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鰤の大晦日の記憶
短編映画『鰤の大晦日』の物語を思いついた日のことを書こうと思います。
2012年の12月に入ったばかりのことだったと思います。その頃は昼間に、ある会社で働いていたのですが、朝、仕事中に、広島に住んでいた母から電話があり、叔父が亡くなったとの連絡がありました。私はその叔父に小学生の頃、正月に一度あったきりだったと思うので、顔はほぼ思いだすことができませんでした。でも、お年玉をもらったり、おぼろげですが優しい表情の記憶はうっすらありました。昼になって、新橋駅の近くまで歩き(新橋の近くに働いていた会社があったので)、定食か何かを食べたと思います。そして、なんとも言えないしんみりとした気持ちで、冬空の下、たくさんの看板が立ち並ぶ通りを歩いていました。すると、ふと通りの向こう側から、ある夫婦が魚箱を持って、ヨタヨタと少し疲れているような面持ちで、こちらへ歩いてくるイメージが目の前に浮かびました。
その頃、私はとにかく映画を作らなければと思っていました。以前からも、映画をとらなければいけないという思いを、いつも強迫観念のように持っていたのですが、なかなか、2006年の『風船の行方』以降、撮れないでいました。今思えば、『鰤の大晦日』を製作した後もそうですが、自分の理想を求め過ぎていたのだと思います、というと、少しはかっこよく聞こえますが、結局のところは、作った映画をおもしろくないと言われてしまうことが怖かったのだと思います。ですが、そういった中でも、年末をモチーフにした映画を撮れないかと模索していました。年の瀬の特に、12月28日頃から除夜の金が鳴るまでの、何か新年への追い込みのような感じが漂い、透き通ったような静けさを感じる、日本の街の雰囲気が好きでした。日本の街といっても、広島と東京でしか、その雰囲気を体験したことはないのですが。
毎年、12月の下旬頃、年末の街の雰囲気が好きで、わざわざ、人が多い新宿や渋谷の街を歩いていました。特に買うものはないのですが、デパートの地下の食品街を歩き、活気ある雑踏の中を歩くのが好きでした。新宿駅の付近を歩くと、寒い中、今夜は野宿をするだろう人たちが、ダンボールを敷いて座っていて、その様子を見て、彼らには、連絡できる家族はいるのだろうか、いや、いても、連絡できないのだろうかと思いをめぐらしたりもしました。自分が連絡のできる親がいることや、職があり、アパートの狭い部屋といえども寝ぐらのあることへ、安堵と同時に感謝を感じました。
また、こういうこともありました。私が30代の頃は、毎年、12月下旬や正月になると、実家の広島に帰省していました。ある年、お歳暮に大きな鰤を父と母が知人からもらいました。母も父も、普段から魚をさばいて調理することはしていなかったので、どうすればよいか困ったようです。私が、帰省して実家に帰ったときに、家の窓辺の気温が低い場所に、鰤が入った魚箱が置かれていました。私は、箱をあけて、中を覗くと立派な鰤が氷に冷やされ、横たわっていました。父と母は、何人かの知人に貰ってくれる人がいるか電話していたようです。
その次の日でしょうか、貰い手が見つかったということで、車で父と母が鰤を知人の家まで持っていきました。私は運ばなくていいということだったので、車で待っていて、助手席から見ていましたが、父と母が、笑って話をしながら、魚箱を知人に手渡していた光景を覚えています。
そんな記憶の断片が合わさり、『鰤の大晦日』の物語の原型が作られていきました。新橋の路上で、夫婦のイメージが浮かんだ後、その日すぐに走り書きのメモをノートに書き、その夜に脚本を書き始めました。そして、2週間後には、年末の風景を求めて、街を歩き、撮影し始めていました。