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楽器が弾ける人がうらやましい。

時たま、楽器ができる人を羨ましく思う。

先日、アーティストの坂口恭平さんの歌を聴く機会があった。
3回目だったと思う。中央最前列の特等席だった。

トークが主のイベントだったが、歌があるのは予想が出来た。
それくらい坂口さんの人生には歌が並走している。
そして楽器で自分の想いを他人に伝えられるということが
どれほど素晴らしいことか、改めて実感した。
歌は原初の衝動だろう。

単純に格好良くもある。気持ちいいだろうな。
聴く方も気持ちがいい。
坂口さんの「海底の修羅」という曲を聴きながらそう思った。

高校時代、ギターなどの楽器を始めてバンドを組み、ライブをする同級生が何人かいた。
世はバンドブーム。90年代初頭の時代。
同じ高校に通う親類もドラムセットを親に買ってもらい、納屋で練習し、学際などで披露していた。納屋というのがいかにも鳥取県らしい。

当時はドラムセットが自宅にある高校生なんてその辺りでは皆無で、他校の生徒たちも彼の自宅によく集まっていたらしい。私の高校は比較的自由な校風で、彼は長髪をポニーテールにしていたりと目立つ存在だった。坊主頭の野球部で、影が薄い私と彼が親類なんて、誰も知らないし、信じなかっただろう。時たま親しげに話す私と彼を観て、みなその不自然さに首を傾げていた。

親類の彼がどんな曲を演っていたのか、全く知らない。生きている世界が違うと思っていた。私の自宅には妹が使うアップライトのピアノがあったが、私には縁遠い世界で、触ることもほとんどなかった。母親は厳しい家計をやりくりして妹にピアノを習わせたが、私は習い事をしたこともなく、友達が習字や算盤、水泳や空手などの習い事をしているのを不思議に思っていた。

みんなが足繁く通っているあれは、仕事のようなものだろうか。そんなふうに思いながら、友人たちが習い事を終え、一緒に遊ぶのを待っていた。おそらく私の母親はそういう情報から私を遠ざけていたのだろう。仮に私が望んでも、通えわせる余裕がなかったと思うからだ。

話が幾分それてしまったけど、そんなこともあって楽器に縁がない人生を送っている。別に暮らしてゆくのに支障はないけど。

学生時代にこんなこともあった。
仲間のひとりが毎冬、長野のペンションで住み込みのバイトをしていて、仲間数人でそのペンションに行ったことがあった。長野五輪の数年前で、「上村愛子って、すごい娘がいるんだよ!」と、彼が言っていたのを思い出す。

そんな彼が仕事が一段落し、ロビーにあるピアノの前に腰掛け、おもむろにドリカムの「LOVE LOVE LOVE」を見事に弾き始めたときには皆で仰天した。そのギャップに驚き、ずるいなあと思った。スポーツマンで聡明でカッコよくて、性格も良くて面白くて、おまけにピアノが弾けるなんて、もう完璧じゃないかと。そして羨ましく思った。自分を解放するそんな手段があることに。

彼は卒業後、北海道で農業を勉強することになっていたが、大阪を発つ前にひとりの女性からオファーを受けた。学内でも有名なその美しい女性は、チアリーディング部のキャプテンで、私や彼のゼミ仲間でもあった。私達も大変驚いたが、最も驚いたのは彼自身だっただろう。お似合いのふたりだった。
彼女はその後、彼のピアノを聴いただろうか。彼女のためだけの特等席で、彼女のためだけに奏でる音色の連なりを。



オチのような話を最後に。
1980年代に「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」という番組をよく観ていた。そのなかで、自分の想いを楽器で意中の相手に伝えるコーナーがあり、とても面白かったのを覚えている。ふざけた番組のふざけたコーナーだ。

そのなかでドラムや縦笛、カスタネットなど、演奏しながら歌って想いを伝えるには珍妙すぎる人たちが面白く、いつも爆笑していた。私にもこれなら出来るかもしれないけど、やらないなあと。熱い想いを珍妙な形で伝えられた彼女らの困惑する姿も爆笑ものだった。テリー伊藤の企画だったのか、とてもクールだ。


楽器が弾ける男のはなし。

そして冒頭の写真は伊達公子。
カムバックして間もない頃の彼女を、有明に観に行った際の写真。

「LOVE LOVE LOVE」の彼は学生時代にテニスをしていた。
当時は伊達公子の全盛期であり、突然の引退を彼と共に惜しんだのをよく覚えている。
彼とは25年前に東京で呑んで以来だ。
いまもカッコよく愉快に暮らしていることだろう。





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