(ひ)くしで、戦ひ難(にく)いでせうが、こんどは、敵も城の中ですから、袋の鼠を捕るやうなものでせう」
 朱雋は、まづい顔をした。
 そこへ遠方から使(つかひ)が来て、新しい情報を齎(もたら)した。それも併(しか)し朱雋の機嫌をよくさせるものではなかつた。
 曲陽の方面には、朱雋と共に、討伐大将軍の任を負つて下つてゐた董卓・皇甫嵩の両軍が、賊の大方張角の大兵と戦つてゐた。使はその方面の事を知らせに来たものだつた。
 董卓と皇甫嵩のはうは、朱雋の云ふ所謂(いはゆる)武運がよかつたのか、七度戦つて七度勝つといつた按配であつた。ところへ又、黄賊の総帥張角が、陣中で病歿した為、総攻撃に出て、一挙に賊軍を潰滅させ、降人を収めること十五万、辻に梟(か)くるところの賊首何千、更に、張角を埋(い)けた墳(つか)を発掘(あば)いてその首級を洛陽へ上(のぼ)せ、
(戦果かくの如し)
 と、報告した。
 大賢良師張角と称していた首魁こそ、天下に満(みつ)る乱賊の首体である。張宝は先に討たれたりといつても、その弟に過ぎず、張梁猶(なほ)有りといつても、これもその一肢体でしかない。
 朝廷の御感(ギヨカン)は斜めならず、
 (征賊第一勲)
 として、皇甫嵩を車騎将軍に任じ、益州の牧(ボク)に封ぜられ、その他恩賞の令を受けた者がたくさんある。わけても、陣中常に赤い甲冑を着て通つた武騎校尉曹操も、功に依つて、済南(サイナン)(山東省・黄河南岸)の相(セウ)に封じられたとの事であつた。
 自分が逆境の中に、他人の栄達を聞いて、共に欣(よろこ)びを感じるほど、朱雋は寛度でない。彼は猶(なほ)、焦心(あせ)り出して、
「一刻もはやく、この城を攻め陥し、汝等も、朝廷の恩賞にあづかり、封土へ帰つて、栄達の日を楽しまずや」
 と、幕僚をはげました。
 勿論、玄徳等も、協力を惜(をし)まなかつた。攻撃に次ぐ攻撃を以(もつ)て、城壁に当り、さしも頑強な賊軍をして、眠るまもない防戦に疲れさせた。
 城内の賊の中に、厳政(ゲンセイ)といふ男があつた。これは方針を更(か)へる時だと覚(さと)つたので、密かに朱雋に内通して置き、賊将張梁の首を斬つて、
「願はくば、悔悟(クワイゴ)の兵等に、王威の恩浴を垂れたまへ」
 と、軍門に降つて来た。
 陽城を墜(おと)した勢(いきほひ)で、
「更に、与党を狩り尽(つく)せ」
 と、朱雋の軍六万は、宛城(湖北省・荊州)へ迫つて行つた。そこには、黄巾の残党・孫仲(ソンチウ)、韓忠(カンチウ)、趙弘(テウコウ)の三賊将がたて籠つてゐた。
[74]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月22日(水)付夕刊掲載

(七)

「賊には援(たすけ)もないし、城内の兵糧も徒(いたづ)らに敗戦の兵を多く容れたから、またゝく間に尽(つき)るであろう」
 朱雋は、陣頭に立つて、賊の宛城の運命を、かく卜(うらな)つた。
 朱雋軍六万は、宛城の周囲をとりまいて、水も漏らさぬ布陣を詰(つめ)た。
 賊軍は
「やぶれかぶれ」
 の策を選んだか、連日、城門をひらいて、戦を挑み、官兵賊兵、相互に夥(おびたゞ)しい死傷を毎日積んだ。
 然(しか)しいかんせん、城内の兵糧はもう乏しくて、賊は飢渇に瀕して来た。そこで賊将韓忠は遂に、降使を立てゝ
「仁慈を垂れ給へ」
 と、降伏を申し出た。
 朱雋は、怒つて
「窮すれば、憐を乞ひ、勢を得れば、暴魔の威をふるふ、今日に至つては、仁慈も何もない」
 と、降参の使者を斬つて、猶(なほ)も苛烈に攻撃を加へた。
 玄徳は彼に諫めた。
「将軍、賢慮し給へ。昔、漢の高祖の天下を統(す)べたまひしは、よく降人を容れてそれを用ひた為(た)めといはれてゐます」
 朱雋は、嘲笑(あざわら)つて
「ばかを云ひ給へ。それは時代に依る。あの頃は、秦の世が乱れて項羽のようながさつ者の私議暴論が横行して、天下に定まれる君主もなかつた時勢だろ、故に高祖は、讐(あだ)ある者でも、降参すれば、手なづけて用ふ事に腐心したのである。又、秦の乱世のそれと、今日の黄賊とは、その質がちがふ。生きる利なく、窮地に墜ちたが故に、降を乞うて来た賊を、愍(あは)れみをかけて、救(たす)けなどしたら、それはかへつて寇(あだ)を長じさせ、世道人心に、悪業を奨励するやうなものではないか。この際、断じて、賊の根を絶たねばいかん」
「いや。伺つてみると、たいへん御もつともです」
 玄徳は、彼の説に伏した。
「では、攻めて城内の賊を、殲滅するとしてもです。かう四方、一門も遁(のが)れる隙間なく囲んで攻めては、城兵は、死の一図に結束し、恐(おそろ)しい最後の力を奮ひ出すに極(きま)つてゐます。味方の損害も夥しい事になりませう。一方の門だけは、逃口(にげくち)を与へておいて、三方から之(これ)を攻めるべきではありますまいか」
「なる程。その説はよろしい」
 朱雋は、直(たゞち)に、命令を変更して、急激に攻めたてた。
 東南(たつみ)の一門だけ開いて、三方から鼓(コ)をならし、火を放つた。
 果(はた)して、城内の賊は、乱れ立つて一方へくづれた。
 朱雋は、騎を飛ばして、乱軍の中に、賊将の韓忠を見かけ、鉄弓で射とめた。
 韓忠の首を、槍に突き刺させて、従者に高く振り上げさせ
「征賊大将軍朱雋、賊徒の将、韓忠をかく葬つたり。われと名乗る者や猶(なほ)ある」
 と、得意になつて呶鳴つた。
 すると、残る賊将の趙弘と孫仲のふたりは
「あいつが朱雋か」
 と、火炎の中を、黒驢を飛ばして、名のりかけて来た。
 朱雋は、たまらじと、自軍のうちへ逃げこんだ。韓忠親分の讐と怒りに燃えた賊兵は、朱雋を追つて、朱雋の軍の真ん中を突破し、まつたくの乱軍を呈した。
 賊の一に対して、官兵は十人も死んだ。朱雋につゞいて、官軍はわれがちに十里も後ろへ退却した。
 賊軍は、気をもり返して、城壁の火を消し、ふたゝび四方の門を固くして
「さあいつでも来い」
 と構へ直した。
 その日の黄昏(たそが)れ、多く傷兵が、惨として夕月の野に横たはつてゐる官軍の陣営へ、何処から、来たか一彪(イツペウ)の軍馬が馳来(かけきた)つた。
[75]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月23日(木)付夕刊掲載

昭和14年(1939)11月24日(金)付の夕刊は、前日(配達日)の11月23日(木)が祝日(新嘗祭)のため休刊でした。

(八)

「何者か」
 と、玄徳等は、やがて近づいて陣門に入るその軍馬を、幕舎の傍(かたはら)から見てゐた。
 総勢、約千五百の兵。
 隊伍は整然、歩武堂々、
「そもこの精鋭を統(す)べる将はいかなる人物か」
 を、それだけでも思はすに足るものだつた。
 見てあれば。
 その隊伍の真つ先に、旗手、鼓手の兵を立て、続いてすぐ後から、一頭の青驪(セイリ)に跨がつて、威風あたりを払つて来る人がある。
 それなんこの一軍の大将であらう。広額(クワウガク)、濶面(クワツメン)、唇は丹(タン)のやうで、眉は峨眉山(ガビサン)の半月のごとく高くして鋭い。熊腰(ユウエウ)にして虎態(コタイ)、いわゆる威あつて猛(たけ)からず、見るからに大人の風を備へてゐる。
「誰かな?」
「誰なのやら」
 関羽も張飛も、見まもつてゐたが、程なく陣門の衛将が、名を糺(ただ)すに答へる声が、遠くながら聞えて来た。
「これは呉郡(ゴグン)富春(フシユン)(浙江省、上海附近)の産で、孫堅(ソンケン)、字(あざな)は文臺(ブンダイ)といふ者です。古(いにしへ)の孫子が末葉であります。官は下邳(カヒ)の丞(ジヨウ)ですが、このたび王軍、黄巾の賊徒を諸州に討つと承つて、手飼の兵千五百を率ゐ、いさゝか年来の恩沢にむくゆべく、官軍のお味方たらんとして馳せ参じた者であります。——朱雋将軍へよろしくお取次を乞ふ」
 堂々たる態度であつた。
 また、音吐(オント)も朗々と聞えた。
「………」
 関羽と張飛は、顔を見合わせた。先には、潁川の野で、曹操を見、今こゝに又、孫堅といふ一人物を見て
「やはり世間はひろい。秀でた人物が居ないではない。たゞ、世の平静なる時は、居ないやうに見えるだけだ」
 と、感じたらしかつた。
 同じ、その世間を、
「甘くはできないぞ」
 といふ気持も抱いたであらう。何しろ、孫堅の入陣は、その卒伍までが、立派だつた。
 孫堅の来援を聞いて、
「いや呉郡富春に、英傑ありと、かねてはなしに聞いてゐたが、よくぞ来てくれた」
 と、朱雋はなゝめならず欣(よろこ)んで迎へた。
 けふさんざんな敗軍の日ではあつたし、朱雋は、大いに力を得て、翌日は、孫堅が准泗(ワイシ)の精鋭千五百をも加へて、
「一挙に」
 と、宛城へ迫つた。
 即ち、新手の孫堅には、南門の攻撃に当らせ、玄徳には北門を攻めさせ、自身は西門から攻めかかつて、東門の一方は、前日の策のとほり、わざ/\道をひらいておいた。
「洛陽の将士に笑はるゝ勿れ」
 と、孫堅は、新手でもあるので、またゝく間に、南門を衝き破り、彼自身も青毛の駒を降りて、濠(ガウ)を越え、単身、城壁へよぢ登つて
「呉郡の孫堅を知らずや」
 と賊兵の中へ躍り入つた。
 刀を舞はして孫堅が賊を斬ること二十餘人、それに当つて、噴血を浴びない者はなかつた。
 賊将の趙弘は、
「ふがひなし。彼奴(きやつ)、何ほどの事やらん」
 赫怒して孫堅に名のりかけ、烈戦二十餘合、火をとばしたが、孫堅は飽くまでつかれた色も見せず、忽(たちま)ち趙弘を斬つて捨てた。
 もう一名の賊将孫仲は、それを眺めて、かなはじと思つたか、敗走する味方の賊兵の中に紛れこんで、早くも東門から逃げ走つてしまつた。
[76]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月25日(土)付夕刊掲載

(九)

 その時。
 ひゆつと、何処(どこ)か天空で、弦(つる)を放たれた一矢の矢うなりがした。
 矢は、東門の望楼の辺(ほとり)から、斜めに線を描いて、怒濤のやうに、われがちと敗走してゆく賊兵の中へ飛んだが、狙ひあやまたず、今しも金蘭橋(キンランキヤウ)の外門まで落ちて行つた賊将孫仲の頸(うなじ)を射ぬき、孫仲は馬上からもんどり打つて、それさへ眼に入らぬ賊兵の足に忽(たちま)ち踏みつぶされたかに見えた。
「あの首、掻取(かきと)つて来い」
 玄徳は、部下に命じた。
 望楼の傍(わき)の壁上に鉄弓を持つて立ち、目ぼしい賊を射てゐたのは彼であつた。
 一方、官軍の朱雋も孫堅も、城中に攻入つて、首を獲(と)ること数万級、各所の火災を鎮め、孫仲、趙弘、韓忠三賊将の首を城外に梟(か)け、市民に布告を発し、城頭の餘燼まだ煙る空に、高々と、王旗を翻(ひるが)へした。
「漢室万歳」
「洛陽軍万歳」
「朱雋大将軍万歳」
 南陽の諸郡も、悉(ことごと)く平定した。
 彼(か)の大賢良師張角が、戸(コ)毎(ごと)に貼らせた黄いろい呪符もすべて剝がされて、黄巾の兇徒は、まつたく影を潜め、万戸泰平を謳歌するかに思はれた。
 然(しか)し、天下の乱は、天下の草民から意味なく起るものではない。むしろその禍根は、民土の低きよりも、廟堂の高きにあつた。川下よりも川上の水源にあつた。政を奉ずる者より、政を司る者にあつた。地方よりも中央にあつた。
 けれど腐れる者ほど自己の腐臭には気づかない。又、時流のうごきは眼に見えない。
 とまれ官軍は旺(さかん)だつた。征賊大将軍は功なつて、洛陽へ凱旋した。
 洛陽の城府は、挙げて、遠征の兵馬を迎へ、市は五彩旗に染まり、夜は万燈に彩(いろど)られ、城内城下、七日七夜といふもの酒の泉と音楽の狂ひと、酔ひどれの歌などで沸くばかりであつた。
 王城の府、洛陽は千万戸といふ。さすがに古い伝統の都だけに、物資は富み、文化は絢爛だつた。佳人貴顕たちの往来は目を奪ふばかり美しい。帝城は金壁にかこまれ、瑠璃の瓦を重ね、百官の驢車は、翡翠門に花の淀むやうな雑鬧(ザツトウ)を呈してゐる。天下のどこに一人の飢民でもあるか、今の時代を乱兆と悲しむ所謂(いはれ)があるのか、この殷賑に立つて、旺(さかん)なる夕べの楽音を耳にし、万斛(バンコク)の油が一夜に燈(とも)されるという騒曲の灯の、宵早き有様を眺めれば、むしろ、世を憂へ嘆く者のことばが不思議なくらゐである。
 けれど。
 廿里の野外、そこに連なる外城の壁からもし一歩出て見るならば、秋は更けて、木も草も枯れ、徒(いたづ)らに高き城壁に、蔓草の離々たる葉のみわづかに紅く、日暮れゝば花々の闇一色、夜暁(あ)ければ颯々の秋風ばかり哭いて、所々の水辺に、寒げに啼く牛の仔と、灰色の空をかすめる鴻の影を時稀(ときたま)に仰ぐくらゐなものであつた。
 そこに。
 無口に屯(たむろ)してゐる人間が、枯木や草をあつめて焚火をしながら、わづかに朝夕の霜の寒さをしのいでゐた。
 玄徳たちの義軍であつた。
 義軍は、外城の門の一つに立つて、門番の役を命じられてゐる。
 と云へば、まだ体裁はよいが、正規の官軍でなし、官職のない将卒なので、三軍洛陽に凱旋の日も、こゝに停められて、内城から先へは入れられないのであつた。
 鴻が飛んでゆく。
 野(の)芙蓉に揺らぐ秋風が白い。
「……」
 玄徳も関羽も、この頃は、無口であつた。
 あはれな卒伍は、まだ洛陽の温(あたゝか)い菜の味も知らない。土龍(もぐら)のやうに、鉄門の蔭に、かゞまつてゐた。
 張飛も、黙然(モクネン)と、水洟(みづばな)をすゝつては、時折、ひどく虚無に囚(とら)はれたやうな顔をして、空行く鴻の影を見てゐた。
[77]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月26日(日)付夕刊掲載

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竹内真彦
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