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2021年10月25日

1日1話、実話怪談お届け中!
【今日は何の日?】10月25日:産業観光の日

2001(平成13)年10月25日に、愛知県名古屋市で産業観光サミットが開催されました。そのことにちなんで、名古屋商工会議所文化委員会が記念日に制定しました。

さて、今日の一話は?

「フェリーにて」

 フェリーで行く船の旅。
 ……というと、船旅を知らない人が聞けばなんだか豪華な旅のように聞こえる。
 が、実際にはそんなにいいものってわけでもない。一番安い二等船室はカーペットが敷かれた広間になっていて、数十、ときには数百人が雑魚寝をしている。修学旅行の夜のようでもあり、また台風で避難してきた人が集う公民館のようでもあり。
 港を出てしまえば、目的地に着くまでの間、退屈な時間が続く。
 つけっぱなしのテレビを見る、持ち込んだ文庫を読む。仲間と飲み始める者もいる。
 思い思いの時間をすごした後、船内の灯りが落ちて「消灯」となる。
 毛布は一人二枚。それぞれ下に敷くためのものと、上に被るためのもの。
 だだっぴろい広間に毛布を敷いて横になったら、後はもう寝る以外にすることがない。
 だから、眠りに落ちるのもあっという間だった。

 十津川はとりたてて寝付きが悪いほう、というわけでもなかった。
 その晩、目を覚ましたのはたまたまだったのだろう。
 ごつん。
 そんな音が聞こえた気がしたのだ。
 何かが船窓にぶつかったような音だった、と思う。
 立ち上がって目の前の円い窓を見る。はめ殺しになった小さな円い窓の外は、漆黒の闇に閉ざされて何も見えない。
 釈然としない。
 が、鳥か流木か、そんなところだろう。
 寝直そうかと毛布を被り、うとうとしかけたところで、またあの音が聞こえた。
 ごつん。
 今度は、十津川の隣に寝ていた中年が先に起き上がった。
 十津川と同じように、船窓を覗き込んでいる。
 何事かと首を捻っているのも同じだ。
「なに、どうした」
 中年の連れが起き出してきた。
「いや、なんか音がした。ゴツとか聞こえたもんで」
 すると、近くに寝ていた他の客も起き出してきた。
「俺も聞いた。確かに音がした」
 退屈な船旅では、誰もがこういう騒動に飢えている。そのうち他の客までがごそごそと起き出してきて、ちょっとした騒ぎになってしまった。広間のようなスペースだけに、誰かが起き出せば「なんだなんだ」と不審を感じた客が次々に集まってくる。
 こうなると、ゆっくり寝るには騒がしすぎる。

 十津川は騒ぎが収まるまでの間、少し夜風に当たることにした。
 売店はとっくに閉まっている。
 幸い、自販機のビールはまだ売り切れていないようだ。
 一本買って、デッキに上がってみる。
 人影は他にない。
 雲があるのか、頭上に星は見えない。代わりに、水平線に低く瞬く遠い岸辺の灯りが、地上の星のように見えた。
 昼間のデッキは夏の日差しに焼かれて、体温よりも熱かった。
 が、今は沖からの冷たい風に吹き晒され、涼しいどころか肌寒く感じるほどだ。
 暑気払いに買ったビールを半分も飲まないうちに、すっかり身体は冷えきっていた。
「ううぅい。やっぱり……中に戻るか」
 デッキの縁から身を乗り出して飲み残しを海に流したとき。
 腕を突き出した手すりの真下に、黒光りするものが見えた。
 灯りがないため、それが何かはわからない。
 が、人間ほどの大きさの〈何か〉が、船体に貼り付いていることはわかった。
 波に揺られてか、それが動くたびに「ごつん」と音がする。
 足は見えない。しかし、腕と頭がある。
 人だろうか。
 もし人だとすれば、誰かが落ちたのだろうか。
 誰か人を呼ぼうか、とも考えた。
 ……それとも。
 十津川は憶測を振り払って船内に逃げ戻った。

 広間は静まり返っていた。
 自分の毛布に潜り込むが、恐怖と興奮の入り交じった気持ちで寝付けない。
 波の音、低く続く機関の音、隣の中年のいびき。
 そんな音が妙に気になる。
 次第に眠りに落ちていく。
 ごつん。
 船窓を叩くあの音が聞こえた。
 たぶん、アレだろう。だが、確かめたくはなかった。
 朝までの間、何度もくりかえし聞こえた。
 十津川の他にも何人か息を潜めてその音を聞いている客がいるようだった。しかし、もう誰も起き出してはこなかった。

――「フェリーにて」加藤一『禍禍―プチ怪談の詰め合わせ』より

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