チャットAIに幸福の本質を問うてみる。
日本という国には、季節が四つある。鼻水・梅雨・猛暑・こたつだ。今はちょうど鼻水深まれりといったところで、唯一気温を気にせず出られるはずのこの季節を、またベッドに押し戻してきている。
しかしまあ、雨の日に狩りができないことから副交感神経が働いて、本能的にやる気が起きないように、これだけ陽気な天をしているとちょっとはお散歩に出ちゃおうかなとか思うものである。そんなこんなでスタバのテラス席で積読してあった小説を読み耽りながら、トールサイズのスターバックスラテをだらだらと飲んでいたら、現在ある、鼻水以外の季節もなんだか感じ取れそうだったのでnoteを書けるなと。前置きキモすぎ
今話題の、chat GPTとやらに、幸せの本質とはなんたるのかを質問してみた。人工知能だから、こちらのことを全く慮らずに、忌憚のない意見を出してくれるのだろうか。機械的に判断された幸福とは何なのか、大変気になるところではあった。以下の回答を得られた。(原文ママ)
まあ、最もらしい模範回答というか、感嘆するようなものではなかったが、4の時間軸で判断する幸福感というのは、今まで主張する人をあまり見たことがなかったので、確かにそれはそうかもしれないと思ったのだった。それを踏まえて、では自身が幸福かどうかということについて考えた時、おれはもしかしたら幸福な時期に幸福を認識していないのではないか。もっと言えば、幸せだと本気で感じたことが一度もないのではないかというかなり絶望的なことに気が付いた。一つ言えるのは、少なくとも人類の叡智が導き出した上記の幸福は、どれも経験したことがあるし、不幸自慢をするつもりは全くをもってない。そうではなくおれが言いたいのは、「現状の幸福を自身で認知できない点」にある。
逆に不幸というのは非常にわかりやすいもので、不幸は「存在」しているのである。家庭環境、容姿、仕事、恋愛、何かが自身の理想とは乖離している状態が違和感として心に訴えかけている。これはよく考えれば当たり前なことで、人は基本的に、無い物には気付く事ができない。自分の部屋を掃除したばかりなのに、口うるさい母にこれが散らばっているじゃないと言われる。母からしたら、私のした掃除の成果を認識することはできない。なぜなら、掃除されたところは違和感が消えるからだ。掃除が行き届かなかったところしか目立たない為、あんたまた掃除してないじゃないという風になる。口内炎ができてとんでもなく痛い時、大好きな辛ラーメンを思うように食べられない。それが無くなることを切に願っているのに、無くなった途端にケロッと忘れてしまう。口内炎が無い状態がいかに幸せであるかを。
これらはまあきっと認知バイアスのような話で、いかに総体として捉えることが難しいかを感じざるを得ない。これは例に漏れずおれも同じで、「今のおれめちゃ幸せだ!」となったことは、多分無い。「思い返せば、あの時は今と比べて楽しかったな」という現在との比較軸でしか、過去の幸福を確かめることができない。そう、幸福感というものは実態がないだけでなく、相対的なものなのである。まあそもそも絶対なんて絶対無いという以外に絶対的なものを探す方が難しいが(RADWIMPS『37458』より)、その中でも特に幸福というやつは、特に感じ取ることが難しい部類のようだ。ポケモンRSのヒンバス釣りくらい探すのが難しい。誰に伝わるねんこの例え。
今回の話には、オチがつけられない。なぜなら、幸福が何たるかをおれが説明できないし、おれ自身の個別的幸福すらわからないからだ。こうやって己の思考能力の欠如をそれっぽくいうことでしか文を締められないのは大変ダサいのであるが、こんなぽかぽかした春の日には、たまには重い腰を上げて、携帯もほっぽってぼーっとお散歩しながら、「無い物」に目を向けてみるのもいいのかもしれない、なんて、きっと人工知能は教えてくれないのだ。
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