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【小説】 アイアム・スリラー 【ショートショート】

 何不自由ない暮らしを四十半ばで形成した。以後、妻も子供達にも不自由などさせたことはない。長男はケンブリッジ大学を卒業後、有名光学メーカーへ満を持して入社。次男は弁護士の道へ。妻は週に三度もタンゴのレッスンに勤しんでおり、仲間達と気兼ねない交流を愉しんでいる。
 それなのに、私はベンツのハンドルを握りながら、苛立っている。
 どんな刺激も、どんな欲望も、叶えて来たつもりだ。
 それなのに、手元に残るのはいつも何かが過ぎ去っていく侘しい限りの感情ばかりで、所詮は上辺だけの付き合いが好きな大人達に囲まれているのだとかえって自覚してしまう始末。
 今年で六十八。私はこのまま何の生の実感もなく、人生が終わってしまうのだろうか。
 そう思っていた。

 事が大きく変わったのはつい最近の出来事である。きっかけは私が持つ些細な忘れ癖の所為であった。
 コンビニでお茶を買おうとペットボトルを棚から取っている最中に投資会社から連絡があった。電話に出たものの、私はうっかりお茶を手にしたまま表へ出ようとしていることに気が付いた。
 危ない危ない。そう思いつつ、胸の奥が微かに無数の剣山に刺されるような、ちくちく、そしてひりついた感覚を持っていることを知ったのである。

 今日も私はベンツを走らせ、隣町に在るスーパーマーケット「ファミーマート」へ向かった。
 特段何の取り得もなく、普遍的なスーパーであるがそれが良いのだ。 
 私の真の目的は、買い物ではない。
 スーパーへ入り、品物を物色する。それも、怪しげで不審な行動をするよう心掛けている。
 従業員の視線に敢えて晒されるような位置に立ち、ワークマンで購入した黒ジャンパーのポケットに手を入れたり出したり、そんなことを繰り返して見せる。

 店内に緊張が走るのを肌で感じると、自然と私の胸中に稲妻めいたものも走って行く。
 犯罪紛いのことを、この私がしている。これは、スリルだ。これこそ、圧倒的な生を感じる「スリル」なのだ。
 擦りをするから、スリル。なんちって。と、妻も息子達も辟易としていると言うオヤジギャグを心の中でかまし、魚肉ソーセージをポケットの中へそっと忍ばせる。
 そのまま店の出入り口に向かって歩き出すと、一歩足を踏み出すたびに心臓の音が大きくなるのを私は感じ始める。
 ドクン……ドクン……ドクン、ドクン、ドクンドクンドクンドクン!

 精肉コーナーの前を通り過ぎると、店長と思しき背の高い眼鏡男があからさまに私へ注意・警戒の目を向けながら、歩いて来る。
 すれ違いざまにそっと振り返ってみると……やはり私を睨んでいる。
 そうだ。それで良い。もっと私を見ろ。そして、もっと警戒しろ!
 私は危ない男だぞ。それも、とびっきりの悪だ。こんなワルを店内で見過ごして良いはずがないだろう?
 そう心の中で小声を漏らしながら、出入口へ向かう。
 あと五歩、四歩……三歩……背中のすぐ傍に、人の気配を感じる。あの店長らしき男だろう。
 これで五度目のスリル体験だ。今日も存分に、楽しませてもらったよ。

 あと二歩、そして一歩……背中の気配が大きくなった瞬間に、私は踵を返す。
 振り返ると、目の前には案の定あの眼鏡男が立っていた。
 私の肩でも叩こうとしていたのだろう。右手を中途半端に挙げた姿勢のまま、突然振り返った私に驚いて立ち尽くしている。
 あまりイジメてやるのは可哀想だから、私はポケットから食いもしない魚肉ソーセージを取り出して、敢えてこのような宣言をしてやるのだ。

「あー。要らないんだった、うっかりうっかり! 我が家は毎度、バーモントカリー。なんちって」

 毎度の晩御飯にバーモントカリーを食した覚えなどないが、私のギャグが決まった所で棚に魚肉ソーセージを戻しへ行く。
 こうして店内の人間を混乱させる愉快犯的な行動を、最近の私は「スリル」として楽しませてもらっているのだ。
 よーし、今日も万引きしなかったぞぅ!!
 店の外へ出て大あくびをかまし、青空を見上げる。
 今日も一日、気分良く何事もない平和を味わえそうだ。
 どうだろうか。試しにもう一軒、行ってみるというのは。

「いやいや、さすがにケンちゃん(私のことである)! それはハッスル過ぎるんじゃな~い!?」

 と、自分のジャンボリーな悪癖に突っ込みを入れつつ、まんざらでもない気分で駐車場へ向かう。
 リモコンキーでエンジンを始動させ、次はどの店をパニックに陥れてやろうかと考えていると、視線の先に違和感を覚えた。
 店の隅に停めておいた私のベンツは、私が馬鹿な真似をしている間に盗まれていたようである。
 愕然としたまま、私は駐車場へ立ち尽くしていた。
 警察に電話しようか……いや、そうしなければならないのか。
 ショックの余りパニックを起こし掛けた矢先、私は胸の奥底にある感覚を抱いた。
 無数の剣山がちくちくと、ひりひりと……。
 盗まれる「スリル」という言葉が浮かび上がると同時に、私は警察へ電話を掛けることなく、馴染のディーラーに二台目の見積を掛け合う電話を掛け始めていたのであった。

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