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吉川英治『三国志』新聞連載版(10)転戦

前章「義盟」へ

(一)

 それより前に、関羽は、玄徳の書を携へて、幽州涿郡(河北省・保定府)の大守劉焉(リウエン)の許(もと)へ使(つかひ)してゐた。
 太守劉焉は、何事かと、関羽を城館に入れて、庁堂で接見した。
 関羽は、礼を施して後、
「太守には今、士を四方に求めらるゝと聞く。果して然(しか)りや」
 と、訊ねた。
 関羽の威風は、堂々たるものであつた。劉焉は、一見して、是(これ)尋常人に非ずと思つたので、その不遜を咎めず、
「然り。諸所の駅路に高札を建てしめ、士を募ること急なり。卿(キヤウ)も亦(また)、檄に応じて来れる偉丈夫なるか」
 と、云つた。
 そこで関羽は、
「さん候(さうらふ)。この国、黄賊の大軍に攻蝕せらるゝこと久しく、太守の軍、連年に疲敗し給ひ、各地の民倉は、挙げて賊の毒手にまかせ、百姓蒼生(ヒヤクセイサウセイ)みな国主の無力と、賊の暴状に哭かぬはなしと承(うけたまは)る」
 敢(あへ)て、媚びず惧(おそ)れず、かう正直に云つてから更に重ねて、
「われ等(ら)恩を久しく領下にうけて、この秋(とき)をむなしく逸人(イツジン)として草廬に閑(カン)を偸(ぬす)むを潔(いさぎよ)しとせず、同志張飛其他二百餘の有為の輩(ともがら)と団結して、劉玄徳を盟主と仰ぎ、太守の軍に入つて、いさゝか報国の義をさゝげんとする者でござる。太守寛大、よくわれ等(ら)の義心の兵を加へ給ふや否や」
 と、述べ、終りに、玄徳の手書を出して、一読を乞うた。
 劉焉は、聞くと、
「この秋(とき)にして、卿等赤心の豪傑等、劉焉の微力に援助せんとして訪ねらる、將(まさ)に、天祐の事ともいふべきである。何ぞ、拒むの理があらうか。城門の塵を掃き、客館に旗飾を施して、参会の日を待つであらう」
 と云つて、非常な歓びやうであつた。
「では、何月何日に、御城下まで、兵を率(ひき)ゐて参らん」
 と、約束して関羽は立帰つたのであるが、その折、はなしの序(ついで)に、義弟の張飛が、先頃、楼桑村の附近や市(いち)の関門などで、事の間違ひから、太守の部下たる捕吏や役人などを殺傷したが、どうか其罪は免(ゆる)されたいと、一口断(ことわ)つておいたのである。
 そのせゐか、あれつきり、市の関門からも、捕吏の人数はやつて来なかつた。いやそれのみか、豫(あらかじ)め、太守のはうから命令があつたとみえ、劉玄徳以下の三傑に、二百餘の郷兵が、突然、楼桑村から涿郡の府城へ向つて出発する際には、関門のうへに小旗を立て、守備兵や役人は整列して、その行を鄭重に見送つた。
 それと、眼をみはつたのは、玄徳や張飛の顔を見知つてゐる市の雑民たちで、
「やあ、先に行く大将は、蓆売(むしろうり)の劉さんぢやないか」
「その側(そば)に、馬に騎(の)つて威張つて行くのは、よく猪(ゐのこ)の肉を売りに出てゐた呑んだくれの浪人者だぞ」
「成程。張だ、張だ」
「あの肉売(にくうり)に、わしは酒代の貸(かし)があるんだが、弱つたなあ」
 などゝ群集のあひだから嘆声をもらして、見送つてゐる酒売(さかうり)もあつた。
 義軍はやがて、涿郡の府に到着した。道々、風を慕つて、日月の旗下に馳せ参じる者もあつたりして、府城の大市へ着いた時は、総勢五百を算(かぞ)へられた。
 太守は、直(たゞち)に、玄徳等(ら)の三将を迎へて、その夜は、居館で歓迎の宴を張つた。
[54]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月28日(土)付夕刊掲載

(二)

 大将玄徳に会つてみるとまだ年も廿歳台(はたちだい)の青年であるが、寡言沈厚のうちに、どこか大器の風さへ窺(うかゞ)へるので、太守劉焉は、大いに好遇に努めた。
 なお、素姓を問へば、漢室の宗親にして、中山靖王の裔孫との事に、
「さもあらん」
 と、劉焉はうなづく事頻(しき)りで猶更(なほさら)、親しみを改め、左右の関、張両将を併せて、心から敬ひもした。
 折ふし。
 青州大興山の附近一帯(山東省済南の東)に跳梁してゐる黄巾賊五万以上といはれる勢力に対して、太守劉焉は、家臣の校尉鄒靖(スウセイ)を将として、大軍を附与し、遽(にはか)に、それへ馳け向はせた。
 関羽と、張飛は、それを知るとすぐ、玄徳へ向つて、
「人の歓待は、冷めやすいもので御座る。歓宴長く停(とどま)るべからずです。手初めの出陣、進んで御加勢にお加はりなさい」
 と、すゝめた。
 玄徳は、
「自分もさう考へてゐた所だ。早速、太守へ進言しよう」
 と、劉焉に会つて、その旨を申し出ると劉焉も欣(よろこ)んで、校尉鄒靖の先陣に参加する事をゆるした。
 玄徳の軍五百餘騎は、初陣とあつて意気すでに天をのみ、日ならずして大興山の麓へ押しよせてみたところ、賊の五万は、嶮に拠つて、利戦を策し、山の襞や谷あひへ虱(しらみ)のごとく長期の陣を備へてゐた。
 時、この地方の雨期をすぎて、すでに初夏の緑草豊(ゆたか)であつた。
 合戦長きに亘(わた)らんか、賊は、地の利を得て、奇襲縦横にふるまひ、諸州の黄匪、連絡をとつて、一斉に後路を断ち、征途の味方は重囲のうちに殲滅の厄にあはんも測りがたい。
 玄徳は、さう考へたので、
「いかに張飛、関羽。太守劉焉をはじめ、校尉鄒靖も、われ等の手なみいかにと、その実力を見んとしてをるに違ひない。すでに、味方の先鋒たる以上、徒(いたづ)らに、対峙して、味方に長陣の不利を招くべからずである。挺身、賊の陣近く斬入つて、一気に戦ひを決せんと思ふがどうであらう」
 二人へ、計ると、
「それこそ、同意」
 と、すぐ五百餘騎を、鳥雲に備へ立て、山麓まぢかへ迫つてから遽(にはか)に鼓(こ)を鳴らし諸声(もろごゑ)あげて決戦を挑んだ。
 賊は、山の中腹から、鉄弓を射、弩(ド)をつるべ撃ちして、容易に動かなかつたが、
「寄手は、多寡のしれた小勢のうへに、国主の正規兵とはみえぬぞ、どこかそこらから狩集めて来た烏合の雑軍。みなごろしにしてしまへ」
 賊の副将鄧茂(トウモ)といふ者、かう号令を下すや否、柵(さく)を開いて、山上から逆落しに騎馬で馳け降りて来、
「やあやあ、稗糠(ひえかす)を舐めて生きるあはれな郷軍(ガウグン)の百姓兵ども。官軍の名にまどはされて死骸の堤を築きに来りしか。愚(おろか)なる権力の楯につかはるゝを止めよ。汝等(なんぢら)、槍をすて、馬を献じ、降を乞ふなれば、わが将、大方程遠志(テイヱンシ)どのに申しあげて、黄巾を賜はり、肉食させて、世を楽しみ、その痩骨(やせぼね)を肥えさすであらう。否といはゞ、即座に包囲殲滅せん。耳あらば聞け、口あらば答へよ。——如何(いか)に、如何に!」
 と、呼ばはつた。
 すると、寄手の陣頭より、おうと答へて、劉玄徳、左右に関羽、張飛をしたがへて、白馬を緑野の中央へすゝめて来た。
[55]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月29日(日)付夕刊掲載

(三)

「推参なり、野鼠の将」
 玄徳は、賊将程遠志の前に駒を止めて、彼のうしろに犇(ひし)めく黄巾賊の大軍へも、轟けとばかり言つた。
「天地ひらけて以来、まだ獣族の長く栄えたる例はなし。たとひ、一時は人政を紊(みだ)し、暴力をもつて権を奪ふも、末路は野鼠の白骨と変るなからん。——醒めよ、われは、日月の幡(はた)を高くかゝげ、暗黒の世に光明をもたらし、邪を退け、正を明らかにするの義軍、いたづらに立ち向つて、生命(いのち)をむだに落すな」
 聞くと、程遠志は声をあげて大笑し、
「白昼の大寝言、近ごろおもしろい。醒めよとは、うぬ等(ら)のこと。いで」
 と、重さ八十斤と称する青龍刀をひツさげ、駒首をどらせて、玄徳へかゝつて来た。
 玄徳は元より武力の猛将ではない。泥土を揚げて、蹄を後(うしろ)へ返す。その間へ、待ちかまへてゐた張飛が、
「この下郎つ」
 おめきながら割つて入り、先ごろ鍛(う)たせたばかりの丈餘の蛇矛(ジヤボウ)——牙形(きばがた)の大矛(おおぼこ)を先に付けた長柄を舞はして、賊将程遠志の盔(かぶと)の鉢金から馬の背骨に至るまで斬り下げた。
「やあ、おのれよくも」
 賊の副将鄧茂は、乱れ立つ兵を励ましながら、逃げる玄徳を目がけて追ひかけると、関羽が早くも騎馬をよせて、
「豎子(ジユシ)つ、何ぞ死を急ぐ」
 虚空に鳴る偃月刀の一揮(イツキ)、血けむり呼んで、人馬共に、関羽の葬るところとなつた。
 賊の二将が打たれたので、残餘の鼠兵(ソヘイ)は、あわて乱れて、山谷のうちへ逃げこんでゆく。それを、追つて打ち、包んでは殲滅して賊の首を挙げること一万餘。降人は容れて、部隊にゆるし、首級は村里の辻に梟(か)けならべて、
 ——天誅は斯(かく)の如し。
 と、武威を示した。
「幸先(さいさき)はいゝぞ」
 張飛は、関羽に云つた。
「なあ兄貴、この分なら、五十州や百州の賊軍ぐらゐは、半歳のまに片づいてしまふだらう。天下はまたゝく間に、俺たちの旗幟によつて、日月照々だ。安民楽土の世となるに極(きま)つてゐる。愉快だな。——然(しか)し、戦争がさう早く無くなるのが少しさびしいが」
「ばかをいへ」
 関羽は、首をふつた。
「世の中は、さう簡単でないよ。いつも戦はこんな調子だと思ふと、大まちがひだぞ」
 大興山を後にして、一同はやがて幽州へ凱旋の轡(くつわ)をならべた。
 太守劉焉は、五百人の楽人に勝利の譜を吹奏させ、城門に旗の列を植ゑて、自身、凱旋軍を出迎へた。
 ところへ。
 軍馬のやすむ遑(いとま)もなく、青州の城下(山東省済南の東・黄河口)から早馬が来て、
「大変です。すぐ援軍の御出馬を乞ふ」
 と、ある。
「何事か」
 と、劉焉が、使(つかひ)の齎(もたら)した牒文をひらいてみると、
  当地方ノ黄巾ノ賊徒等
  県郡ニ蜂起シテ雲集シ
  青州ノ城囲マレ終ンヌ
  落焼ノ運命已ニ急ナリ
  タダ友軍ノ来援ヲ待ツ
     青州太守龔景(ケウケイ)
 と、あつた。
 玄徳は、又進んで、
「願はくば行(ゆ)いて援(たす)けん」
 と申し出たので、太守劉焉はよろこんで、校尉鄒靖の五千餘騎に加へて、玄徳の義軍にその先鋒を依嘱した。
[56]【桃園の巻】昭和14年(1939)10月31日(火)付夕刊掲載

(四)

 時はすでに夏だつた。
 青州の野についてみると、賊数万の軍は、すべて黄の旗と、八卦の文を證(しるし)とした幡(ハン)をかざして、その勢、天日をも侮つてゐた。
「何ほどの事があらう」
 と、玄徳も、先頃の初陣で、難なく勝つた手ごゝろから、五百餘騎の先鋒で、当つてみたが、結果は大失敗だつた。
 一敗地にまみれて、あやふく全滅をまぬがれ、三十里も退いた。
「これはだいぶ強い」
 玄徳は、関羽へ計つた。
 関羽は
「寡を以(もつ)て、衆を破るには、兵法によるしかありません」
 と一策を献じた。
 玄徳は、よく人の言を用ひた。そこで、総大将の鄒靖の陣へ、使(つかひ)を立て、謀事(はかりごと)をしめしあはせて、戦(いくさ)を立て直した。
 まづ、総軍のうち、関羽は約千の兵をひつさげて、右翼となり、張飛も同数の兵力を持つて、丘の陰に潜んだ。
 本軍の鄒靖と玄徳とは、正面からすゝんで、敵の主勢力へ、総攻撃の態を示し、頃あひを計つて、わざと、潮のごとく逃げ乱れた。
「追へや」
「討てや」
 と、図にのつて、賊の大軍は、陣形もなく追撃して来た。
「よしつ」
 玄徳が、駒を返して、充分誘導して来た敵へ当り始めた時、丘陵の陰や、曠野の黍(きび)の中から、夕立雲のやうに湧いて出た関羽、張飛の両軍が、敵の主勢力を、完全にふくろづゝみにして、みなごろしにかゝつた。
 太陽は、血に煙つた。
 草も馬の尾も、血のかゝらない物はなかつた。
「それつ、今だ」
 逃げる賊軍を追つて、そのまゝ味方は青州の城下まで迫つた。
 青州の城兵は
 ——援軍来る!
 と知ると、城門をひらいて、討つて出た。なだれ打つて、逃げて来た賊軍は、城下に火を放ち、自分の放(つ)けた炎を墓場として、殆(ほとん)ど、自滅するかのやうな敗亡を遂げてしまつた。
 青州の太守龔景は
「もし、卿等の来援がなければ、この城は、すでに今日は賊徒の享楽の宴会場になつてゐたであらう」
 と、人々を重く賞して、三日三晩は、夜も日も、歓呼の楽器と万歳の声に盈(み)ちあふれてゐた。
 鄒靖は、軍を収めて
「もはや、お暇(いとま)せん」
 と、幽州へ引揚げて行つたが、その際、劉玄徳は、鄒靖に向つて
「ずつと以前——私の少年の頃ですが、郷里の楼桑村に来て、暫(しばら)くかくれてゐた盧植(ロシヨク)といふ人物がありました。私は、その盧植先生に就(つい)て、初めて文を学び、兵法を説き教へられたのです。その後先生はどうしたかと、時折、思ひ出すのでしたが、近頃うはさに聞けば、盧植先生は官に仕へて、中郎将に任ぜられ、今では勅令をうけて、遠く広宗(くわうそう)(山東省)の野に戦つてゐると聞きます。——しかもそこの賊徒は、黄匪の首領張角将軍直属の正規兵だといふことですから、さだめし御苦戦と察しられるので、これから行つて、師弟の旧恩、いさゝか御加勢してあげたいと思ふのです」
 と、心のうちを洩らした。
 そして、自分はこれから、広宗の征野へ、旧師の軍を援けに赴くから、幽州の城下へ帰つたら、どうか、その旨を、悪しからず太守へお伝へねがひたいと、伝言を頼んだ。
 元より義軍であるから、鄒靖も引止めはしない。
「然(しか)らば、貴下の手勢のみ率ゐて、兵糧その他の賄(まかなひ)、心のまゝにし給へ」
 と、武人らしく、あつさり云つて別れた。
[57]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月1日(水)付夕刊掲載

【前回迄の梗概】後漢の建寧元年のことである。涿県楼桑村の青年劉備は行商の帰途当時全国を席巻してゐた黄巾賊に襲はれたが、県城の士張飛に領主の姫不要と一緒に助け出される。貧しい中に留守を守つてゐた劉備の老母は劉家の祖先は漢の景帝の末である事を告げて家運復興を促す。
 さうした或日、劉備は図らずも張飛と再会、互に本心を打明ける。張飛の親友で寺子屋の先生をしてゐる雲長関羽も加つて、挙兵の盟を結ぶと共に、劉備を義兄として三人の義兄弟の約束をする。
 今や大丈夫の誓は成つた。次ぐは兵と軍資金。関羽の壮烈な檄文に忽ち集る数百の兵。軍資金と馬は運よくも通りかゝつた行商人張世平、蘇双から譲り受けた。
 兵糧成つた劉備の軍は先づ初陣に涿郡の太守劉焉を助けて青州大興山附近の城を敗り、続いて青州の太守の乞ひに応じてこれを救ひ三度転じて広宗の野に向つた。此処では劉備の少年時代の師盧植が黄匪の首領張角と苦戦中である。

(五)

 討匪将軍の印綬を帯びて、遠く洛陽の王府から、黄河口の広宗の野に下り、五万の官軍を率ゐて軍務に就(つい)てゐた中郎将盧植は
「なに。劉備玄徳といふ者がわしを訪ねて来たと? ……はてな、劉、玄徳、誰だらう」
 しきりに首をひねつてゐたが、まだ思ひ出せない容子だつた。
 戦地と云つても、さすが漢朝の征旗を奉じて来てゐる軍の本営だけに、将軍の室は、大きな寺院の中央を占め、境内から四門の外郭一帯にかけて、駐屯してゐる兵馬の勢威は物々しいものであつた。
「はつ。——確(たしか)に、劉備玄徳と仰(おつ)しやつて、将軍にお目にかゝりたいと申して来ました」
 外門から取次いできた一人の兵はさう云つて、盧将軍の前に、直立の姿勢を取つてゐた。
「一人か」
「いゝえ、五百人も連れてゞあります」
「五百人」
 啞然とした顔つきで
「ぢやあ、その玄徳とやらは、そんなにも自分の手勢を連れて来たのか」
「左様です。関羽、張飛、といふ二名の部将を従へて、お若いやうですが、立派な人物です」
「はてなあ?」
 猶更(なほさら)、思い当らない容子であつたが、取次の兵が、
「申し残しました。その仁は、涿県楼桑村の者で、将軍がそこに隠遁されてゐた時代に、読書(よみかき)のお教(をしへ)をうけた事があるとか云つてをりました」
「ああ!では蓆売(むしろうり)の劉少年かもしれない。いや、さう云へば、あれからもう十年以上も経つてをるから、よい若人になつてゐる年頃だらう」
 盧植は、遽(にはか)に、なつかしく思つたとみえ、すぐ通せと命令した。勿論、連れてゐる兵は外門に駐(と)め、二人の部将は、内部の廂(ひさし)まで入ることを許してゞある。
 やがて玄徳は通つた。
 盧植は、一目(ひとめ)見て、
「おゝ、やはりお前だつたか。変つたなう」
 と、驚いた目をした。
「先生にも、其後は、赫々と洛陽に御武名の聞え高く、蔭ながら欣(よろこ)んでをりました」
 玄徳は、さう云つて、盧植の沓(くつ)の前に退(さが)り、昔に変らぬ師礼を執つた。
 そして彼は、自分の素志を述べた上、願はくば、旧師の征軍に加はつて、朝旗の下に報国の働きを尽したいと云つた。
「よく来てくれた。少年時代の小さい師恩を思ひ出して、わざ/\援軍に来てくれたとは、近頃うれしい事だ。その心もちはすでに朝臣であり、国を愛する士の持つところのものだ。わが軍に参加して、大いに勲功をたてゝくれ」
 玄徳は、参戦をゆるされて、約二ケ月ほど、盧植の軍を援けてゐたが、実戦に当つてみると、賊のはうが、三倍も多い大軍を擁してゐるし、兵の強さも、比較にならないほど、賊のはうが優勢だつた。
 その為、官軍のはうが、かへつて守勢になり、徒(いたづら)に、滞陣の月日ばかり長びいてゐたのだつた。
「軍器は立派だし、服装も剣も華やかだが、洛陽の官兵は、どうも戦意がない。都に残してゐる女房子供の事だの、美味い酒だの、そんな事ばかり思ひ出してゐるらしい」
 張飛は、時々、そんな不平を鳴らして、
「長兄。こんな軍に交つてゐると、われ/\迄(まで)が、だらけてしまふ。去つて、他に大丈夫の戦ふ意義のある戦場を見つけませう」
 と、玄徳へ云つたが、玄徳は、師を歓ばせておきながら、師へ酬いる事もなく去る法はないと云つて、肯(き)かなかつた。
 そのうちに、盧植のはうから、折入つて、軍機に亘(わた)る一つの相談がもちかけられた。
[58]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月2日(木)付夕刊掲載

(六)

 盧植が云ふには。
 ——抑(そも/\)、この地方は、嶮岨が多くて、守る賊軍に利があり、一気に破らうとすれば、多大に味方を損じるので、心ならずも、かうして長期戦を張つて、長陣をしてゐる理(わけ)であるが、折入つて、貴下に頼みたいといふのは、賊の総大将張角の弟で張宝、張梁のふたりは目下、潁川(安徽省・開封の西南)のはうで暴威を振つている。
 その方面へは、やはり洛陽の朝命をうけて、皇甫嵩(クワウホスウ)、朱雋(シユシユン)の二将軍が、官軍を率ゐて討伐に向つている。
 こゝでも勝敗決せず、官軍は苦戦してゐるが、わが広宗の地よりも、戦ふに益が多い。ひとつ貴下の手勢をもつて、急に援軍に赴いてもらへまいか。
 賊の張梁、張宝の二軍が敗れたりと聞えれば、自然、広宗の賊軍も、戦意を喪失し、退路を断たれることを惧(おそ)れて、潰走し始める事と思ふ。
「玄徳殿。行つてもらへまいか」
 盧植の相談であつた。
「承知しました」
 玄徳は、元より義をもつて、旧師を援けに来たので、その旧師の頼みを、すげなく拒む気にはなれなかつた。
 即刻、軍旅の支度をした。
 手勢五百に、盧植からつけてくれた千餘の兵を加へ、総勢千五百ばかりで、潁川の地へ急いだ。
 陣地へ着くと、さつそく官軍の将、朱雋に会つて、盧植の牒文(テフブン)を示し
「お手伝ひに参つた」
 とあいさつすると、
「はゝあ。何処で雇はれた雑軍だな」
 と、朱雋は、至極冷淡な応対だつた。
 そして、玄徳へ、
「まあ、せいぜい働き給へ。軍功さへ立てれば、正規の官軍に編入されもするし、貴公等にも、戦後、何か地方の小吏ぐらゐな役目は仰せつかるから」
 などとも云つた。
 張飛は
「ばかにしてをる」
 と怒つたが、玄徳や関羽でなだめて、前線の陣地へ出た。
 食糧でも、軍務でも、又応待でも、冷遇はするが、与へられた戦場は、最も強力な敵の正面で、官軍の兵が、手をやいてゐるところだ。
 地勢を見るに、こゝは広宗地方とちがつて、いちめんの原野と湖沼だつた。
 敵は、折からの、背丈の高い夏草や野黍(のきび)のあひだに、虫のやうにかくれて、時々、猛烈な奇襲をして来た。
「さらば。一策がある」
 玄徳は、関羽と張飛に、自分の考へを告げてみた。
「名案です。長兄は、抑(そも/\)、いつのまにそんなに、孫呉の兵を会得してをられたんですか」
 と、二人とも感心した。
 その晩。二更の頃
 一部の兵力を、迂廻(ウクワイ)させて、敵のうしろに廻し、張飛、関羽等は、真つ暗な野を這つて、敵陣へ近づいた。
 そして、用意の物に、一斉に火を点じると
「わあつ」
 と、鬨(とき)の声をあげて、炎の波のやうに、攻めこんだ。
 かねて、兵一名に、十把づつの松明(たいまつ)を負はせ、それに火をつけて、雪崩(なだ)れこんだのである。
 寝ごみを衝かれ、不意を襲はれて、右往左往、あわて廻る敵陣の中へ、投げ松明の光りは、花火のやうに舞ひ飛んだ。
 草は燃え、兵舎は焼け、逃げくづれる賊兵の軍衣にも、火がついて居ないのはなかつた。
 すると彼方から、一彪(イツペウ)の軍馬が、燃えさかる草の火を蹴つて進んで来た。見れば、全軍みな紅(くれなゐ)の旗をさし、真つ先に立つた一名の英雄も、兜、鎧、剣装、馬鞍、総(すべ)て火よりも赤い姿をしてゐた。
[59]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月3日(金)付夕刊掲載

(七)

「やよ、それに来る豪傑。貴軍は抑(そも)、敵か味方か」
 玄徳のそばから大音で、関羽が彼方へ向つて云つた。
 先でも、玄徳たちを
「官軍か賊軍か?」 と疑つて居たやうに、ぴたと一軍の前進を停めて
「これは洛陽より南下した五千騎の官軍である。汝等(なんぢら)こそ、黄匪に非ずや」
 と、呶鳴り返して来た。
 聞くと玄徳は、左将軍関羽、右将軍張飛だけを両側に従へて、兵を後方に残したまゝ数百歩駒をすすめ
「戦場とて、失礼ないたした。それがしは涿県楼桑村の草莽より起つて、いさゝか奉公を志し、討賊の戦場に参加してをる義軍の将、劉備玄徳といふ者です。それにおいである豪傑は、そも何人(なんぴと)なりや。願はくば御尊名をうかゞひたい」
 云ふと、紅の旗、紅の鎧、紅の鞍に跨がつてゐる人物は、玄徳の会釈を、馬上でうけながら微笑をたゝへ
「御ていねいな挨拶。それへ参つて申さん」
 と、赤夜叉の如く、総(すべ)て赤く鎧つた旗本七騎につゝまれて、玄徳の間近まで馬をすゝめて来た。
 近々と、その人物を見れば。
 年はまだ若い。肉薄く色白く、細眼長髯(サイガンチヤウゼン)、胆量(タンリヤウ)人にこえ、その眸には、智謀測り知れないものが見える。
 声静(こゑしづか)に、名乗つて云ふ。
「われは沛国譙郡(江蘇省徐州の西南・沛県)の生れで、曹操(サウ/\)字は孟徳(マウトク)、小字(こあざな)は阿瞞(アマン)、また吉利(キツリ)ともいふ者です。すなわち漢の相国曹参(サウサン)より二十四代の後胤にして、大鴻臚曹崇(サウスウ)が三男たり。洛陽にあつては、官騎都尉(クワンキトイ)に封ぜられ、今、朝命によつて、五千餘騎にて馳せ来り、幸(さいはひ)にも、貴軍の火攻の計に乗じて、逃ぐる賊を討ち、賊徒の首を討つことその数を知らないほどです。——ひとつお互に両軍声をあはせて、天下の泰平を一日もはやく地上へ呼ぶため、凱歌をあげませう」
「結構です。では、曹操閣下が矛をあげて、両軍へ発声の指揮をしてください」
 玄徳が謙遜していふと、
「いやそれは違ふ。こよひの勝軍(かちいくさ)はひとへに貴軍の謀略と働きにあるのですから、玄徳殿が音頭をとるべきです」
 と、曹操も譲りあふ。
「では、一緒に、指揮の矛を揚げませう」
「成程。それならば」
 と、曹操も従つて、両将は両軍のあひだに轡(くつわ)をならべ、そして三度、鬨の声をあはせて野をゆるがした。
 野火は燃えひろがるばかりで賊徒の住む尺地も餘さなかつた。賊の大軍は、殆(ほとん)ど、秋風に舞ふ木の葉のやうに四散した。
「愉快ですな」
 曹操は、顧みて云つた。
 兵をまとめて、両軍引揚げの先頭に立ちながら、玄徳は、彼と駒を並べ、彼と親しく話すかなりな時間を得た。
 彼の最前の名乗りは、あながち鬼面(キメン)人を脅(おど)すものではなかつた。玄徳は正直に、彼の人物に尊敬を払つた。晋文匡扶(シンブンキャウフ)の才なきを笑ひ、趙高王莽(テウカウワウマウ)の計策(はかり)なきを嘲つて時々、自らの才を誇る風はあるが、兵法は呉子孫子をそらんじ、学識は孔孟の遠き弟子を以(もつ)て任じ、話せば話すほど、深みもあり広さもある人物と思はれた。
 それにひきかへて、本軍の総大将朱雋は、かへつて玄徳の武功をよろこばないのみか、玄徳が戻つてくると、すぐかう命令した。
「せつかく、潁川にまとまつてゐた賊軍を四散させてしまつたので、必ず彼らは、大興山の友軍や広宗の張角軍と合体して、盧植将軍のはうを、今度はうんと悩ますにちがひない。——貴公はすぐ広宗へ引つ返して、再び、盧植軍に加勢してやり給へ。今夜だけ、馬を休めたら、すぐ発足するがよからう」
[60]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月4日(土)付夕刊掲載

昭和14年(1939)11月5日(日)付の夕刊では、吉川英治「三国志」は休載でした。

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竹内真彦
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