『大事なものが後ろから遅れてくることもあるのよ 愛情だって生活だって』#SPAM文学

 紗希が同棲を解消しようと思ったのは、健太郎とのどうしようもない程のテンポのズレだった。

 朝はなかなか起きてこない。
 今日行くレストランの行き方も直前まで調べない。
 先の予定もあまり決めない。そして、いつもタイミングを逃す。コンサートのチケットは売り切れ、ホテル代金と上がってしまう。

 その差は、日々の生活だけに留まらなかった。
 若いうちに一定のキャリアを望む紗希に、「そんなに無理をしなくても」と健太郎はいつも言った。
 結婚についてもそうだ。周りの結婚や出産の話をすると、少し気まずそうにして、違う話にしてしまう。

 一つ一つは、ほんの些細なことだ。だが、その塵も積み重なると、大きな暗いシミに変わる。
 健太郎と居ると、紗希は自分がいつも怒っている人間であるように感じられた。紗季が一言いう度、彼がいつも少し落ち込んだ顔をして、「ごめんね」と謝る。それが、また紗希自身がまるで怒りを振り撒いたように感じさせて、勘に触った。

 もしも彼と結婚をしたら、どうなるか。
 小さなことで怒り、大きな問題で意見が合わない。そこで強い言葉を使い、自己嫌悪に陥る。そんな自分の姿しか想像できなかった。
 最近増えてきた友人の結婚式に参加したり、友達からLineで送られてくる生まれてきた赤ちゃんの写真を見る度に考え、決心した。

 健太郎とは3度話し合った。1度目は強く反発した。2度目はお互いに涙を流した。3度目は淡々と具体的なことを話し合った。そうして、引越業者への申込までの作業を、出来るだけ事務的に済ませた。


 荷造りは大変だったが、引越業者がやってきてからは早かった。あっという間に一緒に生活していた空間は、マンション見学されるような空き部屋に変わった。引越の作業を終えた男たちが少し汗を光らせながら、頭を下げて去っていく。
 すっかり物がなくなった部屋を、紗季と健太郎は並んで眺めた。3年間暮らした生活の断片は、どこにも見当たらなかった。家具の下に隠された埃だけが、窓から差し込む光を浴びてふわりと浮かび上がっていた。
 「空っぽだね」と健太郎が言った。

 ピンポン。玄関のチャイムの音が鳴る。紗季は驚きで体を固くした。
 何か引越屋さんが忘れものでもしたか、とモニターを見ると、見慣れたクロネコヤマトの配達員が「お届け物です!」と元気な声で言った。
 印鑑がないので、健太郎がサインで荷物を受け取り、段ボールを開く。中には、丸々と大きく実った白桃が6つ並んでいた。健太郎は、呆然とそれを眺めてから、小さくつぶやいた。
「ふるさと納税で頼んだんだった。3か月かかるって書いてあった」
 「どうするの、これ。包丁もお皿も、さっき送っちゃったよ」
「それぞれ持っていこうか、3つづつ。今コンビニでビニール袋を貰ってくるね」
 相変わらずマイペースな健太郎にため息をついた。
 なんだか、桃に調子を狂わされて、別れのことばもうまく出てこなかった。

 身の回りの物を入れたスーツケースを実家の自分の部屋に広げ終えると、桃のことを思い出した。
 久々に実家の台所に立ち、包丁で皮を丁寧に剥き、8つに切り分ける。一つを口に運ぶと、熟した甘さが引っ越しで疲れた体全体に広がっていくような気さえする。
 突然、思い出した。
 ああ、そうだった。桃、私が食べたいって言ったんだった、この桃。仕事で上司につまらないことで怒られ、帰り道に強い雨にまで降られて。落ち込んでいた時に健太郎が注文してくれたんだった。「届くの3か月先じゃ意味ないじゃん」って言ったら、「そうだね」って彼は目を細めて笑ってた。そして、別の桃を、紗季の好物を、近くのスーパーで買ってきてくれた。

 色々なことがゆっくりだった。
 でも、それは大らかさや、優しさでもあった。
 そこが、好きになったきっかけだった。

 さらに一切れ、桃を口に運ぶ。変わらずに甘い。あの雨の日に彼が切り分けてくれた桃のように。
 携帯を取り出す。
 健太郎に電話をすることも出来る。
 紗季は、じっと携帯を眺めて、力を抜いた。そして、写真を取り出した。最後に撮った、荷物が全て運び出されて空っぽになった部屋の写真。
 
 大事なものが後ろから遅れてくることもあるのよ
 愛情だって生活だって。
 そして、過ぎ去るまで、大事だと分からないんだよ。
 
 暗くなり始めた部屋の中で、紗季はまだ写真を眺め続けている。
 その横で、6切れの桃は、そのまままな板の上に横たわっている。


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 バトンズの学校同期であるれおにーさんとの下記やりとりから生まれた#SPAM文学、企画でした。

 SPAMの文章は、れおにーさんのnoteから頂いています。

#SPAM文学

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