「自分の事が嫌い」って、いけないことなのか?〜我執と無我〜
◆「私」のこと、嫌いですか…?
「自分を好きになる」
というテーマは時折、耳にします。
これは、ポジティブな考え方には違いないでしょうね。
あまり度が過ぎて、
「この人、自分のこと大好きなんだろうな」
なんて他人から言われていたりすると、ちょっと痛々しいのかもしれないですけど。
「自分を好きでいられる」
というのは、心が安定して、未来に希望が持てて、他人に対しても暖かくなるために大切なこと。
だと言われれば、なんとなく頷けます。
逆に、
「私は、自分のことが嫌いなんです」
なんて聞くと、ネガティブ思考の典型例みたいな印象を受けるかもしれません。
そんな事を思っていたら、魅力的になれないんじゃないかな…
仕事でも恋愛でも、上手くいかないんじゃないかな…
そんな、まるで根本的なマイナス要素のように思われたりするかもしれません。
だけど、本当のところはどうなのでしょうね。
「自分が好き」って言っている人の方が本当にいいのか、
「自分が嫌い」って思っているのはダメなことなのか。
だいたいこの「好き嫌い」ほどあいまいな感情はないですよね。
映画やドラマやアニメなんかで、
「俺は、アイツの事が大嫌いだ!」
て言ってるキャラの行動って、
「どう見てもこの人『アイツ』の事好き過ぎるやろ…」
て思ってしまう要素満載だったりしません?
「アイツが大嫌いだ!」
てのは、それだけ「気になっている」という事なのだから、
それはもはや「大好き」と紙一重の感情なわけです。
「自分の事が好き」にしても、「自分の事が嫌い」にしても、
いずれにしても
「自分の事が気になって仕方なくて、色んな感情が渦巻いている」
こういう状況には変わりないでしょう。
私の個人的な印象としては、
「自分の事が嫌い」って言っている人が魅力的でないなんて、全然思わないのですね。
それは、その発言がどうって話でなくて、
そう言っている人の人間性が魅力的でないなんて全く思わないということです。
とても優しくて、面白くて、一緒にいて心地よくて…
それなのに「私は自分の事が嫌い」って、なぜか言ってる。
「えーっ!?」
て、思ってしまうような事はいくらでもあります。
人間の感情は、良くも悪くも様々な行動に向けた大きなエネルギーになります。
「自分が好き」も「自分が嫌い」も、非常に強い感情の源泉になっていますから、
それはそのまま、努力や行動のエネルギーになっているわけですね。
実を言うと、私も「自分の事が嫌い」派の人間でした。
「今はどうなん?」
と言われると、ちょい複雑ですが、少なくとも少年時代や青年時代は(いまも青年時代か)、
「自分に対するネガティブ感情」がいっつも渦巻いたまま、生きてきたつもりです。
だけどその感情が、勉強に対してもスポーツに対しても対人関係についても、
必死に努力する大きな原動力になっていたのは間違いありません。
◆「惑い」であるが故に強く、そして…
「自分が好き」も「自分が嫌い」も、その心は仏教で言うと、
「自分に対する強い執着」です。
専門用語を挙げれば「我執(がしゅう)」という言葉となります。
仏教でそのように言われるってことは、
それは「人間」ならばだれもが持っている本質的な心である
という事なのですね。
「自分に対して無関心である」
なんて、ちょっと考えられない、ということです。
「私のことなんて、どうでもいいよ」
なんて言葉を聞けば、自分への無関心みたいに聞こえますが、
それもまた、自分に対する何らかの感情がそういう言葉となって現れているわけです。
何の感情もなければ、そんな「私のことなんて」という言葉すら出てこないはずですから。
「執着」というのは、その存在にどうしても囚われてしまうということです。
「自分」という存在に囚われて、
私たちの思考は常に、「自分」への強い強い意識が中心になって動いてしまいます。
それは「好き」であれ「嫌い」であれ、同じことです。
「あの人に嫌われたらいやだな…」
「この仕事はなんとしても、成功させないと」
「このミスは、なんとかごまかせないかな…」
「あの人、困っているな。助けてあげないと。」
「あの子、可愛いな…」
私たちのあらゆる思考に、「我執」から離れたものは何一つありません。
表面上、他人のことを考えているような思考でも、自分と関係なさそうな思考でも、
必ずそこに「自分」という存在が強く主張し続けています。
だけどそうやって精一杯、思考を働かせるからこそ、
そこから自分の夢や、他人への気遣いや、世に貢献できるアイデアが浮かんできたり、
その思いを行動に移して、自他共に様々な影響を与えてゆくわけです。
これは人間としてごく自然な営みですよね。
「自分が好き」でも「自分が嫌い」でも、
その「我執」の思いが、あらゆる行動の原動力になっています。
「じゃあ、自分に執着するのはいい事なのですね」
と言われると、それはそれでちょっと違和感ありますよね。
「我執」って、言葉の響きからして「人間を惑わせるもの」って感じがしますし、
仏教ではまさに「人間の惑い」の代表的なものとして教えられるのが「我執」です。
「惑い」だからこそ、強い影響力を持つ。
そして、「惑い」であるが故に、そこには「危うさ」が常に伴う。
これが、私たちの実生活上で実感できる「惑いの心」の特徴でしょう。
自分への執着は、思考をそこへ縛り付けてしまうものと言えます。
「自分が…」「私が…」
そこから離れた思考がどうしてもできない。
それはそれだけ、「思考」に強い制限がかかってしまいます。
そのために「見えなくなっているもの」がどれほどあるか知れないというわけです。
誰かにぞっこん惚れてしまったら、私たちの心はその人の存在に縛り付けられて、周りが見えなくなってしまいますよね。
そうなると、本当は気にしなきゃいけない状況があっても、見落としてはいけない事があっても、
それらを平気でスルーしてしまいます。
強い感情エネルギーはあっても、視野は極端に狭くなってしまうわけです。
その対象が「自分」となれば、「惚れた他人」ぐらいではないほどに、
私たちの思考は強くそこに縛り付けられてしまいます。
もし、そんな「自分」から離れた思考が出来たなら(ありえない事なので想像はできませんが)
どれほど広い視野をもって、最善の判断や行動を見つけられるかしれないのですね。
「強さ」と共に「危うさ」をも伴うもの。
それが、私たちに常について回る「我執」です。
◆「無我」という視点を身に着けた時…
常に「惑い」は伴うのであって、一生それと付き合い続けることは避けられませんが、
だからこそ、それを律する「教え」をちゃんと理解しておくことが、
「迷い」と共に生きている私たちには極めて大切なことです。
仏教では、「我執」を破る教えとして「無我(むが)」が説かれます。
文字通り、
「我」というものは、「無」い
と説くのが、「無我」の教えです。
自分のことが…
「好き」、「嫌い」、「どうだ」、「ああだ」、「どうだろう」、「ああだろう」
毎日、毎日、四六時中、思い続けている対象である、「自分」について、「我」について、仏教では、
「そんなものは、はじめから無いのだよ」
とバッサリと否定してしまいます。
人間は、初めから「無い」ものを、有るかのように思って勝手にイメージし、
そんな「錯覚」の産物のことをずーっと思い続けて患い続けている。
これが、仏教が説く人間の「惑い」なのですね。
トンデモないことを言っているのが仏教のように聞こえるかもしれませんが、
ただ誤解しないで欲しいのは、
仏教で「無い」と言っている「我」とは、
「私たちが考えているような観念的な自己」
の事です。
「自己」そのものを否定したわけでも、
「自己」に向き合うことを否定したわけでもありません。
むしろその反対で、
「自己」とは一体、いかなるものかを徹底して教え、「自己」に向き合うことをこれほど重視している教えはないほどです。
ところが、私たちの「自己」への向き合い方に、重大な惑いがあることを仏教は教えるのですね。
自分のことが…
「好きだ」「嫌いだ」「どうだ」「ああだ」
と私たちが常に思い続けている「自分」という認識に、
重大な誤りがあるということなのですね。
この「無我」の「我」には、「固定した変わらないもの」という意味があります。
「精神」であろうと「物質」であろうと、
私たちが思う「私」には、ある種の「固定性」がどうしても伴っております。
またそういうものだからこそ「執着」の対象となり得ます。
仏教が「あきらかに観るべし」と教えられる「自己」の実態は、
「暴流の如し(ぼうるのごとし)」と教えられ、
喩えるならば「滝」のように、一切の「固定性」のないものだと説かれます。
私たちは「滝」と喩えられてさえも、その「滝」のイメージにすでに「固定した」ものを見てしまっています。
「いや、さすがに動いているイメージくらいある」
とは思いますけれど、「固定している」という文字通りの「固定観念」は、なかなか拭えるものではありません。
滝は、瞬間、瞬間に新たな水滴がやって来ては、去ってゆくもの。
刹那の瞬間の「生滅」が、次から次へと繰り返され、それが絶えることなく続いてゆく。
そんな、刹那の「生滅」を繰り返している存在である「滝」ですが、
私たちの目からはどうしてもそこに「固定性」の「錯覚」を抱きます。
だけど、「固定したものでは断じて無い」という理解をすることは、一応はできます。
「自己」もそれと同じく、
「業(ごう)」とよばれる、「思い」なり「発言」なり「行動」なりの「行い」が、
滝の水滴が激しく現れ続けるように、次から次へと起きては、過ぎ去ってゆく。
そんな「業の連続」の存在なのですね。
刹那の瞬間、瞬間の生滅を繰り返している「自己」のどこにも「固定したもの」はありえません。
「自己とは暴流の如し」と言われるのは、
そんな「業」の生滅の連続が「私」の実態であるという事です。
そこに、「固定した魂」のような「我」をみて、それに強い執着を抱き続ける「惑い」が、
絶えることなく働き続けているのが人間なのですね。
私の真相は「無我」である。
これを頭で理解したからといって、そんな「頭の理解」で我執が消えるほど、私たちの惑いは浅くはありません。
しかし、この理解があればこそ、「我執」を「我執」と理解し、
私たちの様々な「思い」の実態を冷静に見つめることができる視点を持つことになります。
その事が、パワフルだけど危うさを伴う私たちの感情と生きる上で、とても大切な事なのですね。