見出し画像

毎週一帖源氏物語 第四十三週 紅梅

 新聞一面の広告(いわゆるサンヤツ)で、角田光代訳『源氏物語』の文庫版が完結したことを知った。全八巻ということは、私がいま読んでいる新潮日本古典集成と同じ冊数である。版元の河出書房新社のウェブサイトで各巻の収録内容を調べてみたところ、区切り方も新潮日本古典集成と同じだった。

紅梅巻のあらすじ

 按察使(あぜち)の大納言というのは、故致仕の大臣の次男で、故右衛門(うゑもん)の督(かみ)の弟に当たる。最初の北の方とのあいだには、大君(おほいきみ)と中(なか)の君という二人の娘がある。新しい北の方は真木柱の君で、そのあいだに男君が一人できた。真木柱には、故兵部卿〔螢宮〕とのあいだに女君がいる。大納言の七間(しちけん)の寝殿では、「南面(みなみおもて)に、大納言殿、大君、西に中の君、東に宮の御方と住ませたてまつりたまへり」(182頁)。
 大納言は、十七八ほどになる大君を春宮に参らせる。続く中の君の相手には、兵部卿の宮〔匂宮〕を当てにしている。
 殿は実の娘たちだけでなく、東の姫君のことも忘れてはいない。しかし、当人は父方の後見もなく、夫を持つような身ではないと思っている。控えめで、大納言にも姿を見せない。大納言は何とかして姫君の「御容貌(かたち)を見ばや」(185頁)と思い、琵琶の名手である姫君を音楽談義に引き込む。そういう折にも、大納言は自分が童だったときに光源氏に親しく接したことを思い出す。
 大納言は庭先の紅梅の花を折らせて、童殿上している若君を介して、兵部卿の宮に歌を届ける。宮は大納言の意中を察するが、むしろ東の御方に関心を寄せる。取り次ぎを頼まれた若君は、母を同じくする宮の御方に肩入れしているので、子供心にも嬉しく思う。しかし、大納言としては宮の返歌に不満が残る。今一度歌を贈るが、やはり色よい返事はない。
 兵部卿の宮は文を遣わすが、宮の御方は返事もしない。北の方は娘を許してもよいという気になる一方で、兵部卿の宮は忍び歩く方面が多く、八の宮の姫君にもご執心らしいので、悩みは尽きない。

藤原氏の復権を目指して

 源氏の好敵手だった致仕の大臣は、長男の柏木に先立たれた。致仕の大臣亡き後、一門を率いるのはその次男に当たる按察使の大納言である。
 『源氏物語』における藤原氏にはいくつかの系統があるが、桐壺朝での右大臣家は源氏の復権以降は表舞台から消えているし、髭黒一家も次の世代が重きをなすには至っていない。夕霧の右大臣の源氏を脅かしうるとすれば、この大納言の藤原氏くらいしかなさそうだ。
 大納言が娘たちを春宮や匂宮に縁づけようと躍起になるのは、藤原一門の威光を何とかして高めたいという思いに駆られてのことだろう。親子二代にわたる宿願という側面もある。少女巻で語られていたように、冷泉帝の后には源氏の養女格だった斎宮女御が立った(秋好む中宮)。当時の右大将の娘である弘徽殿女御は、先に入内していたにもかかわらず、立后が叶わなかった。大納言は父の無念を思い起こすのだ。

まず春宮の御ことをいそぎたまうて、春日(かすが)の神の御ことわりも、わが世にやもし出で来て、故大臣(おとど)の、院の女御の御ことを、胸いたくおぼしてやみにしなぐさめのこともあらなむと、心のうちに祈りて、参らせたてまつりたまひつ。

紅梅、184頁

 春日大社は藤原氏の氏神である。その御加護を得て、藤原氏から后を出すという宿願を果たしたいのだ。春宮のもとには、すでに夕霧の長女が入内している(「大姫君(おほひめぎみ)は、春宮(とうぐう)に参りたまひて」(匂兵部卿、162頁))。立后争いは、どのような結末を迎えるのであろうか。
 そう言えば、藤裏葉巻で夕霧と雲居雁の結婚が晴れて認められたとき、催馬楽の「葦垣(あしがき)」を歌って二人の仲を当てこすったのは、雲居雁の異母兄である若き日の大納言(当時は弁の少将)であった。夕霧は根に持つタイプのようだから(「六位風情」と侮られたことを何度も持ち出す)、大納言に対しても含むところがあるかもしれない。

高砂を歌った童の四十六年後

 さて、その大納言だが、源氏に対しては思慕の念を抱いている。

「あはれ、光源氏(ひかるげんじ)と、いはゆる御盛りの大将などにおはせしころ、童にて、かやうにまじらひ馴れきこえしこそ、世とともに恋しうはべれ。」

紅梅、189頁

 この幼少時の思い出は、賢木巻で語られていた。美声の持ち主で、高砂を歌い、源氏からご褒美をいただいた。当人にとっては、晴れがましい一幕である。

中将の御子の、今年はじめて殿上(てんじやう)する、八つ九つばかりにて、声いとおもしろく、笙(さう)の笛吹きなどするを、うつくしびもてあそびたまふ。四の君腹の次郞なりけり。〔……〕高砂(たかさご)を出だしてうたふ、いとうつくし。大将の君、御衣(ぞ)ぬぎてかづけたまふ。

賢木、第二分冊、181-182頁

 賢木巻は足かけ三年に及ぶ出来事を語っているが、大納言が童殿上したのはその三年目、源氏二十五歳のときである。計算してみよう。源氏と薫の年齢差は四十七である。紅梅巻は薫の二十四歳のときの物語であり、源氏が存命なら七十一歳になる。したがって、四十六年が経過したことになる。声を愛でられた童は、五十四、五歳の重鎮となっている。時の移ろいを感じざるを得ない。
 大納言の声がすぐれていることは、これまでにも何度も述べられてきた。作者の紫式部が人物造形を忘れることなく、これだけの大長編を書きながら綻びを見せないのは、驚異的である。頭のなかでどういう整理の仕方がなされていたのだろうか。

宇治十帖の頭出しか?

 巻末で「八の宮の姫君」への言及が見られる。匂宮が足繁く通っているという。あまりにも唐突で、面食らう。先を知らずに読み進めてきた人は、八の宮が誰か、どこに住んでいるかを知らない(当の人物が桐壺院の八男で宇治に隠棲していることは、『源氏物語』の先を読んでいる人でないと知りえない)。宇治十帖の物語が、すでに背後で進行している。
 第八分冊巻末の年立を見ても、匂兵部卿巻に続く本編は橋姫巻であり、紅梅巻は椎本巻と総角巻と並行しているようだ。そして、次の竹河巻は紅梅巻に先立つ十年間の物語らしい。紫式部がこのあたりの巻をどういう順序で構想し、書き上げたのか、そしてなぜ今に伝わるような順序で配列されたのか、気にかかるところである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?