山口百恵引退記念作品『古都』について   

監督は巨匠 市川崑、原作は、ノーベル賞受賞の川端文学である。

あらためてきちんと観直してみると、原作をしっかりと踏まえた極めて高度な芸術作品であることがわかる。美しい京都の風景、町家の瓦屋根と北山杉の山林をうまくつなぎこむ映像へのこだわり、鮮やかな場面転換、そして不意に挟み込まれるサブリミナル的な短い映像など、これぞ巨匠市川崑作品というべき映像的技巧の魅力に溢れている。
山口百恵の引退記念作品という金看板が目立つうえ、彼女が引退した後の公開になったために話題が続かず(主役が引退しているために公開後のプロモーションができない)、世の評価があまり正当になされていない感があるが、間違いなく巨匠の才気がほとばしる代表的な傑作である。
そしていまさらながら恐縮だが、山口百恵はプロダクションに大切に守られた一方で、活躍の幅が不当に狭められた感がありその点極めて残念だが、紛れもなく稀代の女優だった。(特に出演作品の制約がなければ、例えば倉本聰脚本、降旗康男監督の名作「冬の華」で高倉健と初共演を果たしていただろうし、演技が名声を呼び、吉永小百合に続く女優のひとりとして、後年の市川崑作品「細雪」等をはじめ、極妻シリーズ、「男はつらいよ」のマドンナ役、五社英雄や北野武監督作品、大河ドラマなどを引き締める中心的な存在となって輝きを放っていたに違いない。)

ただ、彼女の引退記念作品を、川端ノーベル賞文学を原作とし、巨匠市川崑の監督作品『古都』という名作で鑑賞できるのは、映画ファンにとっていくつかの偶然が重なった僥倖というべきであろう。
振り返るとそのあたりの事情が多少、垣間見えてくる。
市川崑は、当時絶大な人気を誇っていた横溝正史原作による一連の「金田一耕助シリーズ」を撮り続け、映画監督として最も脂が乗っていた時期でもあり、実に多忙を極めていた。シリーズ最終作『病院坂の首縊りの家』(以下では『病院坂』と略させていただきます)が公開されたのが1979年。日本映画の金字塔とまで呼ばれる1976年の『犬神家の一族』から東宝のドル箱として計5作品続いた大人気シリーズの最終作『病院坂』を撮り終えた後の次回作品が『古都』だったのである。このあたりの事情を分かっていると、『古都』の味わいもひと際違う。巨匠は、血の因縁やおどろおどろしい連続殺人が主題となる力の入った連作シリーズを撮り終え、ひと段落したところだったのだ。もし、シリーズが続いていたら山口百恵の引退作品を、ということにはならなかっただろう。
だから『古都』は、監督として良い意味で肩の力が抜けた清々しい芸術作品となった。ただ、演出も役者も共通点が多い。明朝体のタイポグラフィで印象強く紹介されるスタッフ・キャスト。常田富士男、三條美紀、加藤武、小林昭二といった金田一シリーズの常連が脇を固め、百恵の母親役で岸恵子が特別出演している。

これまで誰かが指摘したのを見たことがないが、実は、『病院坂』と『古都』には様々な類似点がある。
まずともに「フィナーレ」という表現が、プロモーションを飾る。
『病院坂』はもちろんシリーズのフィナーレを飾る金田一耕助最後の事件として、盛大なプロモーションが行われた。
『古都』は、もちろん百恵フィナーレである。
『病院坂』事件が起こったのは、原作によれば昭和28年である。『古都』の舞台は、映画の中で昭和29年であることが示される。劇場公開が一年後であるが、両者の物語背景の時間差も一年なのである。
舞台が、『病院坂』は奈良県の吉野(原作では東京高輪)、『古都』は京都の中京で、隣り合った古都だ。
『病院坂』の主要な登場人物のひとりが一人二役(法眼由香利と山内小雪)である。しかもキャストは、市川崑自身の指名による桜田淳子(言うまでもなく70年代に山口百恵と人気を二分したアイドル歌手)である。(余談だが、この作品の桜田淳子はとびきり美しい、かつ、性格の違う二役を見事に演じ分けている。わたしは百恵信者だが、この作品の桜田淳子には完全に参りました。山口百恵と事情は全く別だが、女優の彼女が見られなくなったのは極めて残念なことだ。)
そして『古都』も主役が一人二役(佐田千重子と苗子)である。

巨匠市川崑監督が、当時「人気を二分する女性歌手」を「一人二役」として演出する。作品の舞台はいずれも戦後間もない古都。いずれもシリーズもしくは引退の「フィナーレ作品」だったのである。
これらは果たしてすべてが偶然なのだろうか。わたしにはそうは思えない。
勝手な想像で誠に恐縮だが、前年に「金田一耕助最後の事件」となったシリーズ最終作品『病院坂』において桜田淳子を一人二役として起用して成功を収め、演出に自信を得た市川崑は、百恵フィナーレ作品を撮ることになった時、ぜひ、山口百恵の二役で川端康成の不朽の名作『古都』を撮りたい、と考えたのではないだろうか。つまり『古都』は、もし『病院坂』がなければなかったかもしれない作品(別の作品になっていた)ではないかと考えている。

さて、長すぎる前置きはこのくらいにして。
この「古都」という邦画史に残ると言っても過言ではない傑作で、山口百恵は素晴らしい演技を見せた。違和感なく二役をこなす、などというレベルではない。単に顔が同じと言うだけで、異なる環境で全く違う育ち方をした別人格の二人の女性がそこにいるのだ。
以下、ネタバレあります。未見の方はご注意ねがいます。

主人公千重子の出生の秘密。「あなたはわたしたちの本当の子ではないの。」
ドラマでは実によくある使い古されたプロットだ。しかし、ノーベル賞作家、川端康成が用意したストーリーは、次元が違う。
若狭の寒村で北山杉の職人の子として生まれた双子の姉妹。貧しさのために二人を育てることがかなわず、姉娘が老舗の呉服商の店先に置き去りにされた。(映画では明示的に描写されないが、複数の赤子を同時に孕むことは獣になぞらえて『畜生腹』と呼ばれ、忌み嫌われた歴史がある。)
そして川端康成は、ふたりに残酷で皮肉に満ちた運命を用意した。

両親の、子を捨てた罪への懺悔と悔恨の日々。
「実はね、あなたには双子のお姉さんがいたの。でもごめんなさい。育てられなくて、捨ててしまったの……。」
どのような言い方をされたかはわからないが、親の口から残された娘の苗子に伝わったことはそのようなことだろう。
底知れぬ悲しい事実。
そして父の事故死、ほどなくして母も病で他界。苗子はわずか八歳にして奉公人となり、他人の家の家業を手伝いながら暮らすことになる。
冷静に数奇な運命を想えば、物語の主役は苗子のほうだ。しかもそれが千重子の視線から語られるためになんとも奥行きが深い。こうした事実は、後になって千重子が苗子から聞きだす断片的な話を紡ぎ合わせてようやく見えてくるのである。

二人が初めて出会ったとき、苗子の側からはこう見えたはずだ。
「ひとめ姉に逢わせてください。どうかひとめだけでも」。七度参りで同じ願いを繰り返していた苗子は、ふと自分と同じ年恰好の娘が祈っている姿を見る。視線を顔に移した瞬間の驚き。「わたしに瓜二つ!姉さんだ!」。
彼女は願いが神様に届いたと思ったに違いない。

しかし物語は、千重子の側から語られる。千重子は、神棚のろうそくの火が消えるの見て、ふと足の向くままに訪れた祇園宵山の御旅所に向かう。自分によく似た娘から唐突に声をかけられた。
「あんた姉さんや。神様のお引き合わせどす」。
そもそも自分に双子の姉妹がいることなど思いもよらぬ千重子は、驚いてありのままを言ってきっぱり否定してしまう。
「うちはひとりっ子や、姉も妹もあらしまへん」。
千重子がはっきり否定したことで、苗子は我に返るのだ。
「お嬢さん、かんにんしておくれやす。とんだひと違いをしてしもうた。生き別れの双子の姉に逢いたいばかりに」。

苗子はそう言って涙をこぼし、これまでずっと思い続けてきた双子の姉に思いがけず出逢い、たまらず声をかけてしまった非礼を詫びるのである。映画の観客も、千重子も、このときはまだ苗子の数奇な運命を知らされていない。だから苗子の痛々しいほどの感傷的な反応にとまどいを感じるのである。
「双子?」
否定した千重子も、落ち着きを取り戻し、自分と瓜二つの娘を改めて見つめる。
「ほな、ごめんやす」
祇園祭りの雑踏の中、足早に立ち去ろうとする苗子に追いつき、両親について尋ねる。そして二親ともすでに亡くなっていることを知る。苗子がふと差し出した手を千重子が握りしめると、苗子はこころから喜ぶ。
「嬉しい」。
この時、苗子はすでに千重子が姉だと確信している。
「お嬢さん、幸せそうどすな」。
「ええ」。
親に捨てられた姉が幸せに暮らしていたことを知り、苗子はほっとするのである。

苗子の心情は、後になってわかるのだ。映画の中盤、北山杉の杉山を訪れた千重子に、苗子は、亡き親から引き継いだ千重子への懺悔の気持ちを伝える。もし自分がいることで千重子に迷惑がかかったり周囲から変な目で見られるようなことがあれば、「死んでもお詫びがかないしまへん」。
苗子は、捨てられなかった幸運な側の子として、亡くなった両親に代わって自分がその罪を贖うものと心を決めていた。悲壮だが清らかで献身的な決意だ。

運命は、生まれたときは遺伝子から同じだった二人の性格を、全く別のものに育んでいた。
ひとりは、子ができなかった裕福な夫婦に大切に育てられた一人娘として。だから自己を持ちながらも「親には感謝の気持ちを忘れず決して逆らうまい。」それは例えば丹精込めてまっすぐ育てられた北八杉のように。
もうひとりは、懺悔と悔恨の日々を送る貧しい父母のもとに育ち、しかし幼くしてその両親を失い、八歳で奉公人として生きていくことになった孤独な娘として。だから「自分の意志で強く生きていかなければ。」それは例えば厳しい自然にさらされながらも強く育った原生林のように。

市川崑は、苗子の数奇な運命を、短い、しかし強烈な印象を残す映像で語っている。
吹きすさぶ風。荒涼とした海。あばら家から出てくる数人のひとびと。僧侶を先頭に、幼い苗子が遺影を抱えて出てくる。苗子の亡き母を弔う葬列であろう。若狭の寒村の貧しさ、そこで亡くなったものの儚さ哀しさ、みなしごとなった幼い娘を待ち受ける厳しい運命。
とつとつと綴る映像が心に刺さる。

この映画では、京都のとても日本的な情緒を醸し出すふんだんな映像に加えて、おもてなしの根底にある日本独特の「察し」の文化が、建前と本音を使い分ける文化に発展していることも、さりげなく描写されている。
冒頭のシーンで母のしげが用意した急須に茶葉が入っていないことに気づいた千重子がクスっと笑うシーン。(山口百恵はこの演技を実に自然に魅せる)もちろんしげが慌て者だということではない。座布団を出された客がそれをよけて座るというシーンもある。
ちょっとしたシーンで、息抜きのように行き過ぎた「察し」文化の「おかしみ」を描写する。こうした演出も巨匠ならではのものだ。

映画の終盤、苗子は、千重子に誘われ、千重子の家に行き彼女の両親に会い、一晩を共にできることをこころの底から喜ぶ。けれども苗子はたった一度だけと決心している。一期一会。
千重子の幻影のような存在としてそばにいることで、これまで何事もなく平穏無事で幸せな日々を送っていた千重子の人生に大きな波紋をもたらすかもしれない。
苗子がそのことをはっきりと思い知るきっかけとなったのが、西陣織の職人、秀男からの誘い(原作では求婚される)だった。彼は苗子のために自分の図案で織った帯を渡すために、わざわざ苗子の奉公先を訪ねてきたのである。
恐らく苗子が、千重子とはもう会うまいと決めたのは、このことがあったからであろう。
自分の存在が公になれば千重子に迷惑がかかる。まして育った環境も、知識や教養も違う。千重子は懸命に誘ってくれるが、自分など町家の暮らしに馴染めるはずもない。
そしてずっとこころにのしかかる親から引き継いだ千重子への懺悔の気持ち。もし自分がいることで千重子に迷惑がかかるようなことがあれば、
「死んでもお詫びがかないしまへん。」
杉林での再会の折、千重子に伝えた苗子の本心である。

(でもたった一度だけ、ひと晩だけ、姉さんといっしょに。)
訪れた千重子の家で二人きりになった時、苗子は、不意に大粒の涙をこぼす。そして千重子に抱きつくのである。
「苗子さんはよう泣くな」
「うちは気が強うてひと一倍働き者やけど、泣き虫なのや」
苗子の決心をまだ知らない千重子は、苗子がこれほど泣いている理由をはかりかねている。
そして苗子の決心を千重子が本当に知ることになるのは翌早朝の別れ際である。

「お嬢さん、さいなら」。
別れの言葉が本当に切ない。
そして「また来ておくれやすな」。との千重子の言葉に、苗子は黙って首を振るのである。(このときの山口百恵の演技は心を打つ。二役で演じていることなど完全にどこかに飛んでしまっている。それほど自然で、そして本当に切ない。)

昨晩の雪がそこここに残る静かな早朝の町家の間の路地を、苗子を見送る千重子の、そして苗子の後ろ姿が見えなくなるまで、千重子視線の映像が続く。
今度こそ、千重子は、苗子との今生の別れであることを悟り、涙をこぼす。

傑作である。

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