カフェのある人生 新宿ストリートライフ編
カフェ業界に入って3年程が過ぎたある日、突然上層部から言われた。
『お前さぁ、そろそろ店長やる?』
2005年頃のハナシだ。
そうして配属されたのが、今は無き新宿三越の2階にあった、オープンして1年ほどたったカフェだった。
とうとうやってきた、人生初の店長。
しかも新宿はMSCのフッドでもある。
俺はとにかく気合いが入っていた。
当時はまだまだ会社もベンチャーとして黎明期で、同じ屋号のカフェもほんの数店舗のみ。
そんな中『お前の思う様にやって良い』と言われた俺は、思い切り自分のカラーを出す事にしたんだ。
つまり他の店舗と歩調を合わせたり、同一ブランドとしてのブランディングを全く考えようとしなかった。
初店長として赴任した当時は超スタッフ不足で、ベテランスタッフと2人でクローズ作業を朝までやる事が何ヶ月か続いた。
その後も、初めてホールに出てサービスをしたり、社長の言葉や『スーパー店長的なビジネス本』を読んで勉強したりと、新米店長として何でもガムシャラにやっていた。
毎日、本当に必死にお客さんとカフェという仕事に向き合っていたんだ。
もちろん色々な問題は起きたけど、一つ一つに向き合って、とにかく店作りに心血を注いでいた。
そうした努力が少しづつ実り始めたのは、
赴任してから1年は経ってからだった。
気がつけばカフェのスタッフには、DJや彫り師、スケーター、アウトローだけじゃなく、ゲイや学生達、もちろん素敵な女子達まで揃っていた。
そしてそこから、快進撃が始まった。
そんな超個性的なスタッフ達が活躍する事で
俺のカフェは人気店として繁昌し、
某業界誌には『〇〇カフェ現象』と特集ページを組まれる程注目される店になっていた。
これは、当時のスタッフ全員で成し遂げた事だ。
その中でも特に、赴任当初に朝まで一緒にクローズ作業をしていたマサは、かけがえのない友人でもあり、俺にとってサービスの神様の様な男だった。
お客さんとして彼のサービスを受けて感動し、働き始めたスタッフもいた程に、マサの存在感はカフェの中でも際立っていた。
マサのホスピタリティには俺も当然感化され、tattooだらけの野郎共と一緒にバースデーソングの練習をしたり、深夜に全スタッフでMTGを繰り返したり。
そうやって単なる飲食店ではなく、そこに集まる全ての人にとってのコミュニティの場として、カフェを作り上げる事が出来た。
当然その動きは社内でも注目を浴び、俺の率いた新宿三越店はとうとう社内表彰される程のチームになっていった。
そういう状況になってもビジネスライクに仕事をしていなかった俺は、クローズ後にはスタッフ達と夜な夜なスケートしたりして遊んでいた。
雨の日には店内でスケートをして床を傷つけ、翌朝スタッフからブチ切れノートが書かれていた事もあったな。
店内BGMはヒップホップやミクスチャーをかけたり、壁には適当にペイントしてみたり、クラブイベントやフェスにタコライスクルーを作って参加したり。
老舗デパートの中にあっても、ストリートカルチャーを大事にする事で、等身大の自分らしい店作りにチャレンジしていた時代。
イカれた奴らに囲まれ、色々な出来事があったが、俺にとってはキャリアの原点の店だ。
そんな中、とうとう俺が店を離れる日がやってくる。
その時にはスタッフの数名が社員候補として手を挙げていたし、その中にはマサもいた。
頼もしいとしか思えず、店を離れる寂しさはあっても不安は無かった。
『コイツらがいれば大丈夫』
それ位に信頼出来るメンバーだった。
しかし俺が店を離れた直後くらいに、マサはある事件のせいで、そのまま退職する事になってしまった。
その後も再起を図り必死に努力を続けていたが、数年後に再び事件が起こり、とうとうカフェの世界に帰ってくる事は出来なかった。
マサもストリートな男だったので人から理解されない部分もあり、中にはやっぱり残念な気持ちになったスタッフも多かったと思う。
その後、当時の新宿三越の様なスタイルで営業していく事は、むしろ反面教師として社内で様々なルールを作るキッカケとなってしまった側面もある。
でもストリートはカウンターカルチャーであり、カフェも同様だ。
社内外で評価されたとはいえ、褒められる様な事ばかりでは無かったけど、あの当時の熱量は今でも全く色褪せていない。
もちろん年と経験を重ねてアラフィフとなり、
今はあの時の程のヤンチャさは無い。
だけど俺とってのストリート、そしてカフェカルチャーは、2023年現在でもずっと続いている。
そして、俺は今でも当時のスタッフ全員の写真を持っている。
※後日談だが、マサはカフェの同僚だった女性と結婚し、家族を作り、今は関西に住んでいる。
懐かしい2人が営むその旅館に、当時のスタッフ達といきなり行こう!といま企んでいるところだ。