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毎週一帖源氏物語 第一週 桐壺

 これから『源氏物語』の世界に浸ろう。毎週の記事をどのように構成するかは、まだ決めかねている。もとより解説のようなことは書けないので、雑感を散りばめることになるだろう。内容を前提として書くだろうから、あらすじを簡単にまとめてから感想を記すという流れになりそうだ。
 原文の引用はすべて新潮日本古典集成版による(なぜこの版を選んだかは前口上で記した)。八冊のうちどれかはおのずと明らかなので、頁だけを記す。引用文中の丸括弧内は、校注者が本文に添えたふりがなである。

桐壺巻のあらすじ

 帝の寵愛を一身に受ける桐壺更衣は、帝の子をはらむ。こうして「きよらなる玉の男御子(をのこみこ)」(12頁)が生まれる。主人公の光源氏である。桐壺更衣は他の妃たちの嫉妬をも浴びていて、心労がたたって世を去る。母の更衣が亡くなったとき、若宮はまだ三歳である。帝は若宮を寵愛するが、「源氏になしたてまつるべくおぼしおきてたり」(32-33頁)。正室の弘徽殿女御とのあいだに男子があるので、波風を立てないようにという配慮である。また、その背景には高麗の人相見による予言もあった。帝王になれば国が乱れるだろうし、かといって臣下で終わるとも思えない、というのだ。臣籍降下により源氏となった若君は見た目もうるわしく、「世の人光君(ひかるきみ)と聞こゆ」(36頁)。十二歳で元服すると、左大臣の娘との縁談がまとまる。しかし、源氏は母の桐壺更衣とよく似た藤壺女御への思慕を募らせる。

登場人物を名指す難しさ

 『源氏物語』の主人公は光源氏である。新潮日本古典集成第一分冊の帯にも「光源氏誕生!」「永遠の貴公子・光源氏」という文字が躍っている。しかし、桐壺巻でこの通りに名指されることはない。臣籍降下のくだりで初めて「源氏」という言い方がなされ、その美しさのゆえに「光君」と呼ばれたと述べられるだけである。この二つを組み合わせた「光源氏」という名は登場しなかった。それでも、桐壺巻の締めくくりが「光君(ひかるきみ)といふ名は、高麗人(こまうど)のめできこえて、つけたてまつりけるとぞ、言ひ伝へたるとなむ。」(41頁)となっているのは印象的で、「光源氏」という通称が定着したのも頷ける。
 そもそも、平安朝の物語では登場人物を固有名詞で示すことが稀である。身分が高くなるほどその傾向は強くなり、天皇の名を口に出すことは憚られる。実際、桐壺巻ではごく稀に「帝(みかど)」や「上(うへ)」と示されることはあっても、「桐壺帝」という直接的な言い方は避けられる(この帝を更衣と同じ「桐壺」と呼んでよいかどうかも、現段階では定かではない)。

「読み方」の難しさ

 ここで言う「読み方」とは「解釈の仕方」ではなく、「文字列を意味の切れ目を意識して音声化すること」を指す。平安朝の日本語に慣れていない私にとって、これが非常に難しい。フランス語なら綴り字と発音の関係が規則的なので、初見の文章でも、意味を知らない単語が含まれていても、それらしく朗読できる。ところが、日本語の古文ではそれができない。たとえば、次の一文。

おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びのをりをり、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづまうのぼらせたまふ。

桐壺、13頁

 「わりなくまつはさせたまふあまりに」や「まづまうのぼらせたまふ」というひらがなの連続は、切れ目が分かりにくくて難儀した。「まつはす」は「纏はす」で「身近にいさせる」の意、「まうのぼる」は「参上る」で「(宮中などに)参上する」の意、という語義をふまえたうえで、敬語表現を組み合わせて解釈しなければならない。
 まだ語彙に馴染んでいないせいもあるが、分かち書きがなされていないという日本語の特性も大きいように思う。漢字とかなの割合にも影響を受ける。
 漢字の問題に触れたついでに記すと、御の字の読み方にも困っている。黙読であれば、音価を気にせず、尊敬の念が込められていることだけを意識して受け取ることができる。しかし、朗読ではごまかしが利かない。『角川必携古語辞典全訳版』の項目「おほん(大御・御)」には、次のような説明が掲げられている。 

平安時代の作品の中で「御」と表記された語の読みは、「おほん」「おん」「お」「ご」「み」のいずれであったのか容易に確定できない。しかし、かな書きの古筆資料から推定して、「お」「ご」「み」は特定の語に用いられ、一般的には「おほむ」「おほん」と読むのが妥当である。また、「おん」は主として中世以降に用いられた。

『角川必携古語辞典全訳版』、項目「おほん(大御・御)」

 なるほど、そういうことか。差し当たりはこの説明を頼りに「おほん」と読むことにしよう(音読みの漢語の前では「ご」がよさそうだが)。そういえば、『源氏物語』冒頭の有名な一句「いづれの御時にか」の「御」の字には、新潮日本古典集成版では「おほむ」というルビが振られている。
 こんな具合に早速さまざまな難点にぶつかっているが、徐々に慣れるしかなさそうだ。

文学的語彙の伝統――桐壺巻と上田敏「秋の歌(落葉)」

 同じ日本語でも、千年前と今では文法も語彙も異なる。そのせいでさっぱり分からないところもあれば、何となく雰囲気だけはつかめる場合もある。昭和生まれの私にとって、古文はほとんど外国語だ。しかし、明治や大正を生きた人々にとっては、もう少し身近なものだったにちがいない。
 ここで注目したいのは、訳詩集『海潮音』(1905年、明治38年)で知られる上田敏(1874-1916)である。最も有名なのは、ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine)の « Chanson d’automne » を訳した「秋の歌(落葉)」だろう。

秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
 
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
 
げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

上田敏「秋の歌(落葉)」『海潮音』

 この訳詩で用いられている単語のなかに、『源氏物語』桐壺巻と共通するものがある。第一聯の「ひたぶるに」と第二聯の「胸ふたぎ」である。
 宮中では死の穢れを忌むため、体調を崩した桐壺更衣は御所を辞して実家に帰る。帝はそれを断腸の思いで見送る。その様子が「御つとふたがりて」(17頁)と記される。娘の桐壺更衣に先立たれた母の嘆きは、「灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」(18頁)と描写される。
 「ふたぐ」は「ふさぐ」、「ひたぶる」は「ひたすら」なので、古文と現代文でそれほど大きく形と意味が変わっているわけではない。しかし、何となく古い言葉という感じはする。
 私は何も、上田敏が桐壺巻の語彙を借用したと主張するつもりはない。桐壺更衣が亡くなったのは「その年の夏」(15頁)であり、「秋の歌」とは季節が違う。直接的な参照があろうとなかろうと、胸を締めつけられるような悲しみを表現するときの文学的語彙が脈々と受け継がれている。そのことに気づくことができた、というだけのことである。それだけでも、『源氏物語』を原文で読み始めた甲斐がある。

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