かかる日本人ありき
藤井一中尉の生き方
妻子の入水自殺でかなったものとは
皆さんは、藤井一(はじめ)という、旧日本軍の軍人をご存知だろうか。
この方は、先の大戦末期に特攻隊員として戦死された方のひとりであるが、その死に至るまでが、とても悲しくまた感動的なものなので、ぜひ多くの方に知ってもらいたいと思い、筆をとることにした。
藤井一は、茨城県生まれの陸軍軍人で、大戦末期には熊谷陸軍飛行学校で、少年飛行兵に教育を行う立場の教官であった。
(当時の階級は中尉)
その頃の日本は、もはや敗戦濃厚となり、藤井中尉が学校で教える生徒は、卒業後は特攻隊として死地へ送り込まれる少年飛行兵ばかりであった。
藤井中尉は、熱血漢で、忠誠心が強かったが、本来根は優しかったため、職務とは言え大切に育て上げた教え子を自らの手で死地へ送り込むことに苦しむようになり、生徒へはことあるたびに
俺も必ずあとから行く
という約束を繰り返すようになった。
しかし彼はこの約束を繰り返すたびに
教え子たちが毎日のように敵艦に
突っ込んでいく
俺はいつまでこんなことをしてい
るのか
と、ますます苦しむようになって、ついに自らも特攻を志願する。
しかしながら、既に結婚して、二人の子供もおり、学校側にも教官の不足等の問題などもあって、軍は藤井中尉を死なせるわけにはいかずに、その願いを聞き入れてくれなかったものの、彼は何度断られても特攻を志願し続けたのである。
藤井にとって、生徒との約束は、命をかけた誓いであり、その誓いを破るわけにはいかないと考えていたからだ。
ところがそのことが藤井の妻福子の知るところとなった。
当時藤井には、妻福子との間に
三歳になる長女一子
生後四ヶ月の次女千恵子
がいたが、福子は、一度決意したことは最後まで変わらない夫の性格をよく知っていたため、ついに彼女も重大な決意を心中に宿すこととなる。
そして、昭和19年12月15日の朝、藤井中尉の家の近くを流れる荒川に、二人のこどもを紐で結びつけた母子三人の痛ましい溺死体が浮かびあがったが、それは藤井の愛する妻子の変わり果てた姿であった。
藤井の自宅には
私たちがいたのでは、後顧の憂い
となり、存分の活躍ができないで
しょう。
一足お先に逝って待ってます。
という妻の遺書が残されていた。
変わり果てた姿を前にした藤井は、そばにいた部下に
俺は今日1日だけは涙を流す
勘弁してくれ
と言って、三人の前にうずくまるや号泣しながら、やさしくその白い肌についた砂を手で払ってやったという。
三人の葬儀を済ませたあと、藤井は、死んだ子供に対して
父も、近くお前たちのもとに来ます
戦地で立派な手柄をたてて参ります
それまでは、お母さんと一緒に、
仲良く待っていてください
という決して読まれることのない手紙をしたためた。
そして、自らの小指を切って、血書嘆願による特攻志願を改めて提出したのである。
既に、周りの誰もが、藤井には死しかないと理解できていたため、軍はこの嘆願を受理して、特攻隊員として異例の任命を行った。
藤井中尉は、学校を去るにあたり、生徒ひとりひとりを教官室に呼び
あとは頼む
もしこの戦争で生き残ることが
あれば、これからの日本を頼むぞ
と励ましたという。
昭和20年5月27日、藤井中尉は
陸軍特別攻撃隊
第四十五振武隊快心隊
の隊長として、鹿児島県にあった知覧飛行場に着任し、その翌日の
5月28日早朝
第九次総攻撃に加わり、沖縄方面へ出撃して
われ突入す
の電信を最後に、還らぬ人となった。
享年29歳であった。
特攻隊という戦法をとったのは、過去に日本しかない。
以前ニューヨークの高層ビルに旅客機ごと突っ込んだイスラム原理主義者の起した事件や、その後彼らが行った自爆テロのニュースを思い起こす方がいるかもしれないが、あれは民間人を狙った卑劣なテロ行為であって、戦艦等を目標として行う戦闘行為としての特攻とは異なるものである。
特攻作戦は、飛行機のほか、小型の潜水艦や艦艇を使ったものもあったらしく、諸説あるものの、その作戦に従事して戦死した者は、陸海軍合わせて6,000人あまりにのぼるという。
この作戦を目のあたりにした米軍はじめ欧米の連合軍諸国は、日本が示した民族としての団結と強さに畏怖し、今でも恐れを抱いているという。
なんのことはない。
今の日本の平和は、この特攻で散華された英霊によって守られているという一面もあるということになるのである。
また作戦を指揮した軍人も、終戦後その責任をとって自決したものも多い。
特に、特攻作戦の生みの親と目されていた
大西瀧治郎中将
は
特攻隊の英霊に申す
よく戦いたり、深謝す
と始まる遺書を残して、割腹自殺をとげたらしい 。
介錯も受けることなく、長時間苦しんだ末の最後だったらしい。
もう80年以上も前のことになってしまっが、このように、かって日本には、自らの命をかけて日本を守り、そしてその責任をとった人たちがいたのである。
不戦の誓いや平和の尊さを繰り返すことも大事かもしれないが、時代の荒波に翻弄されながらも、自らの命をかけて戦争の時代を駆け抜けた世代があったことも、決して風化させてはならず語り続けなければならないと思う。
また、先の大戦により、それまで欧米の植民地として、塗炭の苦しみを味わっていた東アジアやアフリカの国々のほとんどが独立をはたして、帝国主義の時代が終わりを告げた事実も忘れてはならない。
あの時代に、欧米と戦う力のあったのは日本だけだったのだ。
日本が戦ったおかげで、世界地図は一変して欧米列強が世界を支配する時代が終わったことを考える時、負けたとは言え、日本の果たした役割は、とてつもなく大きかったと思う。
矢弾尽き 天地染めて散るとても
魂還り 魂還りつつ 皇国護らん
(沖縄戦司令官 牛島満中将の辞世の句)
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