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20年のときを経て
先日初めてモノクロ暗室の講師を体験しました。振り返れば20年前、私は生徒としてモノクロ暗室を体験しました。2000年7月。大阪は心斎橋。ちょうど郷里の大先輩である植田正治さんが亡くなった頃でした。20年の時を経て今度は私が教える立場に回り、感慨深いものがありました。
記念すべきモノクロ暗室の初めての生徒さんは私よりも少し年上の男性でした。かつて駐在員として滞在したドイツとカナダで撮りためたネガを自分で思い通りにプリントしたいと足を運んでくれました。
初めてのことばかりで大変だったとは思いますが、私が見本で焼いたプリントに近いものがご自身でプリント出来るようになり、「楽しい、楽しい。これは男のロマンだ!」と、何度も喜んでもらえました。
暗室(写真)の楽しさや、自分の手から作品が生まれることの喜びを確かに伝えることができて、私自身にとっても喜びのある素晴らしい時間になりました。素敵な循環がありました。
振り返れば20年前、私もこのモノクロ暗室の虜になり、写真の道に入ったようなものです。その時に焼いた写真は、当時親密だったひとと祖父の写真でした。
自分の大切な存在が現像液の中から浮かび上がってくる時の感動は、他に経験したことの無い喜びでした。そのひとの、その大切な瞬間を自分だけが獲得したような感覚でした。それは永遠の時を留めた、自分だけが知る秘密のようでした。
暗室でプリントを作ることは、宝物をひとつずつ手作りし、増やしていくことです。宝物とはつまり記憶でもあり、被写体との関係が終わったとしても、いなくなったとしても記憶を遺す、蘇らせる装置としてずっと存在することになります。実際、そのひととは後に離れ、祖父も亡くなりました。写真と、それを撮った時の私の記憶だけが遺ります。
当たり前のことですが、写真や記憶の中の彼女や祖父はそれ以降歳を取らずにそのままの姿を保ち、私だけが確実に毎年歳を重ねます。
「またね!」と言って、最後に会ったのが結果的に別れだった人達も含めて、私たちの人生は毎日が出会いと別れの繰り返しです。そう思うと毎日がかけがえのない、愛おしい日々に感じられ、少しでも写真に留め、記憶の拠り所にしたいと感じます。暗室はその想いを何倍にも増幅してくれる作用があると私は思っています。
長々と書きましたが、この度暗室の講師の機会を得て、20年前の自分を思い出す機会にもなり、自分の顔に刻まれたシワやシミを思い浮かべ、それなりに時間が経ったんだと、想いを馳せるわけです。