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わたしに向けられた、他者の眼差し


最近、20代の頃の、自分が写っている写真に関心がある。誰かが撮ってくれた私のポートレート。特に私が大学生から会社員だったころ、写真とほとんど縁のない生活をしていたころのものだ。

20年以上経っているのでほとんど感傷的になることはなく、ただただ客観的に眺めている。写真と記憶の関係。写真と時間の関係。自分はどんな人間なのか。何者なのか。それらを他者がカメラ越しに向けた私への眼差しから考えている。

写真によっては私に向けられた感情を読み取れたり、想像できるものがある。

冒頭の写真は、津市で友人が結婚式を挙げる当日、出発前に私の部屋で撮ってもらったものだ。久しぶりにたくさんの友人に会えるということで高揚した私の表情が伺える。

そんな表情の私にどんな想いでカメラを向けたのだろうか。操作に不慣れだったニコンのマニュアルカメラで構図を決め、私の姿を一心に追うその眼差しはどんなだっただろう。

写真が残っているせいもあるが、この時の会話をよく覚えている。彼女が着ていたシルクの服についての話だ。姉から借りたというその服の、シルク特有の匂いが少し気になると彼女は言っていた。その匂いもなんとなく覚えている。

写真は記憶を補完してくれるが、この場合、匂いも相まって覚えているのだろう。

時間が随分経っているので淡々と書いているが、流れた月日がまだ短いものだったら、写真が生々しさを訴えて思考よりも感情でジャッジしただろう。

そして写真があり、断片的ではあるが確かな記憶が残っていると、とてもそんな昔のことだとは思えず、つい最近、もしくは今のことのように錯覚してしまう。鏡を観ればシミやシワが増え、自分の容姿は随分変わっているのだが、不思議な感覚に包まれる。

写真が無かった時代の人々の記憶や過去に対する認識も、大きく違ったものだっただろう。

自分のポートレートを眺めていろいろ感じるところもあるが、写真に遺してくれて本当に有り難いと思うばかりだ。この写真に関してはいま改めて礼を言ったり、当時のことを思い出して二人で語ることは叶わないが、そんなところも含めて写真や写真にまつわる出来事は尊くて愛おしいものだと”しみじみ”思っている。





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