【第43話】「張子の虎」と「張りぼての船」
青山という、都内でも一等地の、小さくても洗練されたお洒落なオフィス。
そこに置かれた、やたらと立派な革張りの椅子を与えられ、とりあえず腰掛けたものの、何をしていいのか分からない。
今思えば、そこはまるで「張りぼての船」であるかのように、見た目ばかりで小さな池にすら浮かばないような船だったが、
そこにいた私自身もまた、威勢よく前の会社を退職した割には、まるで中身の無い「張子の虎」のようだった。
勿論、何も考えていなかったわけではなかったが、この時点で、取り扱う商品が存在しなかった。
私はそれまで、営業しかやったことがなかったため、「売る」ための商品が存在しないのでは、何も出来る事が無い。
情けないことに、自分が何をすればいいのか全く分からなかった。
しかし、東山さんは、まだ販売する商品が決まらない内から、教育サービスのベンチャー起業として、投資家からお金を集め上場を目指すんだ、と張り切っていた。
東山さんは、起業家のお兄さんの影響か、不思議なほど多くの人脈があった。
私が入った時にはすでに、会計士でベンチャー起業を支援する事務所と契約を結び、エンジェル投資家を募ったり、ベンチャーキャピタルの斡旋などのアドバイスをしてもらう仕事を委託していた。
更に東山さんは、大手の商社マンや急成長のベンチャー企業の社長などとも繋がりが多く、そういう人たちがやたらと出入りして挨拶に来た。
そういう時には決まって、「ベンチャーキャピタル」だの「投資」だの……という会話が交わされ、そういう方面には全く疎く、興味のない私にとってはまるで宇宙語を話しているようにしか聞こえなかった。
よくわからない世界の話に解ったような顔をして、へらへら笑いながら愛想を振りまくのが、非常に面倒だった。
「田久保さんはとにかく、サービスの中身と、営業をお願いします。
金は俺がいくらでも引っ張りますから。
田久保さんと俺なら最強でしょ!なんでもできますよ!
ま、とにかく一杯やりながら計画しましょう」
東山さんはその頃から、やけに羽振りが良かったが、彼は少々、虚勢を張るタイプだった、ということも、後から少しずつ分かってきたことだ。
そして、これも後になって知ったことだが、起業当時に用意した資金は、開業のための準備や、人脈などへの先行投資で、実は初期の頃には、すでにかなり残り少なくなっていたらしい。
私が前の会社を退職する前、東山さんとの飲みの席で、東山さんが私に「1年は保証する」と提示した報酬は、実際には僅か数ヶ月も持たなかった。
しかし、誤解しないでいただきたいのだが、これは決して東山さんだけが悪いのではない。
それどころか、会社を経営した経験のある人であれば、私のあまりに幼稚な過ちに気づくと思うが、そもそも、自分で会社を運営しようと思う人間が、人から給与をもらおう、と考えている時点で、私がいかに甘く、何も分かっていなかったかが判る。
一企業の営業マンとして多少の業績を上げたぐらいで、何でも出来るとタカをくくり、知らずと傲慢になり、何の計画も持たずに独立を夢見て会社を飛び出した私は、
共同経営の話を持ちかけてくれた東山さんにすっかり甘え、無意識に、何もかもを人任せにしてしまった。
自ら、経営というものを学ぼうという姿勢も持たなかった。
だから、仮に東山さんにも多少の落ち度はあったにしても、それを助けたり、カバーするような器量が私にはなかった。
私はあまりにも幼く、無知だった。
この頃、まだ若かった私たち二人は、お互いに、どこか依存し合っていた様に思う。
私は、自分が営業活動をするためのお膳立てを、すべて東山さんや、どこかの誰かがやってくれるものだと無意識に思い込んでいた。
そして、東山さんの方もまた、私の営業力で、「きっと会社をなんとかしてくれるだろう」と思っていたのではないかと思う。
そんな、まるで先も見えない状況の中、私はとにかく販売するための商品探しと、東山さんは人脈の構築に勤しんだ。
そして、そもそもの目的だった、最高のサービスを提供するために、自らのスキルアップと、新たな能力開発手法の構築の準備をしようと、あらゆる心の世界の書物をとことん読みあさり、研究に明け暮れた。
しばらくは、そんなお金にならないことばかりやっていた。
その時は、そうすることがベストと信じていたが、今思えば、ずいぶんとのんきなものだ。
自分たちのしていることが分かっていなかった。
そんな中でも、あるとき販売商品になりそうな話を東山さんが私に持ちかけて来た。
東山さんなりに、事前にある程度の目処をつけていたのだという。
私はこの時、その商品の名前を始めて知ったのだが、内容を聞くと、私がやりたいと思っていたことからも、かなり納得のいく内容のものだった。
ようやく手探りながらも、一つの道筋が見い出せそうな予感がした。