❖「『い』を足す決意」が、未来を鮮やかに素敵にする❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2022年1月1日)
(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)
◆「『い』を足す決意」が、未来を鮮やかに素敵にする◆
「自分が何をしたか」を考えているとき、私の頭も心も魂も「過去」に囚われているだろう。「自分が何をした『い』か」を考えているとき、私の頭も心も魂も「未来」と繋がっているだろう。過去に囚われているとき、時間の流れで言えば「正の方向」に背中を向けている状態であり、これから訪れる未来を見ようとしていない。
未来は字の如く、「未だに来ていない」ものであり、それが喜ばしいものとは限らない。誰しも喜ばしいものであってほしいという期待を持つが、同時に不安もある。だから不安の方が膨らんでしまうと怖くなり、未来から目を背けたくなる。だから、確定している事実であり、安心して見つめられる過去の自分の功績の方を見つめてしまう気持ちはよく分かる。
しかし「過去」を見つめることは、時間の流れで言えば「負の方向」に向かうことになる。負の方向にある自分の功績は安定している。だから安心して見つめられる。しかし「過去」の功績は風化・劣化することがあっても、そこから大きくなることはない。それに対して、未来において自分が取り組もうとしていることはどうなるか分からない。だから安定していないし、それを考えると不安になる。だが、成功すればどこまでも大きなものになる無限の可能性を持っている。未来には自分の成長の可能性もたくさんある。
「過去」の功績も記憶も色褪せるものだが、「未来」の着色はこれからで、どんな素敵な色にするかは自分次第である。「未来」は新鮮な絵の具によって色づけられることが運命づけられている。それは「過去」が時間とともに朽ちてしまうのと対照的である。
また「過去」の功績は、「現在」を生きている私の手からは、もはや離れたものである。だから、それに固執すれば、私は「過去の住人」になってしまう。それどころか「過去の囚人」として、そこから抜け出せなくなるかもしれない。
功績もかつては「未来」から訪れ、この世に新しく創造されたものだったのは事実である。しかし、ひとたび功績として形になれば、再び「未来」に戻ることはない。かつて「未来」だったものは「過去」にしか成り得ない。「未来」は「未来」のままではいられない。必ず「過去」になる。そして色褪せ、風化・劣化する。そんな風化・劣化した「かつての未来」にしがみつくならば、その時点で私は「過去の囚人」になっているだろう。
「未来」は常に、まだ訪れていない新たな時間に引き継がれる。だから、ある時点の「未来」にこだわるべきではないのである。「未来」と結びつくキーワードを上げてみると、Frontier、Dream、Chance、Challenge、Futureなど色々ある。いずれもワクワクするキーワードである。しかし同時にドキドキも関わっている。ドキドキはプラスとマイナスの両面の捉え方ができる感情であり、そこから「未来」がリスクを伴っていることが分かる。そのようなリスクを受け入れ、「命を懸ける覚悟をもち、全力で取り組む」からこそ、鮮やかで素敵な色をした「未来」を手にすることができるのである。
今日のコラムの最初に述べた「自分が何をしたか」と「自分が何をした『い』か」との違いは何だろうか。違いは後者に『い』が加えられていることである。つまり「『い』足す」である。読み方は「いたす」であるが、これと同じ読み方をする言葉に「致す」がある。この「致す」には「命を差し出す」とか「全力で事を行う」という意味がある。
すなわち「『致す』の決意」で「自分が何をした『い』か」を考えれば、鮮やかで素敵な色をした「未来」を手にすることができるのである。2022年は「過去」の功績に囚われず、「『致す』の決意」で「未来」に向かっていきたい。
それでは今年もよろしくお願いいたします。