【10年目の3.11】

またこの日を迎えた。
あの時、私は東京に居た。
感じたことのない激しい揺れに気が遠くなりそうになり、
「ただごとではない」と直感した。
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そのとき、厚労省の医政局総務課にいた。被災地への医療提供体制の整備、医薬品の供給、人材の派遣など、寝食を忘れて、対応した。
「シン・ゴジラ」で克明に描かれた国家中枢の混乱も目の当たりにした。
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なかでも、東電の行った計画停電の対応は、私の職業経験でも強く印象に残る経験だった。
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3月14日の9時半ごろ、私のもとに届けられた1枚のファクス用紙には、東京電力が被災地の一部で計画停電を開始すると書いてあった。「ちょっと待て。そんなこと聞いてないよ」と慌てて対応について部下たちと話していると、官房長官の秘書官から電話がかかってきた。
「武内くん、FAXは見たか。停電で人命が損なわれたら大変なことになる。それは人災になる。絶対に一人の死者も出すな!」
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その言葉だけを残して、電話はブツリと切られた。「そんなこと言われたって……」と硬直していたら、すぐさま大臣室に呼び出された。そこには大臣と副大臣の政務官が並んでいて、「最悪の場合は何が起きますか」と尋ねられた。同席していた局長が「最悪の場合、死者が発生する可能性があります」と言うと、大臣は「ドンッ!」と机を叩いて「それは絶対許さん」と声を荒らげた。
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なんとかしなくてはいけない。局長からは「武内くん、対処してくれ。」と私に指示を出した。
もしも予定通り、朝6時半に計画停電となれば何が起きる? 在宅の人工呼吸器を利用している人が命を落とすリスクがある。ただ、対象となる人の住所や電話番号はわからないし、被災している状況で、さらに把握は困難。
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それでも動くしかない。まずは全ての訪問看護ステーションに連絡を取ろうと、連絡先240カ所をリスト化した。その作業が終わったのが午前2時。残り4時間半で何ができるか。対象者の家族に連絡して、蓄電池のある病院に全員を搬送する必要があった。
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当時は震災対応中の深夜だったが、まだ30人くらいの職員が残って仕事をしていた。しかし、これでは全く手が足らない。局内の約300人に全員に電話したところ、つながった150人ほどが集まってくれた。誰一人文句を言わずに、深夜出勤してくれて、ジャージやスエットの姿で自分の席についてくれた時には、感動して涙が出そうだった。私は全員に感謝の気持ちとミッションを伝えて、電話連絡を指示した。台詞と想定問答を準備して、「この通りに同じ説明、同じ答えをしてください」と伝えた。
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 時計の針が午前3時を回る頃、スタッフを見渡すと、みんながコメツキバッタのように頭を下げていた。電話口で怒鳴られていたのだ。「何時だと思っているんだ!」「これから運べるわけがないだろう!」「無理を言うな!」……真夜中に難しい要求をしているのだから、こうした反応は当然と言えば当然。
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それでも、譲るわけにはいかない。「お気持ちはよくわかります。お怒りの内容については、いずれしっかりとうかがいますので、どうか今は搬送をお願いいたします」。全員が必死の懇願を続ける中、少しずつ現地で搬送が始った。フロアはまるでコールセンターのようで、全員が必死に電話をかけている。その姿が神々しくて涙がこみ上げてきた。
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 彼らの奮闘で、9割以上の訪問看護ステーションと連絡を取ることができた。しかし、このミッションは一人でも死者が出たら失敗である。私は官房長官室に電話をかけ、「東京電力の社長を呼んで、計画停電の指示を1分でも遅らせてください」と伝えた。
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私たちのミッションがコンプリートするのが先か、計画停電が先か、のせめぎ合い。結果的には計画停電のスタートは先延ばしされた。一方、午前8時を過ぎる頃から、未接触の訪問看護ステーションとも連絡がとれるようになり、午前10時過ぎに「最後の一人の搬送が終わりました」と報告を受け、私はどっと肩の力が抜けた。局内みんなの必死の努力で、なんとかやり遂げた。
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 最終的には計画停電は16時からとなり、誰一人として命を落とすことなく、ミッションをクリアすることができた。
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仲間たちのプライド、責任感、命がけの姿に感動しました。とかく官僚は批判されがちだが、こうして誰かのために必死に働いている人がほとんどである。その点は、もっと多くの人に知って欲しいとも思う。
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被災された方に比べれば、大した苦労でもないし、格闘でもない。
でも、仲間と必死に闘ったこの夜のことは一生忘れないと思う。

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