「赤兎」について
もりすずなさんの上記のツイートに触発されて、少しメモ。
もりさんの引用される「伯楽相馬経」は、その名の通り、「伯楽」の著ということになっています。相馬の達人としての伯楽の名は、『荀子』『荘子』『列子』などの先秦諸子に見え、『列子』は秦穆公(在位前659-前621)に仕えた、としています。これをそのまま信じるのであれば、紀元前7世紀に生きていたことになります。
その伯楽の著とされる、「伯楽相馬経」に「赤兎」を名馬と示唆する記述があるわけですから、これは『三国志』呂布伝の赤兎と結びつけたい。
ただし、この「伯楽相馬経」、やや出自が怪しい。
紀元前7世紀に生きた伯楽の著作がきちんと伝承されて来たのであれば、後漢代に成立した『漢書』藝文志(1世紀末頃成書? 現存する中国最古の図書目録)に収録されていてしかるべき。しかし、残念ながら『漢書』藝文志には『相馬経』の名は見えません。
時代が下り、初唐に成書した『隋書』経籍志(656年完成)の子部・五行には「相馬経」が収録されています。その註記には「梁に伯楽相馬経有り」と見えるので、梁代(502〜557)には存在が確認されていたことになります。逆に言えば、それ以前に成書していたかは確証がない。となると、『三国志』呂布伝や『後漢書』呂布伝の記述の方が古いことになるので、これらを踏まえた上で『相馬経』の記述ができあがっている可能性を否定できないわけです。
呂布の「赤兎」については、柿沼陽一氏の『劉備と諸葛亮:カネ勘定の「三国志」』(文春新書、2018)p.86に以下のような指摘があります。
また彼の馬にかんしては「呂布はつねに名馬に乗り、赤兎とよばれた。城の塹壕も飛び越えるほどの名馬だった」との史料があり、ここから名馬赤兎馬伝説が生まれた。ただし、漢代の簡牘史料をふまえた研究によると、①体高一四〇㌢前後の複数の馬を「赤兎」とよぶ例があること、②当時の人がウサギの頭のかたちをした馬を名馬とみなしていた例があることから、「赤兎馬」自体は固有名詞でなく、ウサギ頭の赤毛馬をさす一般名詞であったと考えられる(韓二〇一二)。馬の体高は頸のつけね・肩の上(鬐甲)までの高さで、漢代もその計測方法による。漢代に登場する馬はプルジェヴァルスキーウマの系統で、現代のいわゆるサラブレッド(体高約一六〇㌢〜一七〇㌢)とくらべてかなり小さく、いわゆるポニー(体高一四四㌢以下の小型ウマ)に近い。呂布の赤兎馬はそのなかでも名馬であったというにすぎない。
ここで参考とされる「韓二〇一二」とは、同書巻末の「主要参考文献」に拠れば、韓華「懸泉漢簡中的“赤兎馬”探微」(『居延敦煌漢簡出土遺址実地考察論文集』上海古籍出版社、2012)であるとの由(竹内未見)。
(いわずもがなのこと:柿沼氏の記述は少し雑です。「呂布はつねに名馬に乗り、赤兎とよばれた。城の塹壕も飛び越えるほどの名馬だった」という史料の出典は明示されていませんが、記述から推して『後漢書』呂布伝のはず。『三国志』呂布伝には「城の塹壕」云々という記述はありません。しかし、『後漢書』呂布伝であれば「赤菟」に作るのが一般的であり、「赤兎」ではありません。「兎」と「菟」は単なる異体字もしくは音通である可能性は高いですが、『後漢書』の引用であるならば「赤菟」に作るべきでしょう。それと、現代のサラブレッドなどから推す限り、「赤毛馬」が具体的にどのような体色を指すのかも不明)
呂布の「赤兎」が、この漢簡に見える「赤兎」である可能性は高いです。我々がイメージするよりも小型の馬であったことも異論がありませんが、原拠となった論文を確認できていないので、漢簡におけるどのような記載が「体高一四〇㌢前後」と「翻訳」されているかは要確認事項です。
ちなみに『三国志平話』巻上では、実は「赤」兎馬ではなく、「射」兎馬、すなわち兎を仕留める馬なのだ、という記述が出てきます。デタラメだとは思うのですが、何故、こんな記述ができたのかは興味のあるところです。(了)