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人智を超えた神秘の異談集『現代異談 北関東心霊地帯』(籠三蔵/著)著者コメント+収録作「遺影集団」全文掲載

人智を超えた神秘の異談集

あらすじ・内容

「地震みたいに家全体が揺れて、物がひっくり返ったり、ガラスがぶっ壊れている音が…」
住宅地で頻発する凄絶苛烈な怪奇現象に著者自ら挑む!表題作「北関東心霊地帯(後)」より

超然と存在する怪異・神仏が躍る怪異談32篇

・禁忌に触れた者が目撃した恐ろしい神「ヨガのポーズ」
・秩父・三峯神社で邂逅した御眷属の姿「幻の狼」
・内見に訪れた物件で遭遇した異様な存在「覗き魔注意」
・ネットで話題の降霊術の最中に起きた異常事態の数々「ひとりかくれんぼ」
・住宅地の公園を覆う怪の気配と縄文時代の凄惨な儀式の謎「祭祀場」「肉塊」
・怪しげな自称霊能者男の背後に控える物の怪に著者の命が狙われる!「嘲笑」
・怪奇現象が頻発するとある地区を訪れた著者に襲い来る恐怖、そして明かされる因果とは…「北関東心霊地帯」
――など、超大かつ深遠なる神仏奇瑞の力の一端に触れる一冊!

著者コメント

 この本を執筆している二〇二四年の、夏のことである。
 その日は「地獄の釜の蓋が開く」と言われる、いわゆる八月十三日、迎え盆の日であった。
家内の郷里の下北の町でも、仏壇に供物を用意して、代々の御先祖様の墓で迎え火を焚き、檀那寺に御先祖様を迎えに行く。恐らくは日本全国新盆・旧盆を含めて、どこでもほぼ同じ行程の行事であり、家内と私は例年通りに迎え火を焚いて、御先祖様をお迎えした。
 ところが。
 迎え盆ということで、いつもは厳かな空気を湛えているお寺の本堂が、今年はやけに騒がしい。見ると六歳から九歳位の子供らが七、八人、堂内を所狭しと走り、鬼ごっこをしていて、祈祷壇の太鼓や磬子を乱雑に叩きまくっているのだ。さながらデパートのキッズルームの様相である。
 そして驚いたことに、父親らしき二人の男性は、子供らに混じって一緒に太鼓を叩いたり、鬼ごっこを喜んでいる。母親らしき三人の女性はそれぞれのおしゃべりに夢中で、更に祖父らしき人物は、彼らの「暴挙」をただ、にこにこと眺めているだけなのてある。
(はて? 自分らがこの位の年頃って、お寺や神社でこんなことをしていたら、真っ先に祖父母や両親に叱られたものなのだが……)
 私の母方の実家は、一時、埼玉県某市の天神社の敷地内にあったことがある。神職不在の神社でもあり、広々とした境内は近所の子供たちの遊び場も兼ねていて、私もそこに入り混じって一緒に遊んだ記憶は鮮明に残っている。
 だが実家の伯父伯母からは「境内はいいけど、拝殿周りでは絶対遊ばないように。神様に失礼だから」と言い含められており、そのルールは私だけでなく、地元の子供たちからもきちんと守られていて、鬼ごっこをしていても、拝殿周りに逃げる子などいなかったのである。
 またお寺に出向いても、そこは常に厳粛な場であり、騒ぐ子供など見掛けなかったので「寺社とはそういう場所なのだ」という摺り込みが自然に醸成されていたのかもしれない。どちらにしても「神社やお寺で粗相をしてはいけない」という倫理観は、十歳あたりまでに出来上がっていたと思う。
 それがどうだろうか。
 ご先祖様をお迎えする厳かな迎え盆の日に、お寺の堂内で、これだけの数の大人、しかも親族が側に居て、誰も子供たちの騒ぎを注意しないどころか、一緒になって祈祷壇や仏具で遊んでいるという事態に、私の脳は束の間フリーズしてしまったのである。
 妻と私と義弟、そしてふた組の参拝者がお参りをしている間も、子供らは堂内で爆走を続け、下げられていた御札を叩き落とし、残りの子らも太鼓や木魚を騒がしく鳴らし続け、母親たちは笑い声を憚らずお喋りに夢中という、無作法(?)な光景はずっと続いていた。
 このお寺にも、何年か前から「お参りの際にはマナーを守って、他の方のご迷惑にならないようにしましょう」という趣旨の張り紙が貼られているのを見受けてはいたのだが、その実態をまともに目撃してしまったわけである。まさか祖父の代からお寺の本堂を遊び場と勘違いする輩がいるとは想像も付かなかったわけである。送り盆のあと、この家族の御先祖様らは「彼岸」へ戻った後、向こうでかなりきついお灸を据えられてしまうのではと思った。
 そしていま現在、こうした寺社仏閣とは、またお盆やお彼岸やお正月といった習慣や行事、そしてそこでの作法や礼節というものは、一般的にどんな捉え方をされているのだろうかと、この大人達を見て、考えさせられる出来事でもあった。
 巷では多様性という言葉が流行っている様子である。
 はて、それはどういう意味合いの言葉なのかと検索を試みると、
「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと」(出典:デジタル大辞泉)と
いう解説がヒットしてくる。
 だがそれは反面、先の事例のように「お寺で遊ぶのがなぜいけないのか。子供は喜んでいる。
個人の自由を侵害するな」とばかりに規則や規約とされていた事柄が少数意見、個人の尊重という名のもと、容易く破られ、踏み越えられてしまう世の中へと変わった気もしている。
 確かに「行事」「伝統」「風俗」「風習」、それら古くから継続されてきたものたちの中には、時代遅れとなり野蛮と判断されたものがいくつも存在して、それらが先人らによって淘汰されてきたことも事実である。
 ただ、古くからの戒めの中には「どうしてそうしなければいけないのか」という先人達の知恵も含まれている。
 科学万能の時代と違い、恐らく経験値的に積み重ねられた「危険な何か」、それが禁忌であり、戒めでもあったのだろう。こういったものが現在、多様性、個人主義という理由を盾に、いとも簡単に破られているのを筆者はあちこちで垣間見ているし、またそういったものを知らなかった故の災禍に見舞われた事例を数多く耳にしている。
 これまでは「一部の人間」「罰当たり」という枠内で括られていたこの項目が、多様性という言葉の名の下で世に蔓延するとしたら、これはやがて、とんでもないことへ発展するのではないかと筆者は危惧している。そこで本書では異談・怪談の最も根底的な領域である「禁忌を踏む」を念頭に話を纏めてみることとした。
 ただ禁忌といっても殺人、人肉喰い、近親相姦のようなアングラなものではなく「つい最近まで、ごく普通の常識として守られてきたはずのもの」という、緩い範疇の事柄を指していると思って戴きたい。つまり、この令和の世は、そんなことすらおろそかになりつつあるということなのだ。
 本書に蒐集された「話」を踏まえたうえで、読者の皆様が、今現在の自身の立ち位置を振り返ろうと考えて戴ければ、誠に幸いに思う次第である。
 それでは再び「異談」の世界へとご一緒に。

籠三蔵 本書収録「まえがきのようなもの 」より全文掲載

試し読み1話

遺影集団

 これは、私が三十代の頃に体験した出来事である。
 その頃の私は、当時執筆していた伝奇小説の取材で、筑波山周辺の伝承地を愛車スカイラインで巡っていた。
 現在のように調べたいことをネット検索で一発とはいかなかった時代背景と、またその土地特有の空気感を肌で感じ、それを作品に取り込みたいという目論見もあったからである。
 この時もそうした伝承地巡りの帰りがけで、季節は本格的な夏に差し掛かった辺りだった。
 当時付き合っていた彼女を助手席に乗せて県道を走り、幾つかの史跡を巡って、東京への帰途に就いていた時である。時刻は午後四時半になろうとしていたが、日はまだ高く周囲は明るい。
 ふと帰りの道沿いに、もう一か所伝承地があることを思い出していた。
 そこは結構な規模の社殿を構えた神社であり、前回の探訪時には縁日が行われていてたくさんの出店や参拝者でごった返していたため、あまり探索が出来なかった場所でもある。
 夕方だから社務所などはもう閉まっているだろうが、折角のチャンスである。私は隣の彼女に「もう一か所寄りたい所がある。前に寄ったあの神社」と告げて、そこへ向かう市道へとハンドルを切った。
 ところが、神社へと向かう道に逸れて幾らもしないうちに、周囲が重い空気感に包まれるのを感じ取った。
 夕方の田舎道なので対向車も人影の姿もないのだが、まだ陽射しは強く周囲は昼間並みに明るい。それなのに背筋がゾクッとするような、不安に駆られる気配が漂っている。
(おかしいな。ここ、こんな場所だったかな?)
 前回立ち寄った時は、参拝者で賑わっていたせいもあるのだろうが、どこか寂しげな坂東市の国王神社や北山古戦場跡と比較すると、ずいぶん雰囲気の良い場所だったのだ。
 胸騒ぎを覚えて助手席の彼女を見ると、こちらも表情が固い。
「……ねえ、ここって、こんな感じの場所だったっけ?」
 どうやら同じ感覚を覚えているらしい。
 いまの私なら、目的の場所が心霊スポットで、こうした気配を感じたならすぐさま踵を返して探訪は中止していたと思う。しかし相手は神社であり、夕方とはいえ周囲もまだ明るい。
しかも既に一度訪れていて、空気感を確かめたことのある場所である。あの時と違って賑わいがないからじゃないかと口にして、愛車を彼の神社の駐車場に乗り入れた。
 鳥居を潜り抜け、拝殿前に立つと、ちょうど巫女さんが賽銭箱の賽銭を回収しているところで、社務所はたった今閉じたらしい。しかし境内の空気感は明らかに前回と違う。これはどういうことなのだろうと私は首を傾げた。
 好奇心が先走る。
 当時スマホはおろか、デジカメすらない時代であったので、私は愛用していたフィルム式カメラを取り出し、取材資料を得るべく境内のあちこちにシャッターを切り始めた。
「……ねえ、なんか怖いよ。早く帰ろうよ」
 彼女がシャツの袖を引っ張る。やはり違和感を覚えているのは私だけではない。今であればさっさと現場から退散するのだが、その当時の私はまだ「若かった」とでもいえばよいのだろうか。閉じているとはいえ社務所の中にまだ人も居る様子であるし、その言葉を聞き流した。
 そして、この神社の拝殿裏にも摂社が幾つかあったことを思い出した。
「……あともう少しだけ」
 そう口走りながら、拝殿に繋がる渡り廊下の下を潜って、裏手の摂社に手を合わせようとした瞬間、背後にある奇妙なものが目に入った。
 摂社の少し先に、古札を納める納札所があった。
 そこに、奇妙なものが立て掛けてあるのだ。
 A4版ほどの大きさの、黒い枠の額縁に入った老人と老女の二枚の写真である。厳しい顔つきの視線が、ガラス越しにこちらを睨んだ気がした。
 遺影。
 そんな言葉が脳裏を過る。
 ふと見れば、立て掛けられたその二枚の額縁の側には、新聞紙に包まれた額縁らしきものが、二十枚近く積み上げられている。
(これか!)
 周囲を包む異様な空気の正体を察知した瞬間、彼女が渡り廊下を潜ってこちらへと来るのが見えた。
「来るな」
 側に来ようとする彼女を制して、私は速やかにその場を立ち去ろうとしたが、一瞬遅く「遺影」を捉えた彼女の口から、「ひっ」と悲鳴が上がった。
「行くぞ」
 私は彼女の手を引っ張りながら、拝殿の裏手から慌てて抜け出した。
 頭の中で思考が駆け巡る。
 神社の納札所には、時折、曰くの付いたような人形やぬいぐるみ、品物などを無断で投棄する輩がいるらしく、そのようなものを棄てるなという注意書きがあったりする。
 だが、さっき見たものは、明らかに遺影であった。
 しかもその脇に積まれたものも含めれば、明らかに二十枚以上はあっただろう。なぜそんなものが神社の納札所に無造作に投げられているのか。
 何者かが「それ」を神社に不法投棄していった、そうとしか思えなかった。だからこそ、こんなに空気がおかしいのだ。果たして怒っているのは遺影を棄てられた故人なのか、はたまた神社の祭神なのだろうか。理由を考えている暇はない。長居は禁物だった。
「……ちょっと、さっきの何なのよ!」
 彼女が柳眉を逆立てて声を上げる。
「いいから黙って……!」
「あれが原因なんでしょ? だから早く帰ろうっていったのに……!」
 金切り声を上げる彼女を引き摺って、私は一刻も早くこの場を立ち去ろうとした。経験則からすれば、さっき彼女が騒いだせいで、あの遺影の主らに目を付けられた可能性がある。
 ヤバいものを見た時は、見て見ぬふりをする。
 これが鉄則なのだが、得てして女性はパニックになり大騒ぎを始めてしまうパターンが多く、過去に彼女にも何度かあった。
 ホラー映画でよく見掛ける、お馴染みのシーンだ。
「あれ何なのよ、説明して……!」
 それを口走ったら「気付いている」のがバレてしまう。
 あんなのに関わったら大変だと口を噤んだまま、私は彼女を引っ張って参道を抜けようとした。ちょうどその時、鳥居の向こうから、小学生位の男の子と女の子を連れた親子がこちらに向かってくるのが見えた。
 人の姿を見たことで心強くなった私は、そのまま参道で親子とすれ違い、彼女を引っ張ったまま、鳥居を潜って一目散に愛車の方へと向かった。
 ところがここで、実に信じられないことが起こった。
「待って、トイレ、トイレ行きたい……!」
 車まであと少しというところで、突然彼女がそう騒ぎ出したのだ。
 まるで映画かマンガのような展開である。
 一触即発のこの場面で、トイレはないだろうと私は舌打ちした。
 だが変に自分が取り乱せば、そのパニックは伝染する。そうしたらもう手が付けられない。
 何しろ相手は神社の空気も変えてしまう、得体の知れない遺影集団なのだ。
 私は駐車場の隅にあるトイレの方へ向かって「早くな」と彼女を促した。
「ここに居てよ、ここに居てよね!」
 少しくらい我慢出来なかったのかよと筋違いな腹立ちを覚えつつ、私はトイレの前で立ち尽くし、彼女を待った。
 周囲はまだ明るく、拝殿前にはさっきの親子連れの姿も垣間見える。
 落ち着け、落ち着け、相手に悟られるなと視線を地面に落とし自分に言い聞かせていた、その刹那。
 目の前で何かが強烈に光った。
 カメラのストロボにそっくりな、白い閃光だった。その数は全部で七、八個。俯いた私の視線の上方で点滅しているのである。
 すうっと臓腑が冷え切った。取り囲まれている。
 納札所に居た「あれ」が、今、目の前に来ているのだ。
(こんなものに関わったら、大変だ)
 出掛かった悲鳴を噛み殺す。彼女はまだトイレから出てこない。
 再び視線の隅で、複数のストロボを焚いたような、強烈な閃光が瞬いた。
 そのまま、二度、三度と。
 凄まじい圧と恐怖が、全身を過る。
(知らんふり、知らんふりだ……)
 正直、彼女を置いて車に乗り、そのままエンジンを掛けて走り去ってしまいたい衝動に駆られていたが、紙一重のところで何とか耐え抜いた。
 その時ガチャンと音がした。彼女がトイレから出てきたのである。
「逃げるぞ」
 ここら辺が限界だった。
 何かをいいたげな彼女を助手席に押し込み、私は車を急発進させて、その場を離脱した。
 爆走するスカイラインが高速道路のインターを通過して、利根川を渡り切った辺りで、先ほど銀色に輝く光球の集団に囲まれたことを話すと「バッカじゃないの! 付き合い切れない……!」という、凄まじい罵倒の声が上がったのは言う迄もない。
 そして後日、この日のフィールドワーク時に撮影したフィルムを現像に出すと、その中の一枚に、あの銀色の光を連想させる「人魂」がすうっと尾を引きながら、神社の拝殿の上を横切っている様子が写り込んでいた。
 残念ながらこの写真は、私が怪談綴りとしてデビューする前に、怖いもの好きの女友達が見たい見たいとせがむので見せたところ「あの人魂が夢に出てきて怖いから何とかしてくれ」と懇願され、当時住んでいたアパートのベランダで、ネガごと焼却してしまった。そのため現在手元にはない。
 神社の納札所に捨てられていた数十枚の遺影らしき額縁の正体は、今もってわからないままであるが、あの調子では、所有者の元でかなりな障りを及ぼしていた品である可能性は大きい。
 とはいえ、迷惑な不法投棄は勘弁してもらいたいものである。

―了―

著者紹介

籠 三蔵 (かご・さんぞう)

埼玉県生まれの東京都育ち。山野を歩き、闇の狭間を覗く、流浪の怪談屋。尾道てのひら怪談大賞受賞。主な著書に『方違異談 現代雨月物語』『現代雨月物語 物忌異談』『現代雨月物語 身固異談』『現代雨月物語 式神異談』『現代異談 首塚の呪術師』、共著に『高崎怪談会 東国百鬼譚』(ともに竹書房)がある。

シリーズ好評既刊