適当な代役(なめてかかり、はじをかく)
最初にお世話になった洋菓子メーカーで9年目、工場長になってしまった私は、ほとんど現場にいることがなかった時期があり、書類やら、業者の対応、若手のコンテスト指導など、ある意味、緊張感がなくなりつつあり、無茶苦茶だった修行時代を懐かしく思い、そろそろ独立も視野に入れるそんな時期がきていた。
私の先輩で某有名シェフが製菓学校の授業をダブルブッキングをしてくださりましてどうしても代役をたててほしいとお願いされた。こういうのは私よりもキャリアがあるので副工場長がうってつけであったが、その日は、自分が前から予約していた某有名シェフ②の講習会に行くらしい。楽しみにしているらしいので、別をあたるといっても、ベテラン職人はいることはいるが、何かパッとしない。
教えに行くのは京都の学校らしい、担当者と打ち合わせがしたいと遠路はるばる来られるとの連絡があった。どうやら、こうやら、私しか余っていないようだ。
製菓学校の先生が挨拶兼打ち合わせに来られて、某有名シェフではなくて私でも大丈夫か?尋ねると、工場長自らとは有り難いと、恐縮されてしまった。その時、自分の背負っている重責を感じた。冷静に考えると、社員、パートあわせて80人以上の製造工場のトップにいることを再認識した。何事も起こらないのは、副工場長をはじめ各部署の責任者たちが本当に頑張ってくれてるんだと、ありがたく思った。
打ち合わせはでメニューを決め、後日FAXでレシピを送ることに。講習で3品、その後の実習でそのうちの1品。
ただこの学校は全てレシピはフランス語で生徒たちに教えてるらしい。先生が私用に日本語訳を記載の提案をしてくださったが、大丈夫だとかっこをつけてしまったのがそもそもの失敗で、のちに恥をかく羽目になる。授業は夏休み前の7月前半、打ち合わせから2週間後。
そしてその日がやってきた。京都の夏は暑い、とにかく暑い!!
学校には昼前に着いた。出迎えが20人くらい、工場長自らの来校ともなると、おもてなしも半端ないようだ。私は自分の立場をまだ自覚していない。
助手で後輩の1人を連れていくと、「すーごーいですねー!」ちょっと、にやけて言ってきた。何か馬鹿にされたような、そんなような気持になり、
「後でおぼえとけよ」と小さな声で呟いた。
お昼を用意してくれてるらしいので食べてこなかったが、部屋に案内されてテーブルに並べられたそれらを見て腰を抜かしそうになった。
助手は幕の内弁当。これでも十分豪華だが、私のところにはTHE京都としか言いようのないもはや弁当ではない京懐石フルバージョンである。
昼間っからなんというか!お重を開けると伊勢海老が君臨している。あっつあっつのお吸い物しかもハモが上品に潜水している。酒こそ出ないものの
この後芸子さんの舞でも始まるんじゃないかと思うひと時だったが、ジンジャーアイスで締めくくると、また助手が「すーごーいですねー!」にやけ顔に拍車がかかり、完全に馬鹿にしてる。「終わったらしばく」そう言って少しびびらせておいた。
しばらくして2人の教員が入ってきて本日の予定とレシピを渡された。
しまった。フランス語のことなどすっかり忘れていた。
何を書いているのかチンプンカンプンである!変な汗が出てきた。
「すーごーいですねー!」「フランス語読めるんですか?」そう言った助手の頭を叩こうとしたとき、助手の手元に、私が学校に送った原紙が目に入った。「えらい!」思わず頭にいきかけた左手は彼と握手をしていた。
このように皆、私を助けてくれてるんだと、感動した。
授業の直前、担当の先生に「説明は日本語で大丈夫ですよね!」「もちろんです。」
私の紹介が始まり、若くして工場長になったこと、受賞歴などを読んでいただいたが、かなり恥ずかしかった。「それでどうぞ!ムッシュ○○!」
誰がムッシュやねん!と心の中でツッコんだが、私は開口一番
「ボンジュール!!!」と挨拶していた。
生徒の皆さんは笑顔で「ボンジュール、ムッシュ」とかえしてくれた。
私のこころの声は「誰がムッシュやねん!俺はかまやつでも、吉田義男でもないぞ。」
講習は問題なく終わったかに思われたが、質問の時間でやたらとフランス単語を並べる生徒には難儀した。材料などはある程度はわかるが、作業用語はワカラナイ!アンビベ?パッセ?なんじゃそれ?っていう感じで先生方に教えてもらいながらで、恥ずかしかった。
実習の時間は和気あいあいとと言いたいところだが、私を呼び止める生徒は、あちこちからムッシュ、ムッシュ、ムッシュ、っとある意味新たなあだ名のようにおもえてきた。
帰り支度の際、授業謝礼金を手渡された。5万円、助手にも5千円。仕事で来ているので当然、会社に収めるが、助手には今日の私からのお礼としてそのままもってかえらせた。もちろんちゃんと会社には5千円足して。
「いいんですか?ありがとうございます。ムッシュ、!」
ムッシュ慣れして腹も立たなくなった。
帰りも同様に大勢でお見送りが、
「また来年もおねがいします。」と言われたので
「私でよろしければ」と答えたが翌年1月17日
阪神淡路大震災により5月に退職。
私の授業は2度となかった。