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僕と親父の二十日間

八月二十日の午前二時、親父が死んだ。
享年六十九歳。最期の十年間は間質性肺炎やステロイド薬との苦しみの中にあった。
先の冬に入院し、いよいよ危ないと言われていた。それまで何度も「危ない」と言われ続けていた親父の生命力は並々ならぬものがあり、ベッドの上で寝たきりとなってからもその瘦せ細った身体でいつも冗談交じりに、時々本気で、宮城訛りの抜けない言葉で悪態を吐いていた。

親父から最後に連絡をもらったのが七月三十一日の晩だった。
何事かと思って出てみると、電話から聞こえて来たのは母親の声だった。

「どうしたん?」
「ジイさんがたけしに電話するって言うから掛けたんだけど、息が続かなくて私に代わったんだよ。まったく」
「そうなんだ。親父、体調大丈夫なん?」
「今聞いてみるよ。おいジイさん、大丈夫か? 「大丈夫じゃねぇ」だって。たけし、コロナ治ったんか? って言ってるよ」
「治ってはいるけど、後遺症がまだ続いてる」
「ジイさんが「一杯呑んで早く寝ろ」だってよ」
「もう寝るとこだよ」

六月末、僕はコロナに初めて罹患した。それまでは親父の様子を見に週に一度、実家へ行ったり母親の代わりに買い物へ行ったりしていたのだが、それも一時ストップしていた。万が一でも感染させたら大変なことになるし、喉のいがらっぽさに加え、匂いも味も分からない後遺症が長く続いていた(今も若干続いている)。
誰よりも口下手で不器用なうちの親父はこうしてたまに、それこそ入院中とかでも僕に気まぐれで電話を寄越すことがあった。
話す内容は実に他愛無いもので、何してんだー? とか、飯食ったかー? とか。けれど電話は他の兄弟の所には掛かって来なくて、いつも僕のところにだけ掛かって来ていた。

親父が「僕の親父」になったのは僕が小学四年生の頃のことだった。
両親が離婚し、ボロボロの貸家に越してすぐに知らないおじさんが僕らの元へやって来て、うちへ来いと言って母親と僕ら兄妹四人を引き取ったのだ。
大人になってから考えてみるとそれが如何に大変な覚悟が要るか、よく分かる。僕には到底出来ないことだ。

当時は突然の再婚に戸惑いもあり、しかも口下手なおじさんだったので素直に「お父さん」と呼ぶことは出来なかったし、結局「お父さん」と呼ぶことは一度もなかった。
その代わり、小学校四年生の僕は親父のことを「父っつぁん」という呼ぶことにした。大工の棟梁だし、その呼び方がなんとなくしっくり来たのだ。
そうやって呼ぶと兄も僕と同じように「父っつぁん」と呼ぶようになった。
父っつぁんと呼ぶと、親父はいつも「おう」と腕組みをしたままぶっきらぼうに返事をしてくれていた。

大人になるにつれて兄や妹達は結婚し、孫が出来た。そうなると孫達からの呼び名は「ジイ」になり、母親からは「ジイさん」と呼ばれ、僕は自然と「親父」と呼ぶようになった。
親父が間質性肺炎になってから、僕はしばらくの間実家に帰ることになった。

その頃はもう夫婦二人暮らしだったので、親子三人での生活が長く続いた。

僕だけがいつまでも結婚する様子はないし、フラフラした挙句不貞を起こしたりもしたので親父はいつまでも僕のことを心配してくれていたんだと思う。
迷惑もたくさん掛けた。
本当にダメな息子ですいません、という気持ちがいつもあった。

コロナ禍になり、その頃通勤電車で勤めていた僕は医師から引越しを強く勧められ、実家を離れることにした。
父の容態はその頃いくらか落ち着きを見せており、医師もレントゲン写真を見ながら

「理由は分からないんですけど、何故か良くなってます」

と首を傾げていた。親父の謎の生命力は底知れぬほどで、再生不可と言われている間質性肺炎で痛んだ肺を一時回復させていたのだった。

体調を崩してからも一人親方の親父の所には仕事の依頼が舞い込んで来ていて、ゆっくりと身体を動かしながら現場へ行く姿を、僕は家を出るその日の朝まで見届けていた。現場では最早身体を動かすことはなく、技術を教えたり指示を出したり、そんな働き方をしていたらしかった。

僕が家を出てから半年後に仕事を引退し、自慢の大工道具の大半を大工仲間に引き取ってもらった。買い取ってもらったその日、

「なぁんだ、あの〇〇の野郎。レーザーもあったんだ。なのに全部で七万だっちゃ。ふざけてんだ」

と、底値の買い取り額に悪態を吐きまくっていた。

それからしばらくして車椅子に乗るようになった。トイレへ行くのにも一苦労で、身体を起こすのにも息を切らすようになってしまったのだ。
介護用の部屋のある集合住宅に引越しをして、特にすることもなく母と二人で過ごす毎日。
たった一つの楽しみは少し離れたローソンへ母の運転で向かい、馴染の店員さんと話をして駐車場でコーヒーを飲むことなんだと言っていた。
そんな小さな楽しみも、今年の春先に介護用ベッドが部屋にやって来て、車を廃車にしてからは無くなった。

病院で最期を迎えるか否か、医師に迫られた母は自宅で面倒を見ると言い切った。訪問医とヘルパーの助けを借りることにはなったものの、一人で二十四時間親父の面倒を見続けるのは相当な覚悟が必要だよ、と言われていた。
それでも父も病院へ入る気はないと常々言っていたので、在宅看護という道を選ぶことになった。

僕が六月に訪れた時には自力で用を足すことが出来ず、ベッドの上で尿瓶を使って排泄をするようになっていた。大きい便の方は父を車椅子に乗せ、トイレへ運ぶ。拭くのはもちろん、母親だった。
それもしばらくすると困難になり、ポータブルトイレが実家にやって来た。
父は頑なに部屋の中で用を足すことを拒み、オムツにすることになった。使うこともなさそうなポータブルトイレを、僕と母親と父親で眺めながらこんな冗談を言い合った。

「車もうないんだからさ、これにタイヤ付けて買い物行けばいいじゃん」
「んだ。移動式だ。おっかぁ、間違ってこれで顔洗ったりしてな」
「私もボケてるからここで皿洗ったりしてね。あっ、これで金魚でも飼おうかな」
「たけし、カインズホームで金魚買いに行って来いっちゃ。便所で育てるべぇ」

なんてバカな話しで息を切らしながら、親父は笑っていた。引っ越す前は親子三人でこんなバカ話しをよくしていたなぁと思い出しながらも、その直後に僕がコロナに罹り、結局これが最後の親子三人でのバカ話しとなってしまった。

八月四日の仕事中に妹から連絡が入った。いよいよ覚悟を決めて下さいと医師が言っているとのことで、それからすぐ訪問の看護士から僕宛に電話が入った。

「あと二、三日。長くても一週間と思って下さい」

兄弟ですぐに集まり、実家へ向かった。医師からも説明を受け、本当にその時が来るんだと実感した。
翌朝には親父の兄と弟も駆け付けた。親父は一日の大半を眠ったまま過ごしていたけれど、兄弟が駆け付けた際には楽しそうに昔話をして過ごしていた。

「それは角の店じゃねぇっちゃ、違うんだぁ。カズオが生まれた頃にはなかったっちゃ。何言ってんだ、この」

と、兄に悪態を吐く姿は相変わらずのままだった。

寝ずの番とは良く言うが、その日からは眠れずの番が始まった。
昼は寝っぱなしの親父が夜になると起き出すのだ。せん妄も始まっていたので大声で意味不明なことを喚き始めたと思いきや、突然呼ばれることもある。せん妄なのか、それともオムツを変えて欲しいのか、水が欲しいのか、虚実綯い交ぜの言葉と、いつ止まってしまうかも分からない寝息を聞き続ける内に朝はすぐにやって来た。
仕事をしてから実家へ向かい、実家で夜を過ごして再び自宅へ帰り、夜になってから再び実家へ向かう生活が続いた。

妹が孫達を連れてやって来ていたある晩、親父が僕を横目で眺めながら呟いた。

「ビール、飲むべ」

水も食事もほとんど摂らなくなった親父がビールを飲みたいと言ったもんだから、僕は急いで買い出しへ出た。その時にようやく「カイジビール」のサイズ感の意味を理解したし、ありがたかった。

お酒も飲めなくなっていたから、ビールを渡してグビッとやる姿を見れるとは思っていなかったし、酒の力は凄い! と改めて思ったりもした。
「ビールうまいか?」と母親が訊ねると、親父は真顔のまま「うん。ビールの味がする」と素っ気ない返事をした。つまり、うまいということだ。

その翌日にはビールに加え、塩辛が食いてぇとリクエストまでもらった。親父は気持ちだけでもすっかり呑兵衛に戻っていた。
僕もビールを開け、ベッド横に座って塩辛とビールで乾杯した。
ビールを二口、塩辛を一口食べた親父は満足そうにそして珍しく素直に「うまい」と呟くと、すぐに寝息を立て始めた。

母親は耳が遠く、夜中に親父が「おっかぁ!」と何度呼んでもすぐには起きなかった。代わりに僕が起きて母親を起こしたり、水が欲しい、身体の向きを変えてくれ、なんて場合にはそのまま僕が親父の要求を聞く時間が増えた。
母親も疲れ切っていたのだろうが、中々起きない母親に親父も苛立っていたのだろう。

「靴箱から紐を持って来い。それでな、俺の手首と、おっかぁの首に繋げろ。それなら嫌でも起きるべ」

という提案を真顔でして来たので、起きない母親に対して相当なモンがあったのだろう。
「先に殺してどうすんだよ」と僕が返すと、親父は「遅かれ早かれだ」とこれまた悪態を吐いた。
そんな親父だったが、母親が夜中に起きてオムツを変えたりする時になると「おっかぁ、ごめんな」と謝っている姿を何度か目にした。
心の中ではいつも面倒を掛けることをすまないと思っていたのだろう。
僕も一度、身体の姿勢を直していると

「ごめんなぁ」

と謝られたもんだから、よほど心が弱っているのかなぁと感じた。
何があっても俺は悪くねぇ! を地で通しまくっていたし、何よりもプライドの高い人だったからそんなことを言われるとは思いもしなかった。
どうしようと思った。いいよ、と言ったら親父の謝罪を飲むことになる。けれど、何言ってんだよ、というのも違う気がする。
僕は親父の身体の向きを変え終わると、聞かなかったフリをすることにした。親父もそれを分かってくれたのだろうか、向きを変え終わると

「うん、バッチグーグー。よし」

と、何もなかったかのように応えてくれた。
相変わらず素直になれない自分の不器用さに情けなくなったし、まだまだ子供なんだと、痛感した。

家族の出入りが頻繁になるとさすがに親父も悟るのだろう。ナニクソ根性は人の何倍もあった親父はその生命力で「長くて一週間」を軽々と越えて来た。
遠くの兄が再びやって来ると、別れ際に

「ここからな、生き返るぞ」

と伝えたらしい。

水は少量飲んではいるが八月四日以降食べ物はほとんど摂取していなかった。終末期になると出されがちな栄養ドリンクのインシュアは「あんなクソマズイもん飲めねぇ」と拒否、摂取するのは一日にスプーン二~三杯のかき氷やフルーツと、カイジサイズの缶ビールふた口。それが親父の栄養源だった。
せん妄が出ても頭はしっかりとしていて、スポーツ新聞を読みながら

「村上は何億ももらってて、今さら打ったって仕方ねぇんだ」

と文句を言う場面もあった。

八月の十八日になると錠剤を吐くようになり、代わりにせん妄が少し落ち着きを見せた。けれど昼頃から脈が取れなくなり、血圧も一気に下がった。
いよいよかもしれない。そんな言葉は何度も言われて来た。その日も、訪問の看護士から「いよいよかもしれない」。そう言われた。
何度も何度もそれまで聞いて来た言葉だったけれど、今回のいよいよかもしれないは本当なのだろうと実感した。
寝息を立てているが、酸素を入れても呼吸が乱れ始めていた。足はすっかり痩せ細り、自力で動かすことも出来なくなっていた。けれど武骨な職人の手はそのままで、指だけ見たらまだまだ家の一戸は作れそうな気もしてしまう。

あの足でどんな景色を見て来たのだろう。あの手でどれだけの家を作って来たのだろう。
親子で手をつなぐ、なんてことは全くしない人だった。家族でどこかへ出かけても、いつも一人でさっさと先を歩いて行ってしまう自己中心的な性格だった。
小さな頃に毎週のように連れて行ってもらっていた寂れた小さな遊園地で、いつも大きな背中を追い掛けていたことを思い出した。
見えないくらい先へ行く癖に、母親や妹達からブーブー文句を言われるのが分かっている癖に、いつも先へ先へと急いでしまう。けれど、見えるか見えないくらい先で必ず立ち止っている親父の姿を、僕はいつも遠くから見つけていた。

一番下の妹とベッドで眠る親父を眺めながら夜を過ごしていた。
本当に下らないどうでも良い話をしている内に夜は深くなっていく。すぐ隣の部屋では上の妹夫婦や妹達の孫、そしてすぐ横で母親が鼾を掻いて眠りこけていた。交代制の看護だったけれど、みんな疲れていた。
その日の夕方、上の妹がこんなことを親父に言っていた。

「明日私の誕生日だからさ、なんか頂戴」

親父は薄目を開けると

「何もやんね」

と悪態を吐く。妹は「なんでー。私の誕生日だよ?」食い下がる。
親父は

「じゃあ、おめでとう」

と全く祝う気のない言葉を面倒臭そうに漏らし、眠りに就いていた。

夜の九時過ぎから呼吸による腹部の上下運動が大きくなっていた。
下の妹と二人で喋っていると、親父が呻き出した。水が欲しいのか訊ねてみると、力強く頷いた。そのまま飲ませると誤嚥になるので、柄のついた小さなスポンジに水を含ませて口へ運ぶ。
その日はほとんど水を摂ってなかったし、もう摂れるような状態ではなかった。それでも口へ運んだスポンジにこれでもか、という勢いで親父は吸い付いた。二度、三度と吸い付いたスポンジの水分が親父の喉を通って行くのが分かった。「まだ飲む?」そう訊ねると、親父は目を閉じたまま小さく首を横に振った。そして、再び大きな寝息を立て始めた。

「なんの夢見てるんだろうね」

下の妹がそう言うので、昔の夢でも見てるんじゃないかと答えた。せん妄でも昔の出来事を思い出しているようで、当時一緒に働いていた大工の名前を何度も呼んだり、コンパネをどこどこへ運べ、と指示を出したりもしていた。

数日前、下の妹が看護していた日中に親父が突然起き出してこう言ったのだそうだ。

「仕事するぞ。おい、鉛筆とノート持って来い」

妹は気が触れたのかと心配したらしいが、どうやら頭はしっかりとしているようだった。
聞いてみると以前からベッド上テーブルのサイズ感が気に食わなかったらしく、自分で作ると言い出して完成図を描き始めたのだそうだ。 

後から見せてもらったその完成図は子供の落書きのような線の弱さだったけれど、どんな形の物に仕上げたいのかはハッキリと分かる物だった。
最後の最後まで仕事がしたかったのだろうし、多少身体が動くのであればそうさせたかった。僕が代わりに作るなんて言ったら本気で怒りそうだし、本人が作るのが一番なのだろう。そんなことをいくら願っても、叶わないことは分かっているけれど。

昔の夢でも見てるんだろうね。本当仕事好きだよねぇなんて話しをしていたら、親父の呼吸がハッキリと変わった。異変に気付いてすぐに母親と上の妹夫婦を叩き起こした。
胸回り全体を使って喘ぐように呼吸を始めたので、オキシメーターで脈の様子だけ見てみた。乱れた山と山の間に線が出来て始めている。
家族に囲まれながら、声を掛けられながら、親父の呼吸は弱くなって行く。
止まった、と思ったらスゥっと息を吹き返した。最後のナニクソ根性だ。
しっかりと見届けなきゃいけない。そう思いながら、しっかりと最期の瞬間を受け入れることにした。
家族が声を掛ける最中、息を吹き返した親父だったが、最期は本当に静かにその呼吸を止めた。

長い間、本当に辛かっただろう。ステロイドでボロボロに変わってしまった皮膚を擦りながら、温泉好きだった親父は畜生と言っていた。

「これではもう風呂に入られねぇっちゃ」

家族風呂があるよ、と言ったが「そんなのは味気ねぇ」と見事に突っぱねられた。

苦しみながら逝くことはなく、静かに最期を迎えた姿を後にして、訪問医と看護士に電話を掛けた。
医師がやって来るのを外で待っている間、煙草を吸った。不思議と悲しい気持ちにはならなかった。その代わり、お疲れさまという何とも偉そうな言葉が真っ先に頭に浮かんだ。血は繋がっていないけれど、こういう偉そうな考えをするのは親父譲りなんだろうなぁとぼんやり思ったりもした。

医師達を待っているとバンが一台飛び込んで来て、下りて来た男性を見ると丸坊主のガタイの良いオッサンだった。こんな医師もいたっけな? と思いながら声を掛けた。

「ありがとうございます。あの、部屋はこっちです」

そう言うと、丸坊主はキョトンとした表情になった。

「あっ! 俺は新聞配達っす! 多分違いますよ! がはははは!」

深夜に響き渡る大声は部屋の中まで聞こえていたらしく、それを聞いた妹夫妻は

「たけし君……きっと大声で泣いているんだね……」

と囁き合っていたらしかった。

その後(ちゃんと)やって来た看護士と医師によって死亡が伝えられ、それからあとはもう一気にバタバタと慌ただしくなった。
朝方に葬儀屋が帰り、朝焼の中煙草を買いにコンビニへ向かった。
表紙の写真はその時に撮った名前の分からない花だ。
歩きながら心は自然と落ち着いていたけれど、ふいにちょっとしたお茶目な親父の姿を思い出した。

親父がいつまでも居間で酒を飲んでいると、呆れた母親がキレることがあった。

「いつまでも寝ないで飲んでるけどねぇ、片付けるこっちの身にもなってよね! 明日の朝だってジイさんの弁当作らなきゃいけないっていうのに! そんな飲みたいならもう一生飲んでな!」

そう言って不貞腐れて台所へ向かう母親が部屋から出ると、親父は両方の人差し指を頭の上に立てて鬼のポーズを作り、べ~ッと舌を出して無言でお茶らけるのだ。
そして共犯として僕のグラスを指さし、「おう、飲め飲め」と言ってシーッと指を立てると犯行時のようなそそくさとした動きで焼酎を注ぐのだ。
不器用でぶっきらぼうな親父のそんな姿を思い出した瞬間に、何故かアホみたいに涙が溢れ出てしまった。なんでこんなことで。そう思ったけれど、涙は全然止まらなかった。
父の眠る家へ戻ると、ちょうどこんな話しをしていたのだと妹から聞かされた。

「今さぁ、お母さんがお父さんの文句超言ってたんだよ? 散々介護した私の気持ちを親父は知ってたのかってさぁ、そりゃ疲れるだろうけど、このタイミングで言うの早過ぎじゃない!?」

その話を聞いて、少し笑ってしまった。母親が死んだばかりの親父の文句を言っている間、外にいた僕はふと、あのお茶らけた親父のポーズを浮かべていたからだ。きっと「あー、うるせぇうるせぇ!」と思って僕に「べぇ〜っ」と伝えに来たのかもしれない。

葬儀も終わり、これからは納骨に向けて動いたり行政の手続きの残りがあったりと、やることは何かとまだまだある。
親父が亡くなったことは大きなことではあるけれど、生き方や死ぬことをその身体を持って沢山教わった気がしている。
だから僕は書こうと思って久しぶりに何を書こうかと悩んだが、今回の出来事を書くことにした。

読む人にとっては知らぬ他人の家族のことだ。言ってしまえばどうでもいいことかもしれない。
それでも誰かが生きたことを書くことで、誰かの今日や明日に繋がることもあるかもしれないとも思っている。

僕はこれからも物騒な作品を書き続けるだろうし、柔らかくてハートフルな作品なんてまっぴらごめんだ。
それは親父譲りの頑固な部分なんだろうと思いながら、これからも曲げることはないんだろうなぁなんて思っている。

最後に連絡をもらってからの二十日間、色々とあった。
これからはこそこそと舌を出さず、思いっきり旨い酒が飲めてることを祈るばかり。
バタバタと過ごしておりましたが、また何か書くと思うのでよろしくお願い致します。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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