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ポートレートが教えてくれること
2019年からポートレート撮影に関するワークショップの講師をさせて頂く機会があります。
私自身はポートレートを撮影する際、物怖じすることがありません。緊張するのですが撮れなくなるほどではなく、別のスイッチが入る感じです。口数は減りますが。
こういった気質は何に由来するのだろうかと考えると、やはり育った環境に行き着きます。
郷里・鳥取県の実家は、両親の実家へそれぞれ歩いて行ける距離にあり、親族も近くにたくさん住んでいました。
常に双方の祖父母や曾祖母、親族と頻繁に会い、様々な濃淡のあるコミュニケーションを交えて育ちました。色んな人と色んなコミュニケーションをしてきたのです。
後に野球を始めたことや、大学から社会人と郷里を離れ、また様々な人々との交流を持てた事も確かに大きいと思いますが、やはり幼少期の環境でしょうか。
強烈な個性のおっちゃんやおばちゃんと、いかにいい塩梅の距離を取り、ため口で話せるくらいに甘えられるか。そういう訓練を幼いながら繰り返していたと思います。
ポートレートを撮る際、私はあまり話さず、気の利いたことも言えません。作品撮りでも依頼仕事でもそれは変わりません。黙々と自分のなかのターゲットを目指して淡々とシャッターを押しています。
それでいいのかと自問することもありましたが、それしか出来ないと開き直り、それを自分のスタイルとしています。
強いて言えば、撮る前に出来る限りの話をし、自分を理解してもらおうと、信頼してもらおうと努めています。あとは自然に滲み出てしまう自分の人間性に委ねるしかありません。
幼少期に多大な影響を受けた親族の多くがすでに鬼籍に入りました。そのいくらかの人達を撮影出来たのも、豊かで幸せなことだったと思います。
フィルムで撮って、コンタクトシートを作り、眺めてプリントするコマを選び、暗室に入ってじっくりとそのネガと向き合い、そのひとを思い浮かべ、思い出を探りながら黙々とプリントする。豊穣な時間です。
話が方々に転びましたが、私は知らず知らずのうちに、たくさんの出会いに恵まれてきたのだと写真が改めて教えてくれています。
(冒頭の写真は2002年、香港で撮影)