貯金を減らして得たもの #かくつなぐめぐる
「書くこと」を通じて出会った仲間たちがエッセイでバトンをつなぐマガジン『かく、つなぐ、めぐる。』。10月のキーワードは「宇宙人」と「憂鬱」です。最初と最後の段落にそれぞれの言葉を入れ、11人の"走者"たちが順次記事を公開します。
「貯金を減らしてでも、得て良かった経験は?」
そんな質問を最近受けて思い出したのは、米国で訪問した様々な都市だった。
シカゴの摩天楼。ダラスのケネディ暗殺現場。カリフォルニアでのワイナリー巡りとバスで往復10時間ぐらいかかったヨセミテ訪問。フロリダのディズニーランドの城越しに見える花火と、宇宙人とも戦えそうなNASAの基地。
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「研修を兼ねて、15か月間米国のニューヨーク州に赴任する」上司から突然そんなことを言われたのは、もう5年ほど前のことだった。
しかも、当時の自分は付き合っていた彼女との結婚を予定していた。人生初の海外赴任と同時に、人生はじめての同居を始めることになった。
さて、ではこの15か月間をどのように過ごすか?
その大きな指針となったのは、先輩からのアドバイスだった。
「15ヶ月しか滞在しない、かつ、役職もつかない人間にそこまでの仕事のパフォーマンスを期待していない」
「それよりも、どれだけ遊び、語れるだけの何かをしたかの方が大事」
「だから、働くより、どう遊ぶかに全力になった方が良い」
納得感のあるアドバイスだった。
15ヶ月は、仕事としては短い。出せる成果が限定的なのも感覚として理解できる。そして、アメリカに住む機会なんてここから先の人生で来るとは限らない。
であれば、やるべき仕事は当然こなすが、「遊び」もやり切った方が良い。
その後、今の妻と色々と議論をして、幾つかの方針を決めた。
米国の5大美術館には全て行くこと。拠点のニューヨークから離れた西海岸にも、南部にも行くこと。それらを計画をまとめると、結果的に月一回程度の旅行に行くことになった。電車やバスでいける近隣の都市もあったがほとんどは飛行機。当然、ホテル代もかかる。
そうして、実際、様々な都市を訪問した。
銀行の口座残高は三桁単位で目減りした。
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貯金を減らして得たものは、なんだったのだろう?
まず、アメリカの各都市の空気を吸えたこと。
西海岸の暑い日差しと乾いた空気。テキサス州サンアントニオの、入り混じったラテン文化と幸せな退職者が醸し出すゆるい川沿いの店。酒瓶の転がるニューオリンズの匂いは夜明けの新宿に少し似ていた。
街への印象は、一度でもその地に足を踏み入れたことがあるかどうかで全然ちがう。今でも、ニュースやスポーツで様々な都市の名前を聞く度に、その記憶が蘇る。
やっぱり、行かないと分からないものはある。絶対的に。
そして、より重要なのは、それが妻と私の共通の記憶になったことだと思う。
今でもお酒を飲むと妻とアメリカ時代の話をすることが多い。体験した苦労、そこで出会った友人の話もそうだが、訪れた都市の話をすることも多い。
それは楽しかった話だけではない。ホテルでパスポートを求められて危うく泊まれなかった話。旅行に行くつもりだったのに、疲れ過ぎて直前でキャンセルしたこと。楽しいことも、失敗も含めた様々な共通体験。たぶん、その濃密な時間が、家族としての基盤を築いていったのだと思う。
特に、うちの場合は帰国後こどもが出来たのが早かった。しかも、生まれて1年と経たずに新型コロナウイルスの流行が始まり、横浜のニュータウンからほとんど出ない生活が続いている。
もしも、あの二人で街を巡っていなければ?
それはそれで楽しかったと思うけども、やはり二人の関係はすこし違ったものだったのではないか。
その意味では、時間も、気力も、お金も、出来る限り投入したあの旅行は、文字通り一生の財産になったと思う。
貯金は、大切だ。
いざという時に頼りに出来るし、あるだけで安心感もわく。ついでに言えば、歳を取るほど必要さが増したりする。家とか、ほんとうに高い。
でも、だからこそ、「貯金を切り崩してでも、経験に投資したい。リソースを全投入したい」というモチベーションを心の底から抱けたとき、その思いを大事にした方が良いと思う。
そういう「熱」は、人生でそう容易く訪れるものではない。
熱は、全力で燃やし尽くしてこそ財産になる。
炎を大きくするためには、やはり薪も新鮮な空気も必要なのだ。
お金もそのうちの一つだろう。
そして、そういう使い方が、本当は一番美しい使い方だと思うのだ。
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ちなみに、自分の経験から思うけど、「これまでの人生で新しい場所で住んでいる時」というのは、ひとつの機会だと思う。
その街でしか味わえない体験、店、味、イベント、そして友人。あるいはそこにいるからこそアクセスしやすい場所。アメリカのニューヨークにいなければ、メキシコやカナダ、あるいはアメリカ南部になんて行こうと思わなかっただろう。
でも、実際は、そうした「熱」が訪れても、時間や金銭的なハードルの高さから、躊躇し、踏み出すことに憂鬱になる人もいると思う。
そんな人には、先輩の受け売りをしたい。
「貯金を減らしても、全力でやった方が良いよ」と。
バトンズの学校1期生メンバーによるマガジン『かく、つなぐ、めぐる。』。今回の走者は、竹林秋人でした。次回の走者は、たなべさん。更新日は10月22日(土)です。お楽しみに!