毎週一帖源氏物語 第四十七週 総角
大河ドラマ「光る君へ」第四十二回「川辺の誓い」(11月3日放送)では、道長が病に倒れて宇治で療養しているところに、まひろ/藤式部が見舞いにやって来るという場面があった。ドラマの設定では、その前に『源氏物語』の本篇を書き終えているらしい。紙に記された「雲隠」という文字から、そのように推察される。まひろ/藤式部は宇治川のほとりで道長と語らい、宇治を舞台に続篇を書いてみようという気になった、ということだろうか。
総角巻のあらすじ
秋になり、宇治の姫君たちは一周忌の準備に余念がない。経の飾りの糸を編み、その先を総角(あげまき)結びにする。中納言は長い契りを結びたいという願いを総角結びに込めた歌を詠むが、大君にとっては煩わしく思われる。大君は、自らは身を引いて、中の君を中納言に縁づけたいと願っている。しかし、中納言としてはそう簡単に気持ちを切り替えられるはずもない。夜、中納言は御簾の中に入るが、大君が泣いているのがいたわしく、強引に契ることは控える。
服喪が終わり、中納言は改めて宇治を訪れる。弁に手引きをさせて寝所に忍び込むが、まどろまずにいた大君は中の君を残してその場から逃げる。中納言はそこにいたのが別人であることに気づき、相手もまた事情を知らずにいることを悟って、何ごともなく朝を迎える。
熟慮の末、中納言は兵部卿の宮を宇治に連れて行く。彼岸の果て、八月二十六日のことである。中納言はまず一人で出向き、自分が大君と対面している隙に、後から忍んで来た宮が中の君のもとに忍び入れるように事を運ぶ。大君は心を開かず、中納言は物越しのまま夜を明かす。
宮は中の君に惹かれ、次の夜も宇治に通うが、三日目は内裏に足止めにされ、母の中宮から訓戒を受ける。見かねた中納言は宇治に行くべきだと後押しし、中宮への執り成しを買って出る。宇治では、今宵は文だけで済まされてしまうのかと嘆いていたところ、夜中近くになって宮のお越しがあって安堵する。宮は通うことが途絶えがちになっても自分の真情を疑わないでほしいと説くが、中の君は浮気の弁解を前もってしているのではないかと不安になる。
実際、宮はなかなか京を抜け出すことができない。九月十日のほど、宮は中納言に誘い出されて宇治を訪れるが、その夜限りで帰らなければならない。中の君を京に引き取ろうにも、六の君との縁談を望んでいる右の大殿の手前、それも難しい。一方、中納言は三条の宮が造営されれば、そこに大君を迎えようと考えをめぐらせる。
十月朔日(ついたち)ころ、またも中納言の勧めによって、兵部卿の宮は紅葉狩をしに宇治に赴く。中納言から宇治の人々に、宮の中宿りに備えるよう通達がある。ところが、ひっそりと出かけたはずが広く知れ渡り、中宮の命により右大臣の長男の衛門の督などが参上したために、宮はその日も次の日も中の君が待つ山荘に足を運べない。宮がそのまま帰京したことで、大君は無念を募らせ「ここちも違(たが)ひて、いとなやましくおぼえたまふ」(82頁)。
宮は里住みを咎められ、右大臣の六の君を迎えるように取り決められる。宮は宇治に通えない。大君の具合が悪いと聞きつけた中納言は見舞いに出かけ、修法の手配などもさせる。宮の縁談が進められていることを噂に聞いたため、大君の病勢は悪化する。
十一月の初めは、五節で宮中は忙しい。中納言も数日ほど使いを差し向けることができずにいたが、大君の加減が気になって宇治に出向くと、病状は深刻になっていた。大君は中納言を待ち焦がれたいたことを告げる。中納言は泣き崩れる。大君は、自分が死んだあとまで強情だったと思われたくないのである。心残りは中の君のことである。中納言は「うしろめたくな思ひきこえたまひそ」(109頁)と相手を安心させる。風が吹き、雪が降る山里で、大君は中納言に見守られて息を引き取る。
中納言は宇治に留まり、年の暮れになってようやく京に戻る。中納言の意気消沈ぶりから、中宮は大君がそれにふさわしい人であったことを知り、兵部卿の宮が中の君を二条の院に迎え入れることを承知する。宮は中の君と中納言が心を通わせるのではないかと疑っている。
この巻はなぜ総角と名づけられたのか
宇治十帖は橋姫、椎本と来て、この総角が三巻目となる。最初の二つの巻名の意味は分かりやすい。橋姫は宇治川のほとりに住む姫君たち(大君と中の君)を、椎本は薫が師と頼む八の宮を、それぞれ指す。それに対して、この巻が総角と名づけられた理由はすぐには見えて来ない。もちろん、冒頭付近の薫の歌に由来することも、大君に寄せる気持ちがその歌に込められていることも分かるのだが、それだけなら総角でなくても薫の気持ちを比喩的に表すことができるはずだ。この巻は総角と呼ぶのが最適だと思えるような、そんな説明をつけることはできないだろうか。巻名歌が早々と登場したこともあって、ずっと「総角の意味」を考えながらこの巻を読んだ。
そもそも総角(揚巻)とは何か。原義は少年の髪の結い方で、それに似た紐の結び方も指すようになった。巻名歌は、直接的には経の飾り糸が総角結びになっていることをふまえている。
歌意として重要なのは下の句で、「一緒になりたい」という気持ちが込められている。新潮日本古典集成の頭注によれば、この下の句は催馬楽の「総角」をふまえているという。その詞は頭注にも引かれているが、平凡社の東洋文庫にその名もずばり『催馬楽』という現代語訳付きのものがあるので、そちらに基づいて引用してみよう(電子版がジャパンナレッジに収録されていて、勤務先の大学の附属図書館でアクセスできるのがありがたい)。
尋は長さの単位である。両手を広げたくらいの距離を隔てて男女が寝ている。しかし、ごろごろと転がっているうちにくっついた。校注者によると、同じ催馬楽の「大宮」や「田中井戸」とともに「年少者を囃す趣」(同書、169頁)だそうである。今で言えば「ひゅーひゅー」と冷やかすような感じだろうか。
この催馬楽では、男女は一尋の距離を越えて結ばれる。薫と大君も同じようになるかと思いきや、二人のあいだはいつまで経っても縮まらないのだ。
八の宮の一周忌の備えをしていた八月、薫は大君の御簾のうちに入るものの、相手の意に反する形で思いを遂げようとはしない。薫が京に帰ったあと、大君は周囲の目を気にする。
何ごとも起きなかったとはいえ、自分が薫に身を委ねたと中の君が思ったのではないか。そう案じる大君の心中には、催馬楽「総角」の詞が浮かんでいる。
近づきたい薫と、最後の一線を守りたい大君。総角巻は、「尋ばかりの隔て」をめぐる攻防なのである。そのようにとらえると、巻名が総角であることに合点が行く。
すれ違う思い、通い合う心
総角巻はかなり長いが(新潮日本古典集成版で111ページもある)、時間はあまり経過していない。薫が二十四歳の年の秋から冬にかけて、半年に満たない物語である。この間に、上述の「尋ばかりの隔て」をめぐる攻防がじりじりと繰り広げられる。薫と大君が対面し、薫が思いを訴えるものの大君が拒み、薫が相手の意志を尊重して自制する――その繰り返しである。大君は薫になびかないが、相手を毛嫌いしているわけではない。むしろ敬意と好意を抱いているが、自分は身を引いて、妹の中の君を薫にめあわせたいと願っている。しかし、薫としては大君こそが意中の人であり、簡単に乗りかえられるはずもない。二人の思いはすれ違う。
十一月初め、数日ほど宮中行事に忙殺されていた薫が宇治に赴いてみると、大君の容態が悪化している。二人の対面が何度目なのか、もはや分からないほどだ。例によっていつもの駆け引きが繰り返されるのかと思いきや、死期を悟った大君は素直な気持ちを薫に伝えるのだ。
この数日訪れがなく、お目にかかれないままになるのではないかと残念に思っておりました――大君が切れ切れにそう告げると、そんなに待っていただくほど宇治に来なかったとは、と後悔の念にとらわれ、薫は涙に暮れるのだ。このくだりを朗読していて、私もまたこみ上げてくるものがあり、声が乱れた。二人の心は通い合っているのに、どうして結ばれないまま終わってしまうのか。あまりにも遠い一尋の隔てであった。
間近で思い知らされる身分の違い
同じ皇族でも、八の宮と匂宮とでは勢いが異なる。片や零落して都から離れた山里にひっそりと暮らす過去の人、片や帝と中宮に寵愛されて将来の春宮と目される人。その八の宮も亡くなり、宇治の姫君たちには後ろ盾がない。
匂宮と中の君では、身分が違う。そのことをまざまざと思い知らされたのが、紅葉狩の折の一件である。匂宮は紅葉狩にかこつけて中の君のもとに渡ろうと考えていたが、取り巻きが多くなりすぎて計画が狂う。宇治の人々は、ただ見ていることしかできない。匂宮一行の華々しさと山里の侘び住まいの対照が残酷なまでにあらわになる。
これと似た場面に見覚えがある。澪標巻で、明石の上と源氏はたまたま同じ時期に住吉詣でに行く。源氏一行の賑わいに、田舎育ちの明石の上は身分の差を思い知らされる。それと同じ構図がここにも見られる。
紅梅巻の出来事との並行
年立の上では、紅梅巻の後半と総角巻は重なっている。紅梅巻の出来事を振り返っておくと、紅梅大納言は先妻とのあいだにもうけた娘の婿に匂宮を迎えたいと願っているが、匂宮は腹違いの宮の御方に心を寄せている、という筋であった。そして、その巻末で「八の宮の姫君にも、御心ざし浅からで、いとしげうまうでありきたまふ」(紅梅、第六分冊、196頁)と記されていた。この姫君が宇治の中の君であることが、総角巻ではっきりする。
紅梅巻では、宮の御方に執心しながらも宇治の中の君にも通っているという書きぶりになる。しかし、総角巻に焦点を当てれば、中の君と契りながら宮の御方にも色目を使っているという見え方になる。いずれにしても、匂宮は気の多い人であって、大君や中の君が――そして薫が――「例の軽(かろ)らかなる御心ざま」(総角、47頁)を心配するのも無理はない。
二つの巻を対比的に読んでみると、紫式部は総角巻を先に書き上げ、後から紅梅巻を記したように思える。紅梅巻では、上述のように「八の宮の姫君」への具体的な言及がある。それに対して、総角巻では宮の御方は影も形もない。匂宮が宇治に通えずにいるあいだの浮気歩きについても、「はかなく人を見たまふにつけても」(96頁)という具合に、ぼんやりとした書き方しかしていない。総角巻執筆中にはまだ紅梅巻の構想はなく、宇治十帖の一体感を保つために、後から書き足した紅梅巻(と竹河巻)を順序としてはその前に配置したのではなかろうか。
宇治十帖の碑、訪ね歩き(三)総角
総角の碑は、大吉山の登山道(というほど大袈裟なものではないが)の起点にある。源氏物語ミュージアムからも、ここが一番近い。椎本の碑があるかないか分からないほどひっそりしていたのと比べると、見落としようがないほど存在感がある。
石碑そのものはとても目立つが、くずし字は読みづらい。たとえ字が判読できても、「総角」という漢字の読み方は難しい。小学生の頃、宇治上神社のあたりを歩いていて、観光客のおじさんに声をかけられたことがある。その人は私に「そうかく、どこです?」と問いかけてきた。そうかく? 一瞬、私の頭のなかで疑問符が浮かんだが、すぐに「あげまき」の碑の場所を尋ねられたのだと理解した。私はそっとその方向を指さして教えてあげたのだった。