【第44話】「つよがり」の「燃えカス」
さて、実は前回の【第43話】を書きながら気付いたことがあった。
その気づきは、私の「自分探しの旅」の中で、かなり重要なポイントを占めるような気がしたので、この【第44話】は、ストーリーの本筋から少し脇道に逸れることを承知で、ここに記しておきたいと思う。
それは、この独立・企業の時期に、なぜ私は「張子の虎」を演じ、「張りぼての船」に乗るという、恥ずかしく情けない経験・学びが必要だったのか、という背景だ。
確かに、傲慢になってしまった自分を戒めるため、という単純で分かりやすい理由も大きかった。
しかし、この時期に来て、それまでは当たり前に自分に身に付きつつあった視点を、まるで仕組まれたかのように、なぜか急に見失っていた自分の姿に気づいたのだ。
その視点とは、「虚勢を張る」ことの虚しさだ。
そもそも、自分の過去を振り返ってみると、張子の虎のような「見掛け倒しの虚勢を張る姿」に、ずっと以前から、全く価値を感じない自分がいた。
それなのに、この時代、私は無意識にそのような「張りぼての船」に乗ることを選択した。
なぜ、このときばかりは、そんな迷いの世界に私ははまってしまったのだろうか。
元々私は、思春期の頃の強烈なコンプレックスで、「外面」を整えることに価値を置き、必死でそれを得ようとしていた。
しかし、それを打ち砕かれることによって、心の世界に興味を持ち、その頃読んだ本などから「自分の内にこそ真理があり、それを知らない限り、永遠に救われない」ということに行き当たった。
それこそが、まさに私の自分探しの旅のスタートだった。
つまり思春期以降、すでに私は「つよがり」で自分を飾ることに、価値を感じなくなった自分がいたはずだった。
まるで逆説のようだが、だからこそ虚勢の虚しさを、もう一度この時に、理屈だけではなく体で“認識する”学びが必要だったのかも知れない、と気づいたのだ。
人は、既に自分に身についている部分の重要性は、意外と認識できないものだ。
例えて言うなら、自らの実在が光であったとしても、もしも初めから光の中にいたら、光そのものである自分の本質を自覚できない。
障害物という対象があることによって「影」が出来、その相対を見た時に、始めて自分が光であったという事実を認識することが出来るのだ。
これは、私たちの人生そのものの意味でも同じことが言える。
「私たちの実在が完全で完璧な宇宙そのものであるならば、なぜ、私たちはあえて肉体という限られた枠を持ち、悩み、苦しまなければならないのか」
という疑問を持つ人も多い。
しかし、私たちはその限られた肉体という枠を持つ事により、無限なる「本当の自分」に目覚めることが出来る。
もしも、このことを頭(観念)だけの理解に留めたり、偶発的な浅い体験だけに終わって認識が甘いと、その認識が定着せず、曖昧なままになってしまう。
すると、例えば精神バランスを崩したり、何か他の要因によって、判断能力が低下している時などに、誤った判断をしてしまうこともある。
独立時代の私の場合、以前の自分なら見向きもしなかったはずの、「虚勢を張る」こと無意味さに対し、認識がまだ甘かったからこそ、その方向に無意識に向いてしまったのだろうと思う。
そしてその経験は、今度こそ認識を徹底的に身につけ、虚勢を張る虚しさへの強烈なセンサーを持つことに繋がり、今の私の役割を果たす上で、欠かすことのできない重要なものとなっていった。
思春期時代に私の中にあった「外面に価値を置く」という癖は、理屈では違うと認識していても、経験が浅く、心の奥深くには、その癖がまだ燃えカスのように残っていたのだろう。
今度こそ、自分の中に燻っていた「外にあるものへの依存」から、完全に自分が脱却し、決別するために、それこそ、爆弾級の徹底的な空虚さを体験し、「つよがり」を完全燃焼させられたのかも知れない。
もちろん、「虚勢を張る」という行動は、多かれ少なかれ、誰もが持つ一側面でもある。
また「虚勢を張る」ことが常に悪いとは限らず、そのように形から入る事によって、その形の本質を学ぶ、ということもありえる。
例えば、この「自分探しの旅」の中でも、私が異例の昇進で課長になったとき、「チャンピオンベルトがチャンピオンを作る」という言葉を書き記したことがあった。
あの時はまさに、ベルト(肩書き)という形から入ることで、そのベルトに相応しい自分でありたい、という気持ちが自分を高め、本質へと自分を近づけていたことも事実だ。
しかし、その一方で、ベルトが過信を生んでしまうということもある。
私の場合も、最初の頃は、自分を高めるために適度な重さであったベルトが、長く腰に巻いていることで、少しずつ過信に変化しずれてしまったのではないか。
これはあくまでも私の感覚でしかないのだが、残念ながら「形から入ろう」とする人の多くが、“本質”を見失い、形そのものに価値があると錯覚してしまいがちな傾向があるように思う。
チャンピオンベルトは「本質」に目覚める縁に過ぎず、本来はベルトそのものに価値がある訳ではない。
この違いは、あまりに当たり前のようで、しかし多くの人がその誤りに気づかないまま、本質ではない何かを身にまとって自分を誇示しようとし、今度は、それを失う恐怖に怯える行為を繰り返してしまう。
実は、「本質」と「虚勢」の違いは、全ての人の中にもともと存在する「本当の自分」が知っている。
私はもともと、「虚勢を張ってしまう」という性質が強くあったからこそ、その反動で、“本質”を求める想いが強烈にあった。
そして、その虚勢を何度も打ち砕かれることにより、本質と虚勢の違いを感じ取るセンサーが磨かれ、鋭敏になっていったのではないか。
幸いにして、今では周囲の人が “本質” に目を向けず、虚勢を張ろうとする心の動きがあると、直ぐにその違和感に気づけるようになった。
そしてまた、その経験があったからこそ、現在では、自分自身もその間違いを犯さずに済んでいるようにも思う。
今の自分の役割を果たすために、この独立時代の私は、私の心にまだかすかに残っていた「虚勢」の癖に強い嫌悪を感じ、はっきりと違いを認識するセンサーを磨き上げるために、「張りぼての船」に身を置いたのではなかろうか。
実は今、この「自分探しの旅」の中で書いている独立時代の話は、あまりに情けなく恥ずかしいもので、本来であれば、とても人にお伝え出来る様な立派なものではない。
しかし、そのような迷いの中にいた時期であったからこそ、少しずつ、自分の中で究極の “答え” が、だんだんと形となり、見え始めた貴重な時期でもあるのだ。
だからこそ、この先の情けない自分の経験を曝け出し、次回からまた、ストーリーの本筋に戻って自分探しの旅を進めていきたいと思う。