【創業note】急転直下~24年4月振り返り~
こんにちは。株式会社シンシア・ハートで代表取締役をしている堀内猛志(takenoko1220)です。
このnoteでは、起業を志してベンチャー企業に新卒入社したのに、結局17年も所属してしまった結果、38歳6か月にしてやっと起業した人間のヒューマンストーリーという名のポエムブログを書いています。
24年の4月が終了したので振り返りを行いたいと思います。4月は色々あり過ぎてメンタルがぐちゃぐちゃになったので心の整理もかねて書き殴ります。
異変~妻の緊急入院~
会った人には言っていましたが、年末に双子の妊娠がわかり、24年7月に双子の父になることが決まりました。
40歳にして初めての子どもが産まれるということで、父親の先輩たちからは「1人でも大変なのに双子とか想像できない」みたいな言葉をたくさんもらいましたが、不安よりも圧倒的に喜びの方が大きかったです。
さすがに私と妻だけで双子を育てるのは難しいと考え、妻の実家のある西宮での里帰り出産を決めました。双子の産前休暇は通常よりも長く14週間もあります。妻は有給休暇を含めて2月から休暇に入り、ちょっとずつ出産の準備を始めてくれていました。
僕も双子を持つ親の経験のある知り合いをあたり、準備しておくことなどを学んでいました。ちょうど社会復帰してベビーシッターを始めようと思っている友人にも出会い、産後からベビーシッターを依頼することも決まりました。
子どもが産まれるとわかったことで僕の視界や価値観も大きく変わりました。昔から教育への想いは強く、キャリアの後半は初等教育に全振りしようと決めていましたが、我が子が産まれるという出来事は、教育への解像度をより高めるトリガーになるには十分でした。父親の育児参加が社会的要請になっているものの、なかなかうまくいかない現状に対して、父親×人事の目線でコンテンツを作ってみようと思案を始めました。
幸い妻はつわりなどの体調変化が全くなく、ものすごく順調に出産というゴールに進んでいる気がしていました。
しかし、3月の半ば頃から妻はお腹の張りを訴え始めました。最初は私も妻も妊婦の一般的な痛みくらいに考えていましたが、頻度が高くなり、歩くのも辛いという状態が度々続くようになったので、その日は日曜日でしたが、急遽病院に行くことになりました。
桜がもうすぐ咲こうかという季節で、めちゃくちゃ天気の良い日でした。私も妻もタクシーから眺める公園を見ながら、診察後には少し公園によってのんびりコーヒーでも飲もうと能天気に話していたのを覚えています。
しかし、診察結果はびっくり、双子の1人の心拍が弱いタイミングがあり、万が一に備えて、このまま帰らずに入院して欲しいということでした。入院の準備も気持ちも全く持っていなかった私たち。妻はもう病院から出られなくなったので、私は急いで家に帰り、妻の入院の準備を行ってまた病院に向かいました。
あと5日後に実家に帰る準備をしている途中だったので、その日から夜は妻に電話で指示を受けながら、妻の荷物を段ボールに代わりに詰めて荷造りをする日々が続きました。妻の衣服、化粧品、日用品は数多く、説明を受けてもどれがどれかわからずに苦労しましたが、何とか荷造りを終え、さあ送ろうと思っていたタイミングで先生から連絡が来ました。
「切迫早産の可能性があるので退院はできなくなった。当院では未熟児の切迫早産の帝王切開はできないので、大学病院に転院して欲しい。」
転院~妻のストレスの増加~
その連絡はお客様であり友人であるメンバーとの会食5分前に入りました。あまり状況が確定する前に人に言いたくはなかったですが、状況を説明し、少しだけ食事と会話をした後、急いで病院に向かいました。
双子の1人の心拍が弱くなるタイミングがあることの原因はいまだにわからない。ただ、それが直らないは異常であり、早めに出産した方がいいかもしれない。お医者さんからそのように説明を受けましたが、その時点で双子はまだ26週目。産後無事に育つ確率を考えてももう少しお腹で育って欲しいと私も妻も思っていました。
とはいえ、緊急時に対応ができないのは困るので、次の日の朝に近くの大学病院に妻は転院することになりました。搬送は救急車で行われ、サイレンをガンガン鳴らしながら都内を走りました。落ち着いた状態で救急車に乗るのは初めてだったので何か悪い気がしました。
転院後も毎日調べてもらいましたが、子どもの心拍は戻りません。点滴の影響で妻の身体はドラえもんのようにむくみ始め、クリームパンのような手足で歩くこと、箸を握ることも辛くなった妻は泣き出すことが増えました。原因がわからないという不安は、僕よりもよほど妻の方が辛いでしょう。男の無力さを感じました。
天国からの地獄~子どもの死~
お医者さんも原因がわからないものの、妻がぱっと見は元気であることを考えると、たまたま子どもが自分で自分のへその緒を踏んでしまっているのではないかと言っていました。それであれば大きな問題はないので、妻の体調と子どもの心拍が落ち着いているタイミングで西宮に帰ることを勧めてくれていました。やはり当初の予定通り、実家で双子を育てた方がいい、というのはお医者さんも理解してくれていました。
入院から2週間後、これはいける!というタイミングが来たようで、明日、西宮に行ってもらえないかと病院から連絡が入りました。妻と子どものタイミングもそうですが、受け入れ先の兵庫の病院にも受け入れ日の都合があります。いつも急な連絡だなと思いながらも無事に帰れそうなことに安堵し、明日の準備を始めました。
移動予定の日はちょうど28週目に入るところでした。当日の早朝に妻から連絡が来て、今日は朝からお腹の張りがない、すごく気分が良いとのことでした。それを聞いてものすごく安心し、午前中のMTGを終え、さあ病院に行こうかと思っているタイミングで妻から電話が鳴りました。
「1人の心拍が止まったって。。」
妻が泣きながら報告してくれたとき、自分も頭の中が真っ白でした。妻を電話でなだめながら急いで準備し、病院に向かいました。泣きじゃくる妻を抱きしめながら、お医者さんからの話を聞きました。しかし、明確な原因はやはりわからないということで、不安は残りました。
赤ちゃんは22週以降になくなると流産ではなく死産になります。名前をつけ、死亡届を出し、葬儀をする必要があります。死んだことも受け入れられないまま、次のことを考えるのはすごく辛いですが、待っている暇はありません。僕らにはもう1人の子どもがいるからです。
ここでの選択は2つ。もう一人の子どもをすぐに帝王切開で取り出すか、通常通りの出産日まで待つか。双子は二卵性だったので、1人の子の死がもう1人の子に影響することはないとのことで、一旦、様子を見たいと回答しました。
しかし次の日、病院から連絡をもらいました。もう1人の子の心拍も下がり始めたのです。
出産~子どもの生と死に勇気と元気をもらう~
先生からの説明によると、妻のお腹の張りのタイミングと子どもの心拍の下がり方に相関が見られるということでした。つまり、妻のお腹の張りが治らないままだと、子どもに影響が大きいということです。
僕らはすでに1人を亡くしています。先生から緊急の帝王切開を提案されたときに躊躇する理由はありませんでした。幸いにも28週を過ぎています。28週を過ぎれば、その後健康に育つ確率はぐっと上がっています。書面にサインをした瞬間から手術の準備は始まりました。
妻はこれまで手術を経験したことがありません。人生でインフルエンザにかかったことも、虫歯になったこともありません。普段から風邪すらひかないし、コロナにはかかりましたがすぐに回復しました。そんな妻にとって手術は相当緊張するものだったので、予定手術よりも緊急手術になってよかったかもしれません。妻が緊張で眠れない、、とか言う暇もなくサインした1時間後に手術は始まりました。
僕は妻の部屋で待ちながら、よくあるドラマのシーンを考えていました。何時間も待ち、子どもと妻の産後の様子に涙するのだろうと思っていたところ、ものの30分で看護師さんからお声がかかりました。
「産まれたので来てください!」
え?もう?
急いでカメラの準備をして向かいました。子どもは1100グラム。相当小さいですが、ちゃんと動いていました。しかし、写真を数枚撮ったところで速攻でNICUに運ばれて行きました。感動している暇もなく、妻が出てくるのを待ちました。
妻を待っている間に、妻のお母さんが病院に駆けつけてくれました。帝王切開が決まったことを連絡した瞬間に、東京に向かって出発したそうです。
それから妻が戻ってきたのは3時間後、産後の方が時間が長くかかることが不安でしたが、戻ってきた妻は元気そうでほっとしました。
産まれてきた子にもっと会いたい思いもありましたが、それ以上に亡くなった子との残された時間を大事にしました。名前は双子の男の子用に考えているアイデアがありました。双子なので韻を踏むような響きを気にしていたのですが、亡くなったことで考え直すようになっていました。届出まで1週間、素敵な名前をつけて送ってあげたいと強く思っていました。
病院のご厚意で、しばらくは亡くなった子は妻の病室で一緒に過ごすことができました。NICUにも会いに行け、産まれたばかりの子の生へのパワー、亡くなった子の静かな死を同時に慈しみました。
もし、双子ではなく1人の子で、その子がなくなったとしたらもっと泣いていたのではないか、まるでもう1人いるから1人がなくなってもいいやとか、心のどこかで考えているのではないか、自分の中でそんな風に考えることが嫌で、ずっと亡くなった子のそばにいました。
棺桶の中に子どものためのものを入れて送ってあげられると聞いて、少しでもかわいい服を着せてあげたり、おもちゃや手紙を送ってあげたいと思いました。ただ、1人で赤ちゃん本舗に行き、選んでいる自分の周りには元気そうな子どもがたくさんいて、初めて自分の子どもが亡くなったことを実感し始めました。あの子には「あったはずの未来」がないのだなと。
そうやってうずくまる暇がなかった理由は2つです。ひとつはもう1人の子も未熟児であり、産後72時間は不安が続くこと、そして、妻の身体に異変があるかもしれないということです。幸いなことにもう1人の子は順調に育ち72時間を経過した今なお元気です。めちゃくちゃかわいいです!しかし、もうひとつの不安が現実のものになりました。
「奥さんは大腸がんです。肝臓と肺にも転移しステージⅣの段階で手術は不可能です。」
絶望~妻の病気の発覚~
妻はCROとして製薬会社から医薬品開発における臨床試験や製造販売後調査の仕事を行っています。特にガン検査を担当していたので、自分の症状について、先生が少し話を聞いて覚悟をしていたようです。一方で僕は楽観的に考えていました。
「私は最悪のことも考えているんだ」
病院からの病気の説明を受ける前日に妻と電話で話したときに妻からそう聞きましたが、僕は信じられませんでした。前述の通り、妻はいつも元気で、現状も見た目は元気です。仮にガンだったとしても初期だろう。手術で治るだろうと思っていました。
ただ、病院からの説明を受けるためにカンファレンスルームに通されたときに、10人以上のお医者さんやナース、関係者の方がずらりと並んでいるのを見て、これはタダゴトではないとようやく思いました。
「奥さんは大腸がんです。肝臓と肺にも転移しステージⅣの段階で手術は不可能です。」
お医者さんからの説明を受けてなお、信じられませんでした。妻は覚悟をしていたと言え、震えながら僕に手を差し出してきました。その手を握りながら質問しました。
「現状で手術ができない状態であることは理解しました。抗がん剤治療についても理解しました。夫の前で聞きづらいのですが、どれくらいもちますか?」
「10年はもたないでしょう。中央値は2年です。」
もはや、何を言っているのかもわからない状態になっていました。え?妻は死ぬの?なんで?地に足がついていない、力が入らない、頭が真っ白、、、本当にそんな感覚の中で握った妻の手だけが温かく、自分の気持ちを冷静に保ってくれました。
自分がしっかりしなきゃいけない、辛いのは妻だ。どんな言葉をかけてあげればいいのだろう。思考が停止して何も言えなくなっている僕に妻は泣きながら言いました。
「ごめんね。。」
これから~人は1人では生きれない~
一番辛いのは妻です。その妻から最初に出た言葉が「ごめん」でした。
なんで君が謝るの?一番辛いのは君やんか!
妻の言葉を聞いて僕の中でのダムが決壊し皆さんの前で大泣きしました。
僕がめちゃくちゃ泣いたことで妻も泣きましたが、逆に冷静にもなったようでした。多分、どんな言葉をかけるよりもまずは一緒に感情を共感することが大事なんですね。その後もいっぱい妻の前で泣きましたが、僕が泣くたびに妻は背筋を整えて、今後の話をできるようになっていった気がします。
その後、治療についての説明を受けました。妻は本当に詳しいので、セカンドオピニオンも受けずに、すぐに提案された治療法を承諾しました。
「この病院にも治験の話はたくさん来ていますよね。それでも先生が提案してくれたのが今回の方法なのであれば受け入れます。」
不安に思う僕に妻は言いました。
「これが一番一般的な方法なんだ。これがダメならまた次の方法を探せばいいよ。」
妻は不思議なくらい僕の気持ちがわかります。僕の気持ちを先に言葉にしてくれているようでした。
その日は病院の計らいで僕は妻の病室に泊まることができました。一緒に時間を過ごしながら、数週間ちゃんと話せなかった分のお話をたくさんしました。
妻は言いました。
「あなたは自分で自分のことを強いって思っているのが不安。溜めすぎないか不安。だから私の病気のことはあなたの周りに人にちゃんと話して欲しい。そして、弱音を吐いたり、不満や愚痴を言う場所をちゃんと作って欲しい。私だって強くない。多分、闘病中に不満や愚痴を言うと思うし、あなたに当たることもあると思う。だから、それを自分の中で溜め込まずに、あなたの大事なお友達に吐き出して、慰めてもらって欲しい。」
自分のことよりもいつも僕のことを考えてくれる妻に頭が上がりません。僕よりもはるかにガンについて詳しい妻に僕が言うことは何もありません。僕ができることは前向きに生きること。妻の前ではずっと笑顔でいること。そして、妻にずっと笑顔でいてもらうことです。僕は詳しいことはわからないけど、ガンだって細胞のひとつ。それであれば、少しでも脳からポジティブなホルモンを届けた方がいいはず。笑顔で、元気で、満足で、幸せを感じるようなホルモンをたくさん出していれば、妻のガン細胞をなくせるようなことができるはず。そう信じて、今の瞬間を今まで以上に大事に生きようと決めました。
1人の子を亡くし、妻はガンであることがわかりました。それでも良かったと思うことが2つあります。ひとつは、周りにいてくれる人への感謝です。
この数週間は仕事や勉強が手につかないことが多く、急な病院の呼び出しに対応するために、多くのMTGをリスケさせてもらい、仕事を止めてしまいました。それでも大きな問題が起きなかったのは、僕を助けてくれる人たちの存在です。育児に時間をとられることを想定して仕事をパートナーに頼りだしましたが、これほど仲間やシステムを必要としたことはありませんでした。本当に感謝です。
もうひとつは、自分にとって妻がどれくらい大事なのかが気づけたことです。起業してから1人で仕事をすることが増えました。前職は若くて元気なメンバーに囲まれ、いつも周りに人がいて、質問や相談を受けたりする日々だったので気づけなかったのですが、誰かに必要とされるってすごく大事なことなんですよね。それがなくなってから1人で仕事をしていると自分は誰にも必要とされていないんじゃないか、社会に価値を提供できていない人なんじゃないか、とか考える瞬間があり、不安になることもありました。そんな中でも家に帰ると無条件に僕を必要としてくれる妻の笑顔がありました。
妻はよく言ってくれていました。
「あなたが偉くなるとかどうでもいい。お金持ちにならなくてもいい。いつもそばにいて、すぐにお話ができる距離にいてくれたらいい。」
Visionに生きる僕は妻の言葉をいつも守りの姿勢の人だと決めつけていました。でも、この言葉に今はすごく救われています。そして、そうありたいと強く思いました。僕は僕の人生でやりたいことをやります。それは今までと変わらないですが、そのやりたいことの中に家族や仲間というチームと共にっていう気持ちが強く芽生えました。それを気づかせてくれた経験として前向きに今の状況を受け止めています。
妻が言う通り、どこかで吐き出したくなると思うので、その時は皆さんを頼らせてもらいます。本当にいつもありがとうございます。
This is me! It’s my life!
これからも前向きに楽しんで人生を味わい尽くします!
大事な子ども~紬希と陽翔~
実は、妻は気づくのがあと2か月遅れたら本当に絶望的で余命半年もあったかどうか、、という状態だったようです。つまり、子どもが予定通りに生まれてきた場合、妻は助からなかったということになります。
僕は、子どもたちが妻の身体の異常を教えてくれたと思えてなりません。なかなか気づけない鈍感な親たちに業を煮やし、心拍を下げ、サインを送ることで、文字通り命をかけて僕らに気づかせてくれたのでしょう。
そんな子どもに、これからも僕らの希を紬いで欲しいという想いを込めて「紬希(つむぎ)」と名付けました。先週、区役所に死亡届を提出し、妻と2人で葬儀を行いました。その日だけは病院から妻の外出許可を出してもらいました。悲しかったですが、久しぶりに妻と家で過ごせたのは、僕にとっても妻にとっても良い機会になりました。
今も元気に生きている子どもは「陽翔(はると)」と名付けました。人よりも小さく産まれた分、太陽のように明るく、空を飛ぶように大きく翔け上がって欲しいいう願いを込めました。
NICUにはスマホやものを持ち込めないのですが、葬儀の日に、4人での写真を撮らないかと提案くださった病院の配慮には感謝しかありません。
父ちゃん頑張るからなー!!!紬希を送った空に誓いました。
5月も宜しくお願いします!
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