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吉川英治『三国志』新聞連載版(8)三花一瓶(さんくわいつぺい)

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(一)

  母と子は、仕事の庭に、けふも他念なく、蓆機(むしろばた)に向つて、蓆を織つてゐた。
  がたん……
  ことん
  がたん
 水車の回るやうな単調な音が繰返されてゐた。
 だが、その音にも、けふは何となく活気があり、歓喜の譜があつた。
 黙々、仕事に精出してはゐるが、母の胸にも、劉備の心にも、今日此頃の大地のやうに、希望の芽が生々と息づいてゐた。
 ゆふべ。
 劉備は、城内の市から帰つて来ると、まつ先に、二つの吉事を告げた。
 一人の良き友に出会つた事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ帰つて来た事と。
 さう二つの歓びを告げると彼の母は、
「一陽来復。おまへにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
 と、かへつて静かに声を低め、劉備の覚悟を糺すやうにいった。
 時節。……さうだ。
 長い長い冬を経て、桃園の花も漸(やうや)く蕾を破ってゐる。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、萌え出ない物は何一つ無い。
  がたん……
  ことん……
 蓆機は単調な音をくりかへしてゐるが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春を覚えたことはない。
 ——我は青年なり。
 空へ向つて云ひたいやうな気持である。いやいや、老いたる母の肩にさへ、何処からか舞つて来た桃花の一片(ひとひら)が、紅く点じてゐるではないか。
 すると、何処かで、歌ふ者があつた。十二、三歳の少女の声だつた。
  妾(セウ)ガ髪初メテ額ヲ覆(おほ)フ
  花ヲ折ツテ門前ニ戯レ
  郎ハ竹馬ニ騎シテ来リ
  床(シヤウ)ヲ繞(めぐ)ツテ青梅ヲ弄ス
 劉備は、耳を澄ました。
 少女の美音は、近づいて来た。
  ……十四君ノ婦ト為ツテ
  羞顔未(いま)ダ嘗(かつ)テ開カズ
  十五初メテ眉を展(の)ベ
  願ハクバ塵ト灰トヲ共ニセン
  常ニ抱柱ノ信ヲ存シ
  豈(あに)上(のぼ)ランヤ望夫台
  十六君遠クヘ行ク
 近所に住む少女であつた。早熟な彼女はまだ青い棗みたいに小粒であつたが、劉備の家の直ぐ墻隣(かきどなり)の息子に恋して居るらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼など窺つては、墻(かき)の外へ来て、よく歌をうたつてゐた。
「…………」
 劉備は、木蓮の花に黄金(きん)の耳環(みみわ)を通したやうな、少女の貌(かお)を眼に描いて、隣の息子を、何となく羨しく思つた。
 そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思ひ出してゐた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合はされた鴻家の息女、鴻芙蓉の其後の消息であつた。
 ——何(ど)うしたらう。あれから先。
 張飛に訊けば、知つてゐる筈である。こんど張飛に会つたら——など独り考へてゐた。
 すると、墻の外で、頻(しき)りに歌をうたつてゐた少女が、犬にでも嚙まれたのか、突然、きやつと悲鳴をあげて、何処かへ逃げて行つた。
[41]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月12日(木)付夕刊掲載

(二)

 少女は、犬に咬まれたわけではなかつた。
 自分のうしろに、この辺で見た事もない、剣を佩(は)いた巨(おほ)きな髯漢(ひげをとこ)が、いつのまにか来てゐて、
「おい、小娘、劉備の家(うち)はどこだな」
 と、訊ねたのだつた。
 けれど、少女は、振向いてその漢(をとこ)を仰ぐと、姿を見たゞけで、胆をつぶし、きやつと云つて、逃げ走つてしまつたのであつた。
「あはゝゝ。わはゝゝ」
 髯漢は、小娘の驚きを、滑稽に感じたのか、独りして笑つてゐた。
 その笑ひ声が止むと一緒に、後(うしろ)の墻(かき)の内でも、はたと、蓆機(むしろばた)の音が止んでゐた。
 墻といつても匪賊に備へるため此辺(このへん)では、総(すべ)てと云つてよい程、土民の家でも、土の塀か、石で組上げた物で出来てゐたが、劉家だけは、泰平の頃に建(たて)た旧家の慣はしで、高い樹木と灌木に、細竹を渡して結つてある生垣だつた。
 だから、背の高い張飛は、首から上が、生垣の上に出てゐた。劉備の庭からもそれが見えた。
 ふたりは顔を見合つて、
「おう」
「やあ」
 と、十年の知己のやうに呼び合つた。
「なんだ、此処か」
 張飛は、外から木戸口を見つけて這入(はい)つて来た。づし/\と地が鳴つた。劉家初まつて以来、こんな大きな跫音(あしおと)が、此家(このや)の庭を踏んだのは初めてだらう。
「きのふは失礼しました。君に会つた事や、剣の事を、母に話した所、母もゆうべは歓んで、夜もすがら希望に耽つて、語り明かしたくらゐです」
「あ。こちらが貴公の母者人(はゝじやひと)か」
「さうです。——母上、このお方です。きのふお目にかゝつた翼徳張飛といふ豪傑は」
「オオ」
 劉備の母は、機(はた)の前からすつと立つて張飛の礼を享(う)けた。何(ど)ういふものか、張飛は、その母公の姿から、劉備以上、気高い威圧をうけた。
 又、実際、劉備の母には自(おのづ)から備はつている名門の気品があつたのであらう。世の常の甘い母親のやうに、息子の友達だからといつて、やたらに小腰を屈(かゞ)めたりチヤホヤはしなかつた。
「劉備からおはなしは聞きました。失礼ですが、お見うけ申すからに頼もしい偉丈夫。どうか、柔弱なわたくしの一子を、これから叱咤して下さい。おたがひに鞭撻し合つて、大事を為しとげて下さい」
 と、云つた。
「はつ」
 張飛は、自然どうしても、頭を下げずには居られなかつた。長上に対する礼儀のみからではなかつた。
「母公。安心して下さい。きつと男児素志をつらぬいて見せます。——けれど茲(こゝ)に、遺憾なことが一つ起りました。で、実は御子息に相談に来たわけですが」
「では、男同士のはなし、わたしは部屋へ行つて居ませう。悠(ゆる)りとおはなしなさい」
 母は、奥へかくれた。
 張飛は、その後の床几へ腰かけて、実は——と、自分の盟友、いや義兄とも仰いでゐる、雲長の事を話し出した。
 雲長も、自分が見込んだ漢(をとこ)で、何事も打明け合つてゐる仲なので、早速、ゆうべ訪れて、仔細を話したところ、意外にも、彼は少しも歓んでくれない。
 のみならず、景帝の裔孫などゝは、むしろ怪しむべき者だ。そんな路傍のまやかし者と、大事を語るなどは、以(もつ)てのほかであると叱られた。
「残念でたまらない。雲長めは、さう云つて疑ふのだ。……御足労だが、貴公、これから拙者と共に、彼の住居まで行つてくれまいか。貴公といふ人間を見せたら、彼も恐らくこの張飛の言を信じるだらうと思ふから——」
[42]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月13日(金)付夕刊掲載

(三)

 張飛は、疑ひが嫌ひだ。疑はれる事はなほ嫌ひだ。雲長が、自分の言を信じてくれないのが、心外でならないのである。
 だから劉備を連れて行つて、その人物を実際に示してやらう——かう考えたのも張飛らしい考へであつた。
 然(しか)し、劉備は
「……さあ?」
 と云つて、考へこんだ。
 信じない者へ、強(し)ひて、自己を押つけて、信じろといふのも、好ましくないとする風だつた。
 すると、廊の方から、
「劉備。行つてお出でなさい」
 彼の母が云つた。
 母は、やはり心配になるとみえて、彼方で張飛のはなしを聞いてゐたものとみえる。
 もつとも、張飛の声は、この家の中なら、どこに居ても聞えるほど大きかつた。
「やあ、お許し下さるか。母公のおゆるしが出たからには、さう劉君、何もためらふ事はあるまい」
 促すと、母も共に
「時機といふものは、その時をのがしたら、又いつ巡つて来るか知れないものです。——何やら、今はその天機が巡つて来てゐるやうな気がするのです。些細な気持などに囚(とら)はれずに、お誘ひをうけたものなら、張飛どのにまかせて、行つて御覧なさい」
 劉備は、母のことばに
「では、参らう」
 と決心の腰を上げた。
 二人は並んで、廊の方へ
「では、行つてきます」
 礼をして、墻(かき)の外へ出て行つた。
 すると、道の彼方から、約百人ほどの軍隊が、驀(まつ)しぐらに馳けて来た。騎馬もあり徒歩の兵もあつた。埃の中に、青龍刀の白い光りがつゝまれて見えた。
「あ……又来た」
 張飛のつぶやきに、劉備は怪訝(いぶか)つて
「何です、あれは」
「城内の兵だらう」
「関門の兵らしいですね。何事があつたのでせう」
「多分、この張飛を、召捕らへに来たのかも知れん」
「え?」
 劉備は、驚きを喫して、
「では、此方(こつち)へ対(むか)つて来る軍隊ですか」
「さうだ。もう疑ひない。劉君、あれをちよつと片づける間、貴公はどこかに休んで見物してゐてくれないか」
「弱りましたな」
「何、大した事はない」
「でも、州郡の兵隊を殺戮したらとてもこの土地には居られませんぞ」
 云つてゐる間に、もう百餘名の州郡の兵は張飛と劉備を包囲してわい[わい]騒ぎ出した。
 だが、容易に手は下しては来なかつた。張飛の武力を二度まで知つてゐるからであらう。けれど二人は一歩もあるく事は出来なかつた。
「邪魔すると、蹴殺すぞ」
 張飛は、一方へこう呶鳴つて歩きかけた。わつと兵は退(ひ)いたが、背後から矢や鉄槍が飛んで来た。
「面倒つ」
 又しても、張飛は持前の短気を出して、直ぐ剣の柄(つか)へ手をかけた。
 ——すると、彼方から一頭の逞しい鹿毛(かげ)を飛ばして、
「待てつ、待てえ」
 と呼ばはりながら馳けて来る者があつた。州郡の兵も、張飛も、何気なく眼をそれへ馳せて振向くと、胸まである黒髯(コクゼン)を春風に弄(なぶ)らせ、腰に偃月刀の佩環を戞々(カツ/\)とひゞかせながら、手には緋総(ひぶさ)のついた鯨鞭(ゲイベン)を持った大丈夫が、その鞭を上げつゝ近づいて来るのであつた。
[43]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月14日(土)付夕刊掲載

(四)

 それは、雲長であつた。
 童学草舎の村夫子(ソンフシ)も、武装すれば、こんなにも威風堂々と見えるものかと、眼をみはらせるばかりな、雲長の風貌であった。
「待て諸君」
 乗りつけてきた鹿毛の鞍から跳び降りると、雲長は、兵の中へ割つて入り、そこに囲まれてゐる張飛と劉備を後(うしろ)にして、大手を拡げながら云つた。
「貴公等は、関門を守備する領主の兵と見うけるが、五十や百の小人数を以(もつ)て、一体何をなさらうとするのか。——この漢(をとこ)を召捕らうとするならば」
 と、背後に居る張飛へ、顎を振向けて
「まづ五百か千の人数を揃へて来て、半分以上の屍(しかばね)はつくる覚悟がなければ縛(から)め捕る事はできまい。諸君は、この翼徳張飛といふ人間が、どんな力量の漢か知るまいが、曽(かつ)て、幽州の鴻家に仕へてゐた頃、重さ九十斤、長さ一丈八尺の蛇矛(ジヤボウ)を揮つて、黄巾賊の大軍中へ馳けこみ、屍山血河を作つて、半日の合戦に八百八屍(ハツピヤクハチシ)の死骸を積み、当時、張飛のことを、八百八屍将軍と綽名(あだな)して、黄匪を戦慄させたといふ勇名のある漢(をとこ)だ。——それを、素手(すで)にもひとしい小人数で、縛め捕らうなどは、檻へ入つて、虎と組むやうなもの、各各(おのおの)が皆、死にたいといふ願ひで、この漢へ関(かま)ふなら知らぬこと、命知らずな真似はやめたら何(ど)うだ。生命の欲しい者は足もとの明るいうちに帰れ。こゝは、かくいふ雲長にまかせて、一先(ひとま)づ引揚げろ」
 雲長は、実に雄辯だつた。一息にこゝまで演説して、まつたく対手(あひて)の気をのんでしまひ、更に語をついで云つた。
「——かう云つたら諸公は、わしを何者ぞと疑ひ、又、巧みに張飛を逃がすのではないかと、疑心を抱くであらうが、左(サ)に非(あら)ず、不肖はかりそめにも、童学草舎を営み子弟の薫陶を任とし、常に聖賢の道を本義とし、国主を尊び、法令を遵守すべきことを、身にも守り、子弟に教へてゐる雲長関羽といふ者である。そして、これに居る翼徳張飛は、何をかくさう自身の義弟にあたる人間でもある。——だが、昨夜から今朝にかけて、張飛が官の吏兵を殺害し、関門を破り、酒の上で暴行したことを聞き及んで、宥(ゆる)し難(がた)く思ひ、この上多くの犠牲(いけにへ)を出さんよりは、義兄たるわが手に召捕りくれんものと、かくは身固め致して、官へ願い出(い)で、宙を馳せてこれへ駆けつけて来たわけでござる——。張飛はこの雲長が召捕つて、後刻、太守の県城へまで送り届けん。諸公は、こゝの事実を見とゞけて、その由、先へ御報告置きねがふ」
 雲長は、沓(くつ)を回(めぐら)して、きつと張飛の方へ今度は向き直つた。
 そして、大喝一声、
「こゝな不届き者つ」
 と、鯨の鞭で、張飛の肩を打ちすゑた。
 張飛は、憤(む)かつとしたやうな眼をしたが、雲長は更に、
「縛(バク)につけ」と、跳びかゝつて、張飛の両手を後(うしろ)へまはした。
 張飛は、雲長の心を疑ひかけたが、より以上、雲長の人物を信じる心のはうが強かつた。
 で——何か考へがある事だらうと、神妙に縄を受けて、大地へ坐つてしまつた。
「見たか、諸公」
 雲長は再び、呆つ気にとられてゐる捕吏や兵の顔を見まはして、
「張飛は、後刻、それがしが県城へ直接参つて渡すから、諸公は先へこゝを引揚げられい。それとも猶(なほ)、この雲長を怪しみ、それがしの言葉を疑ふならば、ぜひもない、縄を解いて、この猛虎を、諸公の中へ放つが、何(ど)うだ」
 云ふと、捕吏も兵も、逃げ足早く、物も云はず皆、退却してしまつた。
[44]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月15日(日)付夕刊掲載

(五)

 誰も居なくなると、雲長はすぐ張飛の縄を解いて、
「よく俺を信じて、神妙にしてゐてくれた。事なく助ける策謀の為とはいへ、貴様を手にかけた罪はゆるしてくれ」
 詫びると、張飛も、
「それ所ではない。又無益の殺生を重ねるところを、尊兄のお蔭で助かつた」
 と、今朝のむかつ腹もわすれて、いつになく、素直に謝つた。そして、
「——だが雲長。その身装(みなり)は一体、どうした事か。俺を助けに来る為にしては、餘りに物々しい装(よそほ)ひではないか」
 怪しんで問ふと、
「張飛。何をとぼけた事を云ふ。それでは昨夜、あんなに熱をこめて、時節到来だ、良き盟友を獲(え)た、いざ、豫(かね)ての約束を、実行にかゝらうと云つたのは、噓だつたのか」
「噓ではないが、大体、尊兄が不賛成だつたらう。俺の言ふ事何ひとつ、信じてくれなかつたぢやないか」
「それは、あの場の事だ。召使もゐる、女共もゐる。貴様のはなしは、秘密/\と云ひながら、彼(あ)の大声だ。洩れてはならない——さう考へたから一応冷淡に聞いてゐたのだ」
「何だ、それなら、尊兄もわしの言葉を信じ、豫(かね)ての計画へ乗り出す肚(はら)を固めてくれたのか」
「おぬしの言葉よりも、実は、対手(あひて)が楼桑村の劉備どのと聞いたので、即座に心は極(き)めてゐたのだ。豫豫(かねがね)、わしの村まで孝子といふ噂の聞えてゐる劉備どの、それに他(よそ)ながら、御素姓や平常の事なども、ひそかに調べてゐたので」
「人が悪いな。どうも尊兄は、智謀を弄すので、交際(つきあ)ひにくいよ」
「はゝゝ。貴様から交際ひ難(にく)いと云はれようとは思はなかつた。人を殺し、酒屋を飲み仆(たふ)し、その尻尾は童学草舎へ持つて行けなどと云ふ乱暴者から、さう云はれては埋らない」
「もう行つたか」
「酒屋の勘定ぐらゐならよいが、官の捕手(とりて)を殺したのは、雲長の義弟(おとと)だと分つたひには、童学草舎へも子供を通はせる親はあるまい。いづれ官からこの雲長へも、やかましく出頭を命じて来るに極(きま)つてゐる」
「成程」
「他人事(ひとごと)のやうに聞くな」
「いや、済まん」
「然(しか)し、これはむしろ、よい機(しほ)だ。天意の命じるものである。かう考へたから、今朝、召使や女共へ、みな暇を出した上、通学して来る子供たちの親も呼んで、都合に依つて学舎を閉鎖すると言ひ渡し、心置なく、身一つになつて、斯(か)くは貴様の後を追つて来たわけだ。——さ。これから改めて、劉備どのの家へお目にかゝりに行かう」
「いや。劉備どのなら、そこに居る」
「え?…………」
 雲長は、張飛の指さす所へ、眼を振向けた。
 劉備は最前から、少し離れた所に立つてゐた。そして、張飛と雲長との二人の仲の睦まじさと、その信義に篤い様子を見て、感にたへてゐる面持(おももち)だつた。
「あなたが劉備様ですか」
 雲長は、近づいて行くと、彼の足下へ最初から膝を折つて、
「初めてお目にかゝります。自分は河東解良(山西省・解県)の産で、関羽字(あざな)は雲長と申し、長らく江湖を流寓の末、四、五年前よりこの近村に住んで、村夫子となつて草裡に空しく月日を送つてゐた者です。かねて密に心にありましたが、計らずも今日、拝姿の栄に会ひ、こんな歓ばしい事はありません。どうかお見知りおき下さい」
 と、最高な礼儀を執つて、慇懃に云つた。
[45]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月17日(火)付夕刊掲載

昭和14年(1939)10月18日(水)付の夕刊は、前日(配達日)の10月17日(火)が祝日(神嘗祭)のため休刊でした。

(六)

 劉備は敢て、卑下しなかつたが、べつに尊大に構へもしなかつた。雲長関羽の礼に対して、当り前に礼を返しながら、
「ご丁寧に。……どうも申し遅れました。私は、楼桑村に永らく住む百姓の劉玄徳といふ者ですが、豫(かね)て、蟠桃河の上流(かみ)の村に、醇風良俗の桃源があると聞きました。おそらく先生の高風に化されたものでありませう。何を云ふにも、こゝは路傍ですから、すぐそこの茅屋までお越しください」
 と、誘(いざな)へば
「おゝお供しよう」
 関羽も歩み、張飛も肩を並べ共にそこから程近い劉備の家まで行つた。
 劉備の母は、又新しい客が増えたので、不審がつたが、張飛から紹介されて、関羽の人物を見、欣(よろこ)びを現して、
「ようぞ、茅屋(あばらや)へ」
 と心から歓待した。
 その晩は、母も交(まじ)つて、夜更けまで語つた。劉備の母は、劉家の古い歴史を、覚えてゐる限り話した。
 生れてからまだ劉備さへ聞いてゐない話もあつた。
(愈々(いよ[いよ])漢室のながれを汲んだ景帝の裔孫にちがひない)
 張飛も、関羽も、今は少しの疑ひも抱(いだ)かなかつた。
 同時に、この人こそ、義挙の盟主になすべきであると肚(はら)に極(き)めてゐた。
 然(しか)し、劉玄徳の母親思ひのことは知つてゐるので、この母親が、
(そんな危(あぶな)い企みに息子を加へる事はできない)
 と、断られたらそれ迄(まで)になる。関羽は、それを考へて、ぼつ/\と母の胸をたづねてみた。
 すると劉備の母は、皆まで聞かないうちに云つた。
「ねえ劉や、今夜はもう遅いから、おまえも寝(やす)み、お客様にも臥床(ふしど)を作つておあげなさい。——そして明日はいづれ又、お三名して将来の相談もあらうし、大事の門出でもありますし、母が一生一度の馳走を拵(こしら)へてあげますからね」
 それを聞いて、関羽は、この母親の胸を問ふなど愚である事を知つた。張飛も共に、頭(かしら)を下げて、
「ありがたう御座る」
 と、心服した。
 劉備は、
「では、お言葉に甘へて、明日はおつ母さんに、一世一代の祝ひを奢つていたゞきませう。けれどその御馳走は、吾々ばかりでなく、祭壇を設けて、先祖にも上げていたゞきたいものです」
「では、ちょうど今は、桃園の花が真盛りだから、桃園の中に蓆(むしろ)を敷かうかね」
 張飛は手を打つて、
「それはいゝ。では吾々も、あしたは朝から桃園を浄(きよ)めて、せめて祭壇を作る手助(てつだひ)でもしよう」
 と、云つた。
 客の二人に床(シヤウ)を与へて、眠りをすゝめ、劉備と母のふたりは、暗い厨(くりや)の片隅で、藁を被(かぶ)つて寝た。
 劉が眼をさましてみると、母はもう居なかつた。夜は明けてゐたのである。どこかで頻(しき)りに、山羊の啼く声がしてゐた。
 厨の窯の下には、どか/\と薪(まき)が燻(く)べられてゐた。こんなに景気よく窯に薪の焚かれた例(ためし)は、劉備が少年の頃から覚えのない事であつた。春は桃園ばかりでなく、貧しい劉家の臺所に訪れて来たやうに思はれた。
[46]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月19日(木)付夕刊掲載

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