毎週一帖源氏物語 第五十一週 浮舟
新潮日本古典集成は、いよいよ最終第八分冊に突入した。
浮舟巻のあらすじ
兵部卿の宮は、あの夕べを忘れることができない。一方、大将はじっくり事を運ぼうとして、宇治の女君を京に迎え入れるための邸を造らせる。
正月、宇治より二条の院の女君のもとに便りがあり、その文面から宮はあの夕べの女だと察する。そこで大内記を召し寄せ、宇治の様子を尋ねる。この人は右大将の家司の婿なので、そちらの事情に通じているのである。内記の話によると、大将は去年の秋から宇治に女を隠しているという。宮は内記の手引きで宇治に向かう。垣間見た女君は、「対(たい)の御方にいとようおぼえたり」(24頁)。皆が寝静まった頃、宮は大将になりすまして邸内に入り込む。大将の声色を真似て、家司の名前を持ち出し、道中で災難に遭って見苦しい姿になったから火を暗くせよと命じるなど、万事において抜かりがない。女君は異変を察知し、相手が宮であることを悟るが、もはやどうしようもない。翌朝、宮は京に帰らずに居座る。女房の右近を巻き込み、京には乳母子の時方を通じて山寺に参詣していると伝えさせ、女の母君からの使いには物忌と言わせる。宮は女をまたとなく素晴らしいと思い、女のほうでも「心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ」(33-34頁)と感じ入る。
宮は帰京後も物思いが高じて気分がすぐれない。大将の見舞いを受けて、女をあのような場所に隠しておくとは隅に置けないと思う一方で、この立派な人柄と比べて自分は女の目にどう映るだろうと恥ずかしくも思う。
二月になり、大将は宇治を訪れる。女は合わせる顔がないと思いつつも、大将の心の深さは身に沁みて感じており、懊悩する。大将は、三条の宮に近い邸が間もなく仕上がりそうだと述べる。同じ月を眺めながら、「男は、過ぎにしかたのあはれをもおぼし出で、女は、今より添ひたる身の憂さを嘆き加へて、かたみにもの思はし」(47頁)。
二月十日、宮中で詩宴が催されるが、雪のために早々に切り上げられ、人々は宮の宿直所に集まる。そこで大将が口にした歌から「宇治の橋姫」に寄せる思いの深さを知った宮は、居ても立ってもいられず、翌日には雪道をかき分けて宇治に行く。宮は前もって時方を通じて対岸に家を用意させていて、夜中に女君を連れ出す。世話役に侍従を従わせ、右近には留守を預からせる。「小さき舟」(52頁)で川を渡りながら、女は自らを浮舟になぞらえ、先行きを案じる。宮と女は、その家で二日間睦び合う。帰京後、宮は病む。女君は、大将の世話になるのが本来だと思いながら、宮の面影を忘れられない。
大将は卯月の十日に女君を移す手筈を整えている。内記を通じて聞きつけた宮は、乳母の夫の家が空くのを用立てさせて、先手を打って三月末に女を引き取ろうと目論む。悩む女君の心のなかに、いっそ川に身を投げてしまおうかという思いが芽生え始める。
ある日、宮と大将の文使いが宇治で鉢合わせする。大将の随身は機転が利き、供童に相手方の跡をつけさせ、使いを差し向けたのが兵部卿の宮であったことを知る。その報告を受けた大将は、心移りを咎める歌を宇治に送る。女君は胸がつぶれる思いをするが、宛先が違うのではないかとやり過ごし、窮地を巧みに切り抜ける。右近と侍従からもあれやこれやと忠告され、女君は「まろは、いかで死なばや」(83頁)と口走る。そして、文反故を焼くなど、身の回りを片づけ始める。返事が途絶えがちなのにしびれを切らした宮は自ら宇治に赴くが、大将の指図を受けて警備が厳重になっていて、女君に会うことができない。
女君はますます思い乱れ、死を思って歌をいくつか詠む。誰に宛てるともなく書き残したものもあれば、宮や母への返歌としてしたためたものもあるが、大将宛のものはない。
知っていた大枠、知らなかった細部
浮舟と言えば、入水。『源氏物語』についてわずかな知識しか持ち合わせていない私でも、そのくらいの大枠は知っていた。しかし、浮舟がどういう経緯で入水を決意するに至ったか、そこまでは把握していなかった。浮舟が追い詰められてゆくさまは、緊迫感に満ちていた。
揺れる浮舟
浮舟の気持ちは揺れ動いている。浮舟とはよくぞ言ったものである。これ以上ふさわしい呼び名は思いつかない。八の宮に認められていなかったとはいえ、三姉妹の三女なのだから「三の君」でもよかったのに、作者は一度もその名前で呼ばなかった。
これが巻名歌である。舟はただ浮いているのではない。どこへ行くか分からないというのが、重要なポイントだ。浮舟は薫の厚意に感謝しつつも、情熱的な匂宮に惹かれずにはいられない。そして自分の心がそのような動きを見せることを、うとましく思う。その心の動きは、繰り返し語られる。
浮舟は、決して思慮の浅い人ではない。言い寄ってくる二人の男の気質を理解しており、自分の選択がどのような将来に通じているかも予見できている。だから、どちらも選べないのだ。選ばずに済ますにはどうすればよいのか。思い悩んだ浮舟に、一つの道筋がぼんやりと見えてくる。
匂宮に送ったこの歌の直後には、「まじりなば」という一言が付け加えられている。死んで焼かれて煙になって、雨雲にまじってしまいたい。「死」という想念が、内心で育まれてゆく。
この段階ではまだ、浮舟は漠然と「普通の死」を思うに過ぎない。火葬に付されて煙となるイメージを抱いていることから、そのように見て取れる。「入水」という方法を思いつくのはもう少し先のことだが、匂宮とともに舟で対岸に渡った経験にその着想を得ていることは明らかであろう。
宇治川の流れは速い。母君や女房たちがその恐ろしさを言い立てているのを聞きながら、浮舟は入水を考えるようになる「君は、さてもわが身行方(ゆくへ)も知らずなりなば」(69頁)という一節に、巻名歌の下の句「この浮舟ぞゆくへ知られぬ」が響いている。
注意して読むと、浮舟が死を願うようになってから入水という手段に思い至るまでのあいだにも、水やその縁語がさりげなく用いられている。
「誘ふ水」は比喩である。「浮きたる」も落ち着かず不安な様子を述べているが、他に言いようもあるなかでこの語が選ばれている。ひたひたと水が迫ってくるようだ。
高貴な二人の板ばさみになる浮舟が気の毒だが、文学的にはハッピーエンドが許されない展開である。もし浮舟が匂宮か薫のいずれかと幸せに暮らすという結末を迎えていれば、読者は肩すかしを食わされた気分になったことだろう。浮舟は悲劇のヒロインになる定めなのだ。
浮舟に対する匂宮と薫の態度
匂宮と薫はそれぞれ浮舟に言い寄るが、両者の言動は対照的である。匂宮は、情熱に任せて前後の見境なく動く。言葉を多く費やし、足繁く宇治に通う。一方の薫は、ゆったりと構えている。文面は簡素で、宇治にもあまり出向かない。
浮舟に対する二人の態度も、まるで異なる。匂宮は確かに情熱的だが、熱しやすく冷めやすい人でもある。浮舟への恋も、長続きはしないだろう。妻として遇するつもりもない。いずれ自分の姉の女一の宮に女房として仕えさせ、気が向いたときに逢瀬を楽しめばよいという程度の扱いである。「姫宮(ひめみや)にこれをたてまつりたらば、いみじきものにしたまひてむかし、いとやむごとなき際(きは)の人多かれど、かばかりのさましたるは難(かた)くや、と見たまふ」(57頁)とある通りだ。
匂宮が移り気であることを薫は知悉していて、浮舟が宮に飽きられるだろうと予見している。行き着く先についても、「さやうにおぼす人こそ、一品(いつぽん)の宮の御方(かた)に人二三人参らせたまひたなれ、さて出で立ちたらむを見聞かむ、いとほしく」(77頁)と見抜いている(想像している)。
では、薫は匂宮と違って、浮舟を深く思っていたと言えるだろうか。それも怪しい。二月に浮舟と逢ったとき、薫は「過ぎにしかたのあはれをもおぼし出で」(47頁)ていたのだった。薫の心を占めているのは、依然として大君なのだ。浮舟はその代わり(人形)にすぎない。
匂宮も薫も、聖人君子ではない。薫のほうが精神的に成熟していて立派ではあるが、それでも悩みながら生きている。光源氏がどことなく神話の世界から飛び出してきたような印象を与えるのに対して、宇治十帖の人々はどこかしら人間くさい。そして、それが宇治十帖の魅力である。
橘島
現在、宇治橋の上流には中州が二つ縦に並んでいる。上流側が塔の島、下流側が橘島である。正式にはその通りなのだが、地元民は両方を合わせて塔の島と言うことが多い。石でできた十三重塔があり、それにちなむ名前である。橘島のほうは名前の由来を知らなかったが、匂宮と浮舟を乗せた小舟の船頭が「これなむ橘(たちばな)の小島(こじま)」(53頁)と説明しており、それと関係がありそうだ。頭注には「地形変り、今不明」とあるので、名前だけが受け継がれたと考えるべきなのだろう。実際、今の橘島は川の両岸から隠れもなく見えていて、船頭に説明されなくてもあれがそうだと気づくはずだ。
木幡山
京から宇治への道は険しい。最大の難所は「いと荒き山越え」(22頁)と言われる木幡山である。往時と同じかどうかは知らないが、私はこの山道を何度か自転車で通ったことがある。かなりきつい。舗装されている道でこうなのだから、昔は比べものにならないくらい大変だっただろう。
男が女のもとに通うとき、夜のうちに行って帰って来なければならない。その意味で、京と宇治は絶妙な距離である。牛車では無理でも、馬を走らせれば可能なのだ。大内記は匂宮に問われて、「夕つかた出でさせおはしまして、亥子(ゐね)の時にはおはしまし着きなむ。さて暁(あかつき)にこそは帰らせたまはめ」(22頁)と答えている。実際、宮は京の市中は車に乗り、その先は馬を走らせている。
ところで、幼い頃に母から聞いた話では、木幡と八幡は対になっていて、地盤の硬い山手が強(こわ)い田の木幡、巨椋池が近くて地盤の軟らかい一帯が柔(やわ)い田の八幡、だそうである。民間伝承のたぐいかもしれないが、感覚的には納得できる。
宇治は京より寒いのか
これもしばらく前から気になっていたのだが、京より宇治のほうが寒いような描写が多いのはなぜだろう。南北の位置関係を考えれば、逆ではないか。中高の六年間、私は宇治から京都市北部の学校に通った。冬、夜明け前に家を出たときには何ともなかったのに、京阪電車が国鉄奈良線をまたぐ鳥羽街道と東福寺のあいだくらいで雪が降り始める、ということがよくあった。京都は雪でも宇治は雨ということは、ままあるのだ。紫式部の頭のなかに、「宇治は田舎だから寒い」という図式でもあったのだろうか。
宇治十帖の碑、訪ね歩き(七)浮舟
浮舟の碑は、三室戸寺の境内にある。宇治十帖の碑のなかで、それだけ写真を用意できなかった。三室戸寺はちょっと離れていて、四月に宇治に帰ったときは足を伸ばす時間がなかったのだが、それだけが理由ではない。自分の記憶にある三室戸寺のイメージを、現在の様子を見ることで崩したくないのだ。
三室戸寺は山の中にある。決して険しくはないが、駐車場から伸びる坂道をだらだらと登り、その途中で山門をくぐり、最後に六十段ほどの階段を登ると、やっと境内に辿り着く。山を背にして本堂が建っていて、右に目をやると三重塔が見える。そのあいだに鐘楼があって、浮舟の碑はその裏手に佇んでいる。
境内は絵になる景色だ。一見の価値はある。それはそれでよいのだが、私の記憶に残っているのは、参道の右手(谷側)に広がっていた杉木立なのである。今はあじさい園になっている。平成元年の作庭というから、それ以前の景色を覚えている人も少なくなりつつあるだろう。
高三の夏休みを思い出す。朝早くに目覚めたとき、私はふらっと三室戸寺まで歩いて行った。家を出て、蜻蛉石の前を通り、そのまま山へ向かう。今は「かげろうの道」と呼ばれている道である。三室戸寺の参道の坂を登っているうちに、軽く息が上がってくる。杉木立はうっすらと明るい。蝉はまだ眠っているのか、鳴き出していない。その代わり、何の鳥か分からないが、さえずりが間を置いて聞こえてくる。開門前なので、境内には入れない。一休みしてから、山門で折り返して、元来た道を戻る。この三十分ほどの散歩で、何となく心が落ち着くのだ。あの静かな時間は、杉木立あってこそだった。夏の早朝の適度な薄暗さが、私を支えてくれていた。あの景色は失われてしまったが、目を閉じれば心の中で再現できる。それでよい。