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吉川英治『三国志』新聞連載版(13)十常侍

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(一)

「劉(リウ)氏(うじ)。もし、劉氏ではありませんか」
 誰か呼びかける人があつた。
 その日、劉玄徳は、朱雋の官邸を訪ねる事があつて、王城内の禁門の辺りを歩いてゐた。
 振向いてみると、それは郎中(ラウチウ)張均(チヤウキン)であつた。張均は今、参内する所らしく、従者に輿(こし)を舁(かつ)がせ、それに乗つてゐたが、玄徳の姿を見かけたので、
「沓(くつ)を」
 と従者に命じて、輿から身を降してゐた。
「おう、どなたかと思うたら、張均閣下でいらつしゃいました」
 玄徳は、敬礼をほどこした。
 此人(このひと)はかつて、盧植を陥れた黄門左豊などゝ共に、監軍の勅使として、征野へ巡察に来た事がある。その折、玄徳とも知つて、お互いに世事を談じ、抱懐を話し合つたりした事もある間なので、
「思ひがけない所でお目にかゝりましたな、御健勝のていで、何よりに存じます」
 と、久濶を叙べた。
 郎中張均は、さういふ玄徳の従者も連れてゐない、而(しか)も、曽(か)つて見た征衣のまゝ、この寒空を、孤影悄然と歩いてゐる様子を怪訝(いぶか)しげに打眺めて、
「貴公は今どこに何をして居られるのですか。少しお痩せになつてゐるやうにも見えるが」
 と、かへつて玄徳の境遇を反問した。
 玄徳は、有の儘(まゝ)に、何分にも自分には官職がないし、部下は私兵と見なされてゐるので、凱旋の後も、外城より入るを許されず、又、忠誠の兵たちにも、この冬に向つて、一枚の暖かい軍衣、一片の賞禄をも頒(わ)け与へることができないので、せめて外城の門衛に立つていても、霜をしのぐに足る暖衣と食糧とを恵まれんことを乞ふために、けふ朱雋将軍の官宅まで、願書を携へて出向いて来た所です、と話した。
「ほ……」
 張均は、驚いた顔して、
「では、足下はまだ、官職にも就(つ)かず、又、こんどの恩賞にもあづかつてゐないんですか」
 と、重ねて糺(ただ)した。
「はい、沙汰を待てとの事に、外城の門に屯(たむろ)してゐます。けれどもう冬は来るし、部下が不愍なので、お訴へに出て来たわけです」
「それは初めて知りました。皇甫嵩将軍は、功に依つて、益州の太守に封ぜられ、朱雋は都へ凱旋すると直(たゞち)に車騎将軍となり河南の尹(イン)に封ぜられてゐる。あの孫堅さへ内縁あつて、別部司馬に叙せられたほどだ。——いかに功が無いといつても、貴君の功は孫堅以下ではない。いや或る意味では、こんどの掃匪征賊の戦で、最も苦戦に当つて、忠誠をあらはした軍は、貴下の義軍であつたと云つてもよいのに」
「……」
 玄徳の面(おもて)にも、鬱々たるものがあつた。たゞ彼は、朝廷の命なるがまゝに、思ふまいとしてゐるふうだつた。そして部下の不愍を身の不遇以上にあはれと思ひしめて嚙んでいた唇の態であつた。
「いや、よろしい」
 やがて張均はつよく云つた。
「それもこれも、思ひ当ることがある。地方の騒賊を掃つても、社稷の鼠巣(ソサウ)を掃はなかつたら、四海の平安を長く保つことはできぬ。賞罰の区々不公平な点ばかりでなく、嘆くべきことが実に多い。——貴君の事については、特に帝へ奏聞しておかう。そのうちに明朗な恩浴を蒙(かうむ)る事もあらうから、まあ気を腐らせずに待つがよい」
 郎中張均は、さう慰めて、玄徳とわかれ、やがて参内して、帝に拝謁した。
[78]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月28日(火)付夕刊掲載

(二)

 めづらしく帝のお側には誰も居なかつた。
 帝は、玉座から云はれた。
「張郎中。けふは何か、朕に、折入つて懇願あるといふ事だから、近臣はみな遠ざけておいたぞ。気がねなく思ふ事を申すがよい」
 張均は、階下に拝跪して
「帝の御聡明を信じて、臣張均は今日こそ、敢て、お気に入らぬ事をも申しあげなければなりません。照々として、公明な御心をもて、暫時、お聴きくださいまし」
「なんぢや」
「ほかでもありませんが、君側の十常侍等の事に就(つい)てです」
 十常侍ときくと、帝のお眸(ひとみ)はすぐ横へ向いた。
 御気色がわるい——
 張均には分つていたが、こゝを冒(おか)して真実の言をすゝめるのが、忠臣の道だと信じた。
「臣が多くを申上げないでも御聡明な帝には、疾(と)くお気づきと存じますが、天下も今、漸(やうや)く平静に帰らうとして、地方の乱賊も終熄したところです。この際、どうか君側の奸を掃ひ、御粛正を上(かみ)よりも示して、人民たちに暗天の憂へなからしめ、業に安んじ、御徳政を謳歌するやうに、御賢慮仰ぎたくぞんじまする」
「張郎中。なんでけふに限つて、突然そんな事を云ひ出すのか」
「いや、十常侍らが政事を紊(みだ)して帝の御徳を晦(くら)うし奉つてゐる事はけふの事ではありません。私のみの憂ではありません。天下万民の怨(うらみ)とするところです」
「怨?」
「はい。たとへば、こんどの黄巾の乱でも、その賞罰には、十常侍等の私心が、いろ/\働いてゐると聞いています。賄賂をうけた者には、功なき者へも官禄を与へ、然(しか)らざる者は、罪なくても官を貶(おと)し、いやもう、ひどい沙汰です」
「……」
 帝の御気色は、いよ/\曇つて見えた。けれど、帝は何も云はれなかつた。
 十常侍といふのは、十人の内官の事だつた。民間の者は、彼等を宦官と称した。君側の権をにぎり後宮にも勢力があつた。
 議郎張譲(チヤウジヤウ)。議郎趙忠(チヤウチウ)。議郎段珪(ダンケイ)。議夏輝(カキ)——などといふ十名が中心となつて、枢密に結束を作つてゐた。議郎とは、参議といふ意味の役である。だからどんな枢密の政事にもあづかつた。帝はまだお若くをられるし、さういふ古池のぬしみたいな老獪と曲者(くせもの)がそろつてゐるので、彼等が遂行しようと思ふ事は、どんな悪政でもやつて通した。
 霊帝はまだ御若年なので、その悪弊に気づかれてゐても、如何(いかん)ともする術を御存じない。又、張均の苦諫に感動されても、何というお答(こたへ)も出なかつた。たゞ眼を宮中の苑(には)へ反(そ)らしてをられた。
「——遊ばしませ、御断行なさいませ。今がその時です。陛下、ひとへに、御賢慮をお決し下さいませ」
 張均は、口を酸(す)くし、われとわが忠誠の情熱に、眦(まなじり)に涙をたゝへて諫言した。
 遂には、玉座に迫つて、帝の御衣にすがつて、泣訴した。帝は、当惑さうに、
「では、張郎中、朕に、何(ど)うせいといふのか」
と、問はれた。
 こゝぞと、張均は
「十常侍らを獄に下して、その首を刎(は)ね、南郊に梟(か)けて、諸人に罪文と共に示し給はれば、人心自(おのづか)ら平安となつて、天下は」
 云ひかけた時である。
「だまれつ。——まづ汝の首より先に獄門に梟(か)けん」
 と、帳(とばり)の蔭から怒つた声がして、それと共に、十常侍十名の者が躍り出した。みな髪(ハツ)を逆立て、眦をあげながら、張均へ迫つた。
 張均は、あツと驚きの餘り昏倒してしまつた。
 手当されて、後に、典医から薬湯をもらつて飲んだが、それを飲むと眠つたまゝ死んでしまつた。
[79]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月29日(水)付夕刊掲載

(三)

 張均は、その時、そんな死に方をしなくても、帝へ忠諫したことを十常侍に聴かれてゐたから、必ずや、後に命を完(まつた)うする事はできなかつたらう。
 十常侍も、以来
「油断してをると、とんでもない忠義ぶつた奴が現れるぞ」
 と気がついたか、誡(いまし)め合つて、帝の周囲は元より、内外の政に亘(わた)つて、大いに警戒してゐるふうであつた。
 それもあるし、帝御自身も、功ある者のうちに、恩賞にも洩れて不遇を喞(かこ)ち、不平を抑へてゐる者が尠(すくな)くないのに気がつかれたか、特に、勲功の再調査と、第二期の恩賞の実施とを沙汰された。
 張均の事があつたので、十常侍も反対せず、むしろ自分等の善政ぶりを示すやうに、ほんの形ばかりな辞令を交付した。
 その中に、劉備玄徳の名もあつた。
 それによつて、玄徳は、中山府(チウザンフ)(河北省、定州)の安喜県(アンキケン)の尉(ヰ)といふ官職についた。
 県尉といえば、片田舎の一警察署長といつたやうな官職にすぎなかつたが、帝命を以て叙せられた事であるから、それでも玄徳は、ふかく恩を謝して、関羽張飛を従へて、即座に、任地へ出発した。
 勿論、一官吏となつたのであるから、多くの手兵をつれてゆく事は許されないし、必要もないので五百餘の手兵は、これを王城の軍府に託して、編入してもらひ、ほんの二十人ばかりの者を、従者として連れて行つたに過ぎなかつた。
 その冬は、任地でこえた。
 わづか四月ばかりしか経たないうちに、彼が、役についてから、県中の政治は大いに革(あらた)まつた。
 強盗悪逆の徒は、影をひそめ、良民は徳政に服して、平和な毎日を楽しんだ。
「張飛も関羽も、自己の器量に比べては、今の小吏のするやうな仕事は不服だらうが、暫(しばら)くは、現在に忠実であつて貰ひたい。時節は焦心(あせ)つても求め難い」
 玄徳は、時折二人をさう云つて慰めた。それは彼自身を慰める言葉でもあつた。
 その代り、県尉の任についてからも、玄徳は、彼等を下役のやうには使はなかつた。共に貧しきに居り、夜も床を同じうして寝た。
 するとやがて、河北の野に芽ぐみ出した春と共に
「天子の使(つかひ)この地に来る」
 と、伝へられた。
 勅使の使命は
「この度、黄巾の賊を平定したるに、軍功ありと詐(いつは)りて、政廟の内縁などたのみ、猥(みだ)りに官爵をうけ或(あるい)は、功ありと自称して、州都に私威を振舞ふ者多く聞え、能々(よくよく)、正邪を糺(ただ)さるべし」
 といふ詔(みことのり)を奉じて下向(ゲカウ)して来た者であつた。
 さういふ沙汰が、役所へ達しられてから間もなく、この安喜県へも、督郵といふ者が下つて来た。
 玄徳等は、さつそく関羽張飛などを従へて、督郵の行列を、道に出迎へた。
 何しろ、使は、地方巡察の勅を奉じて来た大官であるから、玄徳たちは、地に座して、最高の礼を執(と)つた。
 すると、馬上の督郵は
「こゝか安喜県とは。ひどい田舎だな。何、県城はないのか。役所はどこだ。県尉を呼べ。今夜の旅館はどこか、案内させて、ひとまづそこで休息しよう」
 と、云ひながら、傲然と、そこらを見廻した。
[80]【桃園の巻】昭和14年(1939)11月30日(木)付夕刊掲載

昭和14年(1939)12月1日(金)付の夕刊では、吉川英治「三国志」は休載でした。

【前回までの梗概】
 ◇…後漢の建寧元年のことである。涿県楼桑村の青年劉備玄德は折柄(をりから)各地に蜂起した黄巾賊を平げ漢の景帝の末である自家を再興しようと張飛、関羽の二盟友を得て義兵を挙げた。
 ◇…初陣以来幾転戦、到る処で賊軍を破り大功をたてたが私兵の悲しさに勲功は一向に認められず天下が平定し従軍の諸士が夫々(それぞれ)恩賞に与(あづか)る中にあつて、彼のみは外城の門衛に甘じなければならなかつた。
 ◇…或る日、劉備に声をかけたのは知友の郎中張均であつた。劉備から話を聞いた張均は豫(かね)て論功行賞の不公平を歎いてゐたので直ちに霊帝に、側近にある十常侍を退けんことを奏したが却(かへ)つて彼等の知るところとなり毒殺されて了(しま)つた。然(しか)し張均の死によつて劉備は安喜県の尉に任ぜられた。僅か数ヶ月にして大いに治績を挙げた劉備の許に突然督郵が地方巡察に来た。

(四)

 勅使督郵の人もなげな傲慢さを眺めて
「いやに役目を鼻にかけるやつだ」
 と、関羽、張飛は、かたはらいたく思つたが、虫を抑へて、一行の車騎に従ひ、県の役館へはいつた。
 やがて、玄徳は、衣服を正して、彼の前に、挨拶に出た。
 督郵は、左右に、随員の吏を侍立させ、さながら自身が帝王のやうな顔して、高座に構へこんでゐた。
「おまへは何だ」
 知れきつてゐるくせに、督郵は上から玄徳等を見下ろした。
「県尉玄徳です。はるばるの御下向、ご苦労にございました」
 拝(はい)を施すと
「あゝおまへが当地の県の尉か。途々(みち/\)、われわれ勅使の一行が参ると、うすぎたない住民共が、車騎に近づいたり、指さしたりなど、甚(はなは)だ猥雑な態(テイ)で見物してをつたが、かりそめにも、勅使を迎へるに、何といふ事だ。思ふに平常の取締りも手ぬるいとみえる。もちつと王威を知らしめなければいかんよ」
「はい」
「旅館のはうの準備は整うてをるかな」
「地方の事とて、諸事おもてなしは出来ませんが」
「われわれは、きれい好きで、飲食は贅沢である。田舎のことだから仕方がないが卿等(ケイら)が、勅使を遇するに、どういふ心をもつて歓待するか、その心もちを見ようと思ふ」
 意味ありげなことを云つたが、玄徳には、よく解し得なかつた。けれど、帝王の命をもつて下つて来た勅使であるから、真心をもつて、応接した。
 そして、一(ひと)先(ま)づ退(さが)らうとすると、督郵は又訊いた。
「尉玄徳。いつたい卿は、当所の出身の者か、他県から赴任して来たのか」
「されば、自分の郷家は涿県で、家系は、中山靖王の後胤であります。久しく土民の中にひそんでゐましたが、この度漸(やうや)く、黄巾の乱に小功あつて、当県の尉に叙せられた者であります」
 と、云ふと
「こらつ、黙れ」
 督郵は、突然、高座から叱るやうに呶(ど)鳴(な)つた。
「中山靖王の後胤であるとか云つたな。怪(け)しからん事である。抑々(そも/\)、この度、帝がわれ/\臣下に命じて、各地を巡察せしめられたのは、さういふ大法螺をふいたり、軍功のある者だなどゝ詐(いつは)つて、自称豪傑や、自任官職の輩(やから)が横行する由を、お聞きになられたからである。汝の如き賤しき者が、天子の宗族などゝ詐欺つて、愚民に臨んでをるのは、怪しからぬ不敬である。——直(たゞち)に帝へ奏聞し奉つて、追つての沙汰をいたすであらうぞ。退(さが)れつ」
「………はつ」
「退れ」
「………」
 玄徳は、唇をうごかしかけて、何か云はんとするふうだつたが、益なしと考へたか、黙然(モクネン)と礼をして去つた。
「いぶかしい人だ」
 彼は、督郵の随員に、そつと一室で面会を求めた。
 そして、何で勅使が、御不興なのであらうかと、原因をきいてみた。
 随員の下吏(したやく)は、
「それや、あんた知れきつているぢやありませんか、なぜ今日、督郵閣下の前に出る時、賄賂の金帛を、自分の姿ほども積んでお見せしなかつたんです。そしてわれわれ随員にも、それ相当の事を、逸(いち)はやく袖の下からする事が肝腎ですよ。何よりの歓迎というもんですな。ですから云つたでせう督郵様も、いかに遇するか心を見てをるぞよつてね」
 玄徳は、啞然として、私館へ帰つて行つた。
[81]【桃園の巻】昭和14年(1939)12月2日(土)付夕刊掲載

(五)

 私館へ帰つても、彼は、怏々(アウ/\)と楽しまぬ顔いろであつた。
「県の土民は、みな貧しい者ばかりだ。しかも一定の税は徴収して、中央へ送らなければならぬ。その上、何で巡察の勅使や、大勢の随員に、彼等の満足するやうな賄賂を贈る餘裕があらう。賄賂も土民の汗あぶらから出さねばならぬに、よく他の県吏には、そんな事ができるものだ」
 玄徳は、嘆息した。
 次の日になつても、玄徳のはうから何の贈り物もこないので、督郵は
「県吏をよべ」
 と、他の吏人(やくにん)を呼びつけ
「尉玄徳は、不埒な漢(をとこ)である。天子の宗族などと僭称してをるのみか、こゝの百姓共から、いろいろと怨嗟の声を耳にする。すぐ帝へ奏聞して、御処罰を仰ぐから、汝は、県吏を代表して、訴状を認(したゝ)めろ」
 と、云つた。
 玄徳の徳に服してこそはゐるが、玄徳に何の落度も考へられない県の吏は、恐れわなゝくのみで、答へも知らなかつた。
 すると、督郵も重ねて、
「訴状を書かんか、書かねば汝も同罪と見なすぞ」
 と、脅した。
 やむなく、県の吏は、有りもしない罪状を、督郵のいふ儘(まゝ)に並べて、訴状に書いた。督郵は、それを都へ急送し、帝の沙汰を待つて、玄徳を厳罰に処せんと称した。
 この四、五日。
「どうも面白くねえ」
 張飛は、酒ばかりのんでゐた。
 さう飲んでばかりゐるのを、玄徳や関羽に知れると、意見されるし、又、この数日、玄徳の顔いろも、関羽の顔いろも、甚(はなは)だ憂鬱なので、彼はひとり
「……どうも面白くねえ」
 を繰返して、何処(どこ)で飲むのか、姿を見せず飲んでゐた。
 その張飛が、熟柿(ジユクシ)のやうな顔をして、驢に乗つて歩いてゐた。町中の者は、県の吏人(やくにん)なので、驢と行きちがふと、丁寧に礼をしたが、張飛は、驢の上から落ちさうな恰好して、居眠つてゐた。
「やい。どこまで行く気だ」
 眼をさますと、張飛は、乗つてゐる驢にたづねた。驢は、てこてこと、軽い蹄(ひづめ)をたゞ運んでゐた。
「おや、何だ?」
 役所の門前をながめると、七、八十名の百姓や町の者が、土下座して、何か喚(わめ)いたり、頭を地へすりつけたりしてゐた。
 張飛は、驢を降りて
「みんな、何(ど)うしたんだ。おまへ等、何を役所へ泣訴してをるんだ」
 と、どなつた。
 張飛のすがたを見ると、百姓たちは、声をそろへて云つた。
「旦那はまだ何も御存じないんですか。勅使さまは、県の吏人に、訴状を書かせて、都へさし送つたと申しますに」
「何の訴状をだ」
「日頃、わし等が、お慕ひ申している、尉の玄徳さまが、百姓虐(いぢ)めなさるとか、苛税をしぼり取つて、私腹を肥(こや)しなすつてゐるとか、何でも、二十ヶ条も罪をかき並べて、都へその訴状が差送(サソウ)され、お沙汰が来次第に、罰せられるとうはさに聞きましたで……。わし等、百姓共は、玄徳さまを、親のやうに思つてゐるので、皆の衆と打揃うて、勅使さまへおすがりに来たところ、下吏(したやく)たちに叩き出され、この通り、役所の門まで閉められてしまうたので、ぜひなくかうして居るとこで御座りまする」
 聞くと、張飛は、毛虫のやうな眉をあげて、閉めきつてある役館の門をはつたと睨みつけた。
[82]【桃園の巻】昭和14年(1939)12月3日(日)付夕刊掲載

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竹内真彦
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