【コラム3】「本当の自分」は燃え尽きない 〜あしたのジョー〜(前半)
コラム『心の旅の協力者』3
私が「あしたのジョー」を好きになったのは、もちろん、生まれたばかりの連載当時ではなく、小学生だった頃。
当時は、テレビアニメが再放送され、さらにはアニメの映画版も上映され、第二ブームが巻き起こっていた頃。
それ以来の大の「あしたのジョー」ファンで、漫画は当然の事ながら、ジョーや段平が本当に実在するようなベストマッチの声優さんの声でドラマが繰り拡げられる、アニメシリーズが大好きで、今だに、仕事を終えると、DVDでアニメシリーズを2~3話見てから眠りにつくことが良くある。
もう何年も、それを繰り返しているので、一体、何十クール見たのか分からない。
特に、テレビアニメの「あしたのジョー2」が大のお気に入りで、台詞が完全に頭に入っているぐらいだ。
「あしたのジョー2」の最終回の、ラストシーンを見終わった後の虚脱感と言ったら、とても言葉に表すことは出来ない。
そして、この強烈な虚脱感が、空いてしまった穴を埋めるが如く、私をもう一度、第1話から見ずにはいられなくさせるのだ。
これはある種の中毒に近い。
「あしたのジョー」を知らない世代でも、リングのコーナーで微笑むように座る、燃え尽きた矢吹丈の名シーンを見たことがきっとあると思う。
ジョーは青春の全てをボクシングに捧げ、命を燃やし、何一つ悔いを残すことなく、最後はまっ白な灰になるまで燃え尽きてしまう。
まさに、あのラストシーンは、「まっ白な灰になるまで燃え尽きる」という表現の代名詞になるぐらいだ。
ここまで人を惹き付け、虜にしておいて、ジョーは自分だけ、まっ白に燃え尽きてしまうのだからずるい…
憧れと羨望の思いで、多くの人がジョーの生きザマに魅せられる。
ところで、誕生から50年以上もたった今でも、どうしてこんなにも「あしたのジョー」は多くの人に愛されるのか、
なぜ私が、こんなにも繰り返し、DVDの再生ボタンを押さずにいられなくなるのか、その理由を考えてみた。
人間は誰でも、熱中できる事や、命を燃やせることに一生を捧げ、何一つ悔いは無いと言える瞬間まで徹底的にやり切りたい、自分の人生を全うしたい、という欲求がある。
これはとても自然なことで、この世に生を受け、魂を宿した瞬間から、それこそが私たちの生きる目的のようなものだからだ。
しかし、実際にはアニメのように「完全燃焼」で人生を終えることは、難しく思える人がほとんどだろう。
そうは簡単にいかない日常の仕事や家庭という現実が目の前に立ちはだかる。
周囲の人との関わりや、社会のルールの中で、どうしても色々なものを我慢したり、理性でコントロールして行かなければ、生きて行くことは難しい。
逆の言い方をすれば、そういう苦しい経験をもさせてもらえるからこそ、喜びや感動を味わうことが出来、生きることを楽しむことが出来る。
光の中にいたら、自分が光であることが自覚できないのと同じで、影があるからこそ光を自覚出来るという、パラドックスがそこに存在する。
だが人は、理屈では「苦しみの中にこそ学びがある」と知りながら、やはり大好きなことだけに熱中して燃え尽きる、「あしたのジョー」のような生き方に憧れ、共感を持つ。
「そんな生き方は叶わない」と知っているからこそ、強烈に惹かれるのだ。
「あしたのジョー」のビデオの再生ボタンを繰り返し押さずにはいられない私の行為は、まさに「依存」そのものである。
少し前、コラムの第1回のトピックに、「依存から自立へ」というテーマを掲げた。
(あの記事もそういえば、アニメが主題だった…笑)
ここで、「あれ?田久保さんは、もう依存はしないんじゃなかったの?」という疑問の声が聞こえてきそうだ。
誤解を恐れず、私は申し上げたい。
私は、今でも依存だらけである。
ただしこの依存は、何か特別な人やものに人生を預け、自立を放棄してそこに完全に寄りかかることとは、本質的に違う。
その違いは、依存の対象物を、心の中だけで良いので、一度自分から取り払ってみれば分かる。
確かにその瞬間は、とても寂しい思いをしたり、生き方や生活スタイルを変更せざるを得なくなったり、自分らしさを取り戻すまでに、どこにもギアが噛み合ないような、ニュートラルな状態になって精神的苦痛も味わうかもしれない。
しかし、コラムの第1回に出て来た岡ひろみのように、「生きること」そのものに意味を見いだせなくなるようなことはない。
今回のテーマが、コラムの第1回の「依存」の話となぜ矛盾しないのかと言えば、依存の「質」の問題だからなのだ。