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吉川英治『三国志』新聞連載版(2)流行(はや)る童歌

前章「黄巾賊」へ

(一)

 驢は、北へ向いて歩いた。
 鞍上の馬元義は、時々、南を振り向いて、
「奴等はまだ追ひついて来ないが何(ど)うしたのだらう」
 と、呟(つぶや)いた。
 彼の半月槍を担いで、驢の後から尾(つ)いてゆく手下の甘洪は
「どこかで道を取つ違へたのかも知れませんぜ。いずれ冀州(河北省保定の南方)へ行けば落ち会ひませうが」
 と、云つた。
 いづれ賊の仲間のことを云つているのであらう——と劉備は察した。とすれば、自分が遁(のが)れて来た黄河の水村を襲つた彼(あ)の連中を待つてゐるのかも知れない、と思つた。
(何しろ、従順を装つてゐるに如(し)くはない。そのうちには、逃げる機会があるだらう)
 劉備は、賊の荷物を負つて、黙々と、驢と半月槍のあひだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつゞけた。
 幸ひ雨のない日が続いた。十方碧落、一朶の雲もない秋だつた。黍のひよろ長い穂に、時折、驢も人の背丈もつゝまれる。
「ああ——」
 旅に倦んで、馬元義は大きな欠伸(あくび)を見せたりした。甘も気懶(けだる)さうに、居眠り半分、足だけを動かしてゐた。
 そんな時。劉備はふと、
 ——今だつ。
 といふ衝動に駆られて、幾度か剣に手をやらうとしたが、もし仕損じたらと、母を想ひ、身の大望を考へて凝(じつ)と辛抱してゐた。
「おう、甘洪」
「へえ」
「飯が食へるぞ。冷たい水にありつけるぞ——見ろ、彼方(むかふ)に寺があら」
「寺が」
 黍の間から伸び上つて
「ありがてえ。大方、きつと酒もありますぜ。坊主は酒が好きですからね」
 夜は冷え渡るが、昼間は焦げつくばかりな炎熱であつた。——水と聞くと、劉備も思はず伸び上つた。
 低い丘陵が彼方に見える。
 丘陵に抱かれてゐる一叢(ひとむら)の木立と沼があつた。沼には紅白の蓮花(はちす)が一ぱいに咲いてゐた。
 そこの石橋を渡つて、荒れはてた寺門の前で、馬元義は驢を降りた。門の扉(と)は、一枚は壊(こは)れ、一枚は形だけ残つてゐた。それに黄色の紙が貼つてあつて、次のやうな文が書いてあつた。
  蒼天已死(さうてん すでにしす)
  黄夫当立(くわうふ まさにたつべし)
  歳在甲子(とし かふしにありて)
  天下大吉(てんかだいきち)
    ○
  大賢良師張角(たいけんりやうし ちやうかく)
「大方、御覧なさい。こゝにも吾党(わがたう)の盟符が貼つてありまさ。この寺も黄巾の仲間に入つてゐる奴ですぜ」
「誰か居るか」
「ところが、いくら呼んでも誰も出て来ませんが」
「もう一度、呶鳴(どな)つてみろ」
「おうい、誰かいねえのか」
 ——薄暗い堂の中を、呶鳴りながら覗いてみた。何もない堂の真ん中に、曲彔(キヨクロク)に腰かけてゐる骨と皮ばかりな老僧が居た。然(しか)し老僧は眠つてゐるのか、死んでゐるのか、木乃伊(みいら)のやうに、空虚(うつろ)な眼を梁(うつばり)へ向けたまゝ、寂然と——答へもしない。
[7]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月2日(土)付夕刊掲載

(二)

「やい、老(おい)ぼれ」
 甘洪は、半月槍の柄で、老僧の脛を撲(なぐ)つた。
 老僧は、やつと鈍い眼をあいて、眼の前にゐる甘と、馬と、劉青年を見まはした。
「食物(くひもの)があるだらう。おれたちは此処で腹支度をするのだ、はやく支度をしろ」
「……無い」
 老僧は、蠟のやうな青白い顔を、力なく振つた。
「ない? ——。これだけの寺に食物がない筈はねえ。俺たちを何だと思ふ、頭髪(あたま)の黄巾(きれ)を見ろ。大賢良師張角様の方将、馬元義といふものだ。家探しして、もし食物があつたら、素ツ首を刎ね落すがいいか」
「……どうぞ」
 老僧は、頷いた。
 馬は甘を顧(かへり)みて
「ほんとに無いのかも知れねえな。餘り落着いてゐやがる」
 すると老僧は、曲彔(キヨクロク)に掛けてゐた枯木のような肱を上げて、後の祭壇や、壁や四方をいち/\指して、
「無い!無い!無い!……。仏陀の像さへ無い!一物もこゝには無いつ」
 と、云つた。
 泣くがやうな声である。
 そして鈍い眸(ひとみ)に、怨みの光りをこめて又云つた。
「みんな、お前方の仲間が持つて行つてしまつたのだ。蝗の群が通つた田の後みたいだよ此処は……」
「でも、何かあるだらう。何か喰へる物が」
「無い」
「ぢやあ、冷たい水でも汲んで来い」
「井戸には、毒が投げこんである。飲めば死ぬ」
「誰がそんな事をした」
「それも、黄巾をつけたお前方の仲間だ。前の地頭と戦つた時、残党が隠れぬやうにと、みな毒を投げ込んで行つた」
「然(しか)らば、泉があるだらう。あんな美麗な蓮花(はちす)が咲いてゐる池があるのだから、何処ぞに、冷水が湧いてゐるにちがひない」
「——あの蓮花が、何で美しからう。わしの眼には、紅蓮も白蓮も、無数の民の幽魂に見えてならない。一花、一花呪ひ、恨み囈、哭(な)き慄(おのの)き震へてゐるやうな」
「こいつめが、妙な世囈(ま)ひ言(ごと)を……」
「噓と思ふなら、池をのぞいてみるがよい。紅蓮の下にも、白蓮の根元にも、腐爛した人間の死骸がいつぱいだよ。お前方の仲間に殺された善良な農民や女子供の死骸だの、又、黄巾の党に入らないので、縊(くび)り殺された地頭やら、その夫人(おくさん)やら、戦つて死んだ役人衆やら——何百といふ死骸がなう」
「あたり前だ。大賢良師張角様に反(そむ)くやつらは、みな天罰でさうなるのだ」
「…………」
「いや。よけいな事は、どうでもいゝ。食物(たべもの)もなく水もなく、一体それでは、汝(てめえ)は何を喰つて生きてゐるのか」
「わしの喰つてる物なら」
 と、老僧は、自分の沓(くつ)のまはりを指さした。
「……そこらにある」
 馬元義は、何気なく、床を見まはした。根を嚙んだ生草(なまぐさ)だの、虫の足だの、鼠の骨などが散らかつていた。
「こいつは参つた。御饗応はおあづけとして置かう。おい劉、甘洪、行かうぜ」
 と出て行きかけた。
 すると、その時初めて、賊の供をしてゐる劉備の存在に気づいた老僧は、穴のあくほど、劉青年の顔を見つめてゐたが、突然、
「あつ?」
 と、打たれたやうな愕(おどろ)きを声に放つて、曲彔から突つ立つた。
[8]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月3日(日)付夕刊掲載

(三)

  老僧の落ちくぼんでゐる眼は大きく驚異に睜(みは)つたままゝ、劉備の面をじいと見すゑたきり、眼(ま)ばたきもしなかつた。
 やがて、独りで、うーむと唸つてゐたが、何思つたか、
「あ、あ! 貴郎(あなた)だつ」
 膝を折つて、床に坐り、恰(あたか)も現世の文珠弥勒でも見たやうに、何度も礼拝して止まなかつた。
 劉備は、迷惑がつて、
「老僧、何をなさいます」
 と、手を取つた。
 老僧は、彼の手に触れると、猶更(なほさら)、随喜の涙を流さぬばかり慄(ふる)へて、額に押し戴きながら、
「青年。——わしは長いこと待つてゐたよ。正しく、わしの待つてゐたのは貴郎だ。——あなたこそ魔魅跳梁を退けて、暗黒の国に楽土を創(た)て、乱麻の世に道を示し、塗炭の底から大民を救つてくれるお方にちがいない」と、云つた。
「飛んでもない。私は涿県から迷つて来た貧しい蓆売(むしろうり)です。老僧、離してください」
「いゝや、貴郎の人相骨がらに現はれてをるよ。青年。聞かしておくれ。貴郎の祖先は、帝系の流れか、王侯の血をひいてゐたらう」
「ちがふ」
 劉備は、首を振つて
「父も、祖父も、楼桑村の百姓でした」
「もつと先は……」
「わかりません」
「分らなければ、わしの言を信じたがよい。貴郎が佩いてゐる剣は誰にもらつたのか」
「亡父(ちち)の遺物(かたみ)」
「もつと前から、家にお在りぢやつたらう。古びて見る面影もないがそれは凡人(ただびと)の佩く剣ではない。琅玕の珠がついてゐたはず、戞玉(カツギヨク)とよぶ珠だよ。剣帯に革か錦の腰帛もついてゐたのだよ。王者の佩(ハイ)とそれを呼ぶ。何しろ、刀身(なかみ)も無双な名剣にまちがひない。試してみたことがおありかの」
「……?」
 堂の外へ先に出たが、後から劉備が出て来ないので、足を止めてゐた賊の馬元義と甘洪は、老僧のぶつ/\云つていることばを、聞き澄ましながら振向いてゐた。が、——痺(しび)れをきらして、
「やいつ劉。いつ迄(まで)何をしてゐるんだ。荷物を持つて早く来いつ」
 と、どなつた。
 老僧は、まだ何か、云ひつゞけてゐたが、馬の大声に恟(すく)んで、急に口を緘(つぐ)んだ。劉備はその機(しほ)に、堂の外へ出て来た。
 驢を繫(つな)いでゐる以前の門を踏み出すと、馬元義は、驢の手綱を解きかける手下の甘を止めて、
「劉、そこへ掛けろ」
 と、木の根を指さし、自分も石段に腰かけて、大きく構へた。
「今、聞いてゐると、汝(てめえ)は行末(ゆくすゑ)、偉い者になる人相を備へてゐるさうだな。まさか、王侯や将軍に成れつこはあるめえが、俺も実は、汝は見込のある野郎だと見てゐるんだ——どうだ、俺の部下になつて、黄巾党の仲間へ加盟しないか」
「はい。有難うございますが」
 と、劉備は飽(あく)まで、素直を装つて、
「私には、故郷(くに)に一人の母がいますので、折角ですが、お仲間には入れません」
「おふくろなぞは、有つてもいいぢやねえか。喰(く)ひ扶持《ふち》さへ送つてやれば」
「けれど、かうして、私が旅に出てゐる間も、痩せるほど子の心配ばかりしてゐる、至つて子凡悩(ボンナウ)な母ですから」
「それやさうだろう。貧乏ばかりさせておくからだ。黄巾党に入つて、腹さへ膨らせておけば、何、嬰児(あかご)ぢやあるめえし、子の心配などしてゐるものか」
[9]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月5日(火)付夕刊掲載

(四)

 馬元義は、功名に燃えやすい青年の心を唆(そゝ)るやうに、それから黄巾党の勢力やら、世の中の将来やらを、談義し初めた。
「狭い目で見てゐる奴は、俺たちが良民虐(いぢ)めばかりしてゐると思つてゐるが、俺たちの総大将張角様を、神の如く崇(あが)めている地方だつてかなり有る——」
 と、前提(まへおき)して、まづ、黄巾党の起りから説き出すのだつた。
 今から十年ほど前。
 鉅鹿郡(河北省順徳ノ東)の人で、張角といふ無名の士があつた。
 張角は然(しか)し稀世の秀才と、郷土でいはれてゐた。その張角が、或時、山中へ薬を採りに入つて、道で異相の道士に出会った。道士は手に藜の杖をもち、
 (お前を待つてゐること久しかつた)と、麾(さしまね)くので、従(つ)いて行つてみると、白雲の裡(うち)の洞窟へ誘(いざな)ひ、張角に三巻の書物を授けて、
 (これは、太平要術といふ書物である。此書をよく体して、天下の塗炭を救ひ、道を興し、善を施すがよい。もし自身の我意栄耀に酔うて、悪心を起す時は、天罰たちどころに身を亡ぼすであらう)
 と、云つた。
 張角は、再拝して、翁の名を問ふと、
 (我は南華老仙なり)
 と答へ、姿は、一颯の白雲となつて飛去つてしまつたと云ふのである。
 張角は、その事を、山を降りてから、里の人々へ自分から話した。
 正直な、里の人々は、
 (わし等の郷土の秀才に、神仙が宿つた)
 と真にうけて、忽(たちま)ち張角を、救世の方師と崇めて、触れまはつた。
 張角は、門を閉し、道衣を着て、潔斎をし、常に南華老仙の書を帯びて、昼夜行ひすましてゐたが、或年悪疫が流行して、村にも毎日夥(おびただ)しい死人が出たので、
 (今は、神が我をして、出(いで)よと命じ給ふ日である)
 と、厳(おごそ)かに、草門を開いて、病人を救ひに出たが、その時もう、彼の門前には、五百人の者が、弟子にしてくれと云つて、蝟集して額(ぬかづ)いてゐたといふ事である。
 五百人の弟子は、彼の命に依つて、金仙丹、銀仙丹、赤神丹の秘薬を携(たづさ)へ、各々、悪疫の地を視て廻つた。
 そして、張角方師の功徳を語り聞かせ、男子には金仙丹を、女子には銀仙丹を、幼児には赤神丹を与へると、神薬のきゝめは著しく、皆、数日を出でずして癒(なほ)つた。
 それでも、癒らぬ者は、張角自身が行つて、大喝の呪を唱へ、病魔を家から追ふと称して、符水の法を施した。それで起きない病人は殆どなかつた。
 体の病人ばかりでなく、次には心に病のある者も集まつて来て、張角の前に懺悔した。貧者も来た。富者も来た。美人も来た。力士や武術者も来た。それらの人々は皆、張角の帷幕に参じたり、厨房で働いたり、彼の側近く侍したり、又多くの弟子の中に交(まじ)つて、弟子となつた事を誇つたりした。
 忽ち、諸州にわたつて、彼の勢力は拡(ひろ)まつた。
 張角は、その弟子たちを、三十六の方を立たせ、階級を作り、大小に分ち、頭立つ者には軍帥の称を許し、又方帥の称呼を授けた。
 大方を行ふ者、一万餘人。小方を行ふ者六、七千人。その部の内に、部将あり方兵あり、そして張角の兄弟、張梁、張宝のふたりを、天公将軍、人公将軍とよばせて、最大の権威を握らせ、自身はその上に君臨して、大賢良師張角と、称へていた。
 これが抑(そも/\)の、黄巾党の起りだとある。初め張角が、常に、結髪を黄色い巾(きれ)でつゝんでゐたので、その風が全軍にひろまつて、いつか党員の徽章となつたものである。
[10]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月6日(水)付夕刊掲載

(五)

  又、黄巾軍の徒党は、全軍の旗もすべて黄色を用ひ、その大旆には、
  蒼天已死(さうてんすでにしす)
  黄夫当立(くわうふまさにたつべし)
  歳在甲子(としかうしにありて)
  天下大吉(てんかだいきち)
 といふ宣文を書き、党の楽謡部は、その宣文に、童歌風のやさしい作曲をつけて、党兵に唄はせ、部落や村々の地方から郡、県、市、都へと熱病のやうに唄ひ流行らせた。
  大賢良師張角!
  大賢良師張角!
 今は、三歳の児童も、その名を知らぬはなく、
(——蒼天スデニ死ス。黄夫マサニ立ツベシ)
 と唄つた後では、張角の名を囃して、今にも、天上の楽園が地上に実現するやうな感を民衆に抱かせた。
 けれど、黄巾党が跋扈すればする程、楽土はおろか、一日の安穏も土民の中にはなかつた。
 張角は自己の勢力に服従して来る愚民共へは、
 (太平を楽しめ)
 と、逸楽を許し、
 (わが世を謳歌せよ)
 と、暗に掠奪を奨励した。
 その代りに、逆らふ者は、仮借なく罰し、人間を殺し、財宝を掠め奪(と)る事が、党の日課だつた。
 地頭や地方の官吏も、防ぎやうはなく、中央の洛陽の王城へ、急を告げることも頻々であつたが、現下、漢帝の宮中は、頽廃と内争で乱脈を極めてゐて、地方へ兵を遣(や)るどころではなかつた。
 天下一統の大業を完成して、後漢の代(よ)を興した光武帝から、今は二百餘年を経(へ)、宮府の内外には又、漸(やうや)く腐爛と崩壊の兆(てう)があらはれて来た。
 十一代の帝、桓帝が逝(ゆ)いて、十二代の帝位に即(つ)いた霊帝は、まだ十二、三歳の幼少であるし、輔佐の重臣は、幼帝を偽(あざむ)き合ひ、朝綱を猥りにし、佞智の者が勢ひを得て、真実のある人材は、みな野に追はれてしまふといふ状態であつた。
 心ある者は、密かに、
 (どうなり行く世か?)
 と、憂へてゐる所へ、地方に蜂起した黄巾賊の口々から、
  ——蒼天已死(さうてんすでにしす)
 の童歌が流行つて来て、後漢の末世を暗示する声は、洛陽の城下にまで、満ちてゐた。
 さうした折に又、こんな事も、ひどく人心を不安にさせた。
 或年。
 幼帝が温徳殿(ウントクデン)に出御なされると、遽(にはか)に、狂風がふいて、長(たけ)二丈餘の青蛇が、梁から帝の椅子の側に落ちて来た。帝はきやつと、床に仆(たふ)れて気を失はれてしまつた。殿中の騒動はいふまでもなく、弓箭や鳳尾槍をもつた禁門の武士が馳けつけて、青蛇を刺止(しと)めんとしたところが、突如、雹まじりの大風が王城をゆるがして、青蛇は雲となつて飛び、その日から三日三夜、大雨は底のぬけるほど降りつづいて、洛陽の民家の浸水(みずつ)くもの二万戸、崩壊したもの千何百戸、溺死怪我人算(サン)なし——といふような大災害を生じた。
 また、つい近年には。
 赤色の彗星が現れたり、風もない真昼、黒旋風が突然ふいて、王城の屋根望楼を飛ばしたり、五原山の山つなみに、部落数十が、一夜に地底へ埋没してしまつたり——凶兆ばかり年毎(としごと)に起つた。
[11]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月7日(木)付夕刊掲載

(六)

  そんな凶兆のある度(たび)に、黄巾賊の「蒼天スデニ死ス——」の歌は、盲目的に唄はれて行き、賊党に加盟して、掠奪、横行、殺戮——の自由にできる「我党の太平を楽め」とする者が、殖(ふ)えるばかりだった。
 思想の悪化、組織の混乱、道徳の頽廃。——これを何(ど)うしようもない後漢の末期だつた。
 燎原の火とばかり、魔の手を拡げて行つた黄巾賊の勢力は、今では青州、幽州、徐州、冀州、荊州、揚州、兗州、豫州(黄河口の南北地帯)等の諸地方に及んでゐた。
 州の諸侯を初め、郡県市部の長や官吏は、逃げ散るもあり、降つて賊となるもあり、屍を積んで、焚殺(やきころ)された者も数知れなかつた。
 富豪は皆、財を捧げて、生命を乞ひ、寺院や民家は戸毎(こごと)に、大賢良師張角——と書いた例の黄符を門に貼つて、絶対服従を誓ひ、まるで鬼神を祀るやうに、崇(あが)め恐れた。さうした現状にあつた。
 偖(さて)。…………
 長々と、さうした現状や、黄巾党の勃興などを、自慢さうに語り来つて、
「劉——」
 と、大方馬元義は、腰かけてゐる石段から、寺の門を、顎で指した。
「そこでも、黄色い貼紙を見たらう。書いてある文句も読んだらう。この地方もずつと、俺たち黄巾党の勢力範囲なのだ」
「…………」
 劉備は、終始黙然と聞いてゐるのみだつた。
「——いや、この地方や、十州や二十州はおろかな事、今に天下は黄巾党のものになる。後漢の代(よ)は亡び、次の新しい代になる」
 劉備は、そこで初めて、かう訊ねた。
「では、張角良師は、後漢を亡ぼした後で、自分が帝位に即(つ)く肚(はら)なんですか」
「いやいや。張角良師には、そんなお考へはない」
「では、誰が、次の帝王になるのでせう?」
「それは云へない。……だが劉備、てめえが俺の部下になると約束するなら聞かせてやるが」
「なりませう」
「屹度(きつと)か」
「母が許せばです」
「——では打明けてやるが、帝王の問題は、今の漢帝を亡ぼしてから後の重大な評議になるんだ。匈奴(蒙古族)の方とも相談しなければならないから」
「へえ? ……なぜです。何(ど)うして支那の帝王を極(きめ)るのに、昔から秦や趙や燕などの国境(さかひ)を侵して、われ/\漢民族を脅かして来た異国の匈奴などゝ相談する必要があるのですか」
「それは大いにあるさ」
 と、馬は当然のように——
「いくら俺たちが暴れ廻らうたつて、俺たちの背後(うしろ)から、軍費や兵器をどし/\廻してくれる黒幕が無くつちや、こんな短い年月に、後漢の天下を攪乱する事はできまいぢやねえか」
「えっ。……では黄巾賊のうしろには、異国の匈奴がついてゐるわけですか」
「だから絶対に、俺たちは敗(ま)けるはずはないさ。どうだ劉、俺がすゝめるのは、貴様の出世の為だ。部下になれ、すぐこゝで、黄巾賊に加盟せぬか」
「結構なお話です。母も聞いたら歓びませう。……けれど、親子の中にも礼儀ですから、一応、母にも告げた上で御返辞を……」
 云ひかけて居るのに、馬元義は不意に起ち上つて、
「やつ、来たな」
 と、彼方の平原へ向つて、眉に手をかざした。
[12]【桃園の巻】昭和14年(1939)9月8日(金)付夕刊掲載

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