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【小説】 遠くの海の、まんなかで 【ショートショート】

 僕の住む小さな港町には、他の漁場にはいない「キン師」をやっているおんつぁんがいる。おんつぁんというのは僕らの地方の訛り言葉で「おじちゃん」という意味だけど、キン師の「キン」がどういう意味なのかは僕も大人の漁師達も分かってはいない。おんつぁんのお父さんの代からおんつぁん一家はキン師で、他になる人も、なろうとする人もいない。なろうと思っても、多分なれない。
 他の船が空で出て行って載せて帰って来るのに対して、おんつぁんは載せて空で帰って来る。それがキン師の仕事だし、漁師の大人達はみんなそれを分かっているから敢えて触れようとはしない。
 昨日もご飯を食べてる最中に、その話が出た。漁師のお父さんは夜九時頃になると起きて来るから、その時間から寝る準備を始める僕とは入れ違いになる。漁へ出る為の着替えをしながら、お父さんが僕を嬉しそうに眺めている。

「宏、おまえ将来は漁師になんだべか?」 
「将来っても、俺ぁまだ中一だっちゃ。わかんねぇ」
「そうかいそうかい。漁師はいーどぉ、生涯現役だ。橋島のジイなんか七十越えてもバリバリだぁ」
「おんつぁんは? もっといってるんでねぇの?」
「……おんつぁんはオメ、ありゃあ漁師でねぇべっちゃ」
「でも、海にはなきゃあいけねぇ仕事なんでねぇの?」
「……まぁ、そうだな。うん、オメは難しいことさ考えねぇで、ビッグな夢を目指せ! ロックンローラーにでもなるか? がっはははは!」

 そう笑いながら、お父さんは家を出て行った。
 おんつぁんの船出は夜九時頃が多い。週に一、二回、港に黒い車がやって来るとおんつぁんの船が出るんだと、港で育った人達ならみんな知っている。
 車から下ろす「サカナ」は一本、多い時で三本。いつも港に人気のない時間に、おんつぁんは船の準備をする。お父さんが家を出て行った後、僕はお母さんに「自動販売機に行ってくる」と言っておんつぁんが船を出す様子をこっそり眺めてる。港のみんなが「あまり見るんじゃねぇ」と言うもんだから、つい見たくなってしまう。物陰に隠れながら見ていると、おんつぁんがサカナに銛を刺していた。ガスが出て浮かばないようにする為だろう。耳を澄ますと、運転手の男の人と話しているのが聞こえてくる。

「ったくよ、よせば良いのに記者に唆されたんだってよ。銀座で大人しくホステスやってりゃこんな目に遭わなかっただろうに、相手が悪過ぎたよ」

 男の人の言葉に、おんつぁんはニコニコと笑いながら「はぁ」と返事のような、そうでもないような声を漏らす。

「まぁ、俺ぁ詳しいことは分からねぇけども、いつも通りやりますんで」
「頼むよぉ? 明日も行くの? これ」

 男の人が右手でハンドルを回す仕草をすると、おんつぁんは「好きなもんで」と笑って答える。
 町でたった一つの小さなパチンコ屋に行くと、大抵おんつぁんがいる。遊ぶ場所なんてないから僕も時々用もなくパチンコ屋に入るけど、おんつぁんはいつもニコニコ笑いながらパチンコを打っていて、表情だけじゃ勝ってるのか負けてるのかもわからない。
 車が港を去ると、おんつぁんも船にエンジンを掛けて港を離れて行く。帰って来る頃にサカナは居なくなっていて、何日か経てばまた新しいサカナが運ばれて来る。警察も、官僚も、政治家も、みんなここを使っていると何処か誇らしげに市場のおっちゃんが言っていたのを聞いたことがある。他の港町じゃ出来ないことが、この港では行われている。
 それから毎晩のように船が出るのを覗き見していたある晩に、僕は運転手の男の人に目をつけられてしまったようだった。おんつぁんと話していた男の人が、僕を指差しながらおんつぁんに耳打ちをしていた。おんつぁんはすぐに首と手を使っていやいやいやぁとか言っていたけど、男の人は腕を組んだままおんつぁんに何かを詰め寄っていた。これはマズいと思って慌てて逃げたけど、その夜はドキドキして中々眠れなかった。

「友達ん所、泊まるっで言えばいいがら。な?」

 学校帰り、パチンコ屋の前を通ると僕を待っていたと言いながらおんつぁんがそんなことを言った。ずっと見ていたことに気付いていて、今夜キン師の仕事を見せてくれるのだと言う。
 僕はお父さんとお母さんに友達のツネの家に泊まると嘘をついて、夜の九時過ぎに家を出た。お父さんが「送ってくど」と言うもんだから、断るのに少し大変だった。
 港に着くと、僕はおんつぁんの船に近付いた。おんつぁんが手招きして、運転手の男の人と初めて喋った。

「おまえ、この辺のガキか?」
「は、はい。佐野、宏です」
「ほぉー……親も漁師か?」
「はい」
「兄弟は?」
「いません」

 そう答えると、男の人はおんつぁんに小声で何か言って怖い顔をしながら車に乗って、すぐに港を出て行った。
 今日のサカナはかなり大きくて、銛で突くと腸がべろべろと腹からはみ出して来た。おんつぁんは適当な場所で腸を切ると、
 
「魚の餌だ」

 と笑いながら腸を蹴っ飛ばして海へ落とした。
 サカナを二人がかりで乗せて、港を出発する。一体何処まで行くのか僕には想像が出来なかったけど、振り返ると港の灯りがぐんぐんと小さくなって行った。
 それから何時間も掛けて真っ暗な海を進んで行くと、おんつぁんは船に積まれた機械を覗きながら

「うしっ!」

 と気合の入った声を出した。錘と、それをサカナに巻きつける手順、そして結び方をおんつぁんは僕に丁寧に教えてくれた。日本でただ一つ、ここだけでしかやっていない事だから秘密の手順なんだと言っていた。
 僕も手伝ってサカナを海の底へ落とすと、おんつぁんは煙草に火を点けて、ビールケースを逆さまにした椅子に座る僕の隣に腰掛けた。
 おんつぁんは僕の顔をじっと眺めながら、何か言おうとしているようだった。星も出ていない真っ暗な海の向こうが、少しずつオレンジ色に染まって行く。ぼんやりと、暗い海の上へ小さな朝がやって来る。
 それを眺めながらもうすぐ夏休みだなぁと思っていると、おんつぁんは突然「グッ」と鼻を鳴らして首を横にぶんぶん振り始めた。

「おんつぁん、どうしたんだいん?」
「んん……なんでもねぇっちゃ。あぁー……いやぁ、うん。宏、オメ将来は何になりでぇ?」
「将来? 俺ぁ……漁師がなぁ」
「そうか。この船、くれてやる」
「何言ってんだぁ、まさか嘘だっぺや?」
「本当だ。まぁ、すぐ分がっから」

 おんつぁんは皺だらけの顔でニコニコと微笑んで、タバコを海にぽいと捨ててからエンジンを掛けた。
 港に着く頃にはちょうど船が続々と入港し始めていて、僕はお父さんの船がないかとヒヤヒヤした。
 港に着くと、おんつぁんはヨレヨレの帽子を脱いで深々と海に向かってお辞儀した。ちょっとだけ、泣いているようにも見えた。 
 僕も一緒になって頭を下げると、

「オメはいいんだっちゃ」

 と笑って、おんつぁんは僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
 キン師の仕事を見たのはその一回切りで、その次の日からおんつぁんは行方不明になった。  
 パチンコ屋にも、飲み屋にも、市場にも、身寄りのないおんつぁんの姿は何処にもなかった。
 飼猫の茶トラの猫と、おんつぁんの船だけが港に残されていた。
 大人達はみんな、何も言わなかった。
 同じように子供達もみんな、誰もこの話題を口にしようとはしなかった。
 そうしてすぐに、夏休みに入った。  
 夜になってから覗きに行っても、黒い車もおんつぁんも当然だけど姿を現さなくなった。
 たった一度切り乗った船だけが、ぽつんと夜の港に浮かんでいた。

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大枝 岳志
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