CEOって何ですか?
歴史から学ぶ真のリーダーとは
あまりにも悲しかった総理の発言
日本には、物事を決めようとする時に、事前に
根回し
というものがある。
これは話し合い絶対主義の日本において、できるだけ早く結論を出すための「裏技」的なものだろう。
会社における
稟議書
などが典型的なものだ。
しかしこれは多数決で結論を出す方法と違い全会一致が原則で、たとえ一人でも反対すればその裏技は成立せず、いつまで経っても結論が出ないこととなる。
こうした日本式決定手続きの欠点を補うために導入されたのが
CEO
Chief Executive Officer
日本語訳すれば「最高経営責任者」という制度らしい。
この言葉は、最近ニュースや経済番組などでもよく耳にするようになったので、聞き覚えのある方も多いと思う。
CEOは、文字通り組織の最高責任者ということで、通常の会社組織の役員会や社長の上に立つリーダーである。
聞こえは悪いかもしれないが、いわゆる「独裁者」だ。
ただし責任は全てCEOが取る。
何か民主主義の反対の価値観のようなイメージがあるが、喫緊の課題を解決しなければない時、この独裁者のリーダーシップが力を発揮することも事実だ。
世の中には、とても侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしていたのでは間に合わないことも多々あるのだ。
ところが歴史を紐解けば、実は日本にもこのCEO的なリーダーがいた。
それは「織田信長」だ。
彼がまだ小国の領主だった頃のことであるが、物事を決定しようとした場合、彼はまず主だった者を集めて意見を聞いたふりをする。
そして自分の意見に最も近い者の意見を「お前の意見を採用する」と言って採用し、自らの考えを押し通したそうだ。
信長は最初から話し合いで物事を決めるつもりはなかったのだ。
しかし信長でさえそのような「根回し」の恰好をしなければならなったのは、「和」を重視する家臣から反発を買うことを恐れていたかららしい。
日本の実情を考慮した見事な日本版CEOの先駆け的存在だった。
独断専行型の英雄と目されている信長ですらも、「話し合い」つまり「和」の精神だけはないがしろにできなかったのである。
しかし彼はその後段々この「和」をないがしろにしたため、腹心の部下のひとりであった明智光秀から謀反をおこされて命を落とすことになる。
それだけ日本社会においては、「和」の精神は根強く蔓延っている。
そして信長の例からも分かるように、多くの日本人は飛びぬけたリーダーシップをなぜか毛嫌いする。
「和」の精神に反するからだろう。
歴史を顧みれば、それがいい方向に働いて繁栄をもたらした時もあれば、悪い方向に働き某国の危機を招いたこともある。
この話し合い重視の「和」を重んじる発想は欧米にはあまりないもので、江戸末期に日本に開国を求めてやってきた欧米人は、悠長な意思決定過程に戸惑いといら立ちを感じた。
そして日本人のもうひとつの特徴は、話し合いで解決できない時、問題を「先送り」するということだ。
アメリカから大統領の書簡を持って遠路はるばるやって来たペリーにさえ一年の猶予を求めて一端帰らせたほどだ。
そして、その手法は伝統として残っており、いまだに問題を先送りするという手法は、日本のあらゆる社会でよく見られる。
憲法改正問題さえ長年先送りされ、いまだに実現の道筋さえついていない。
ただ彼らもあまり最初から高圧的に出ると日本人がどう出るか分からなかったので、最初は下手に出ていた。
ところが次第にしびれを切らして高圧的な態度に出たところ、意外にも相手の態度が軟化したことで
日本人は高圧的に出ると
こちらの言いなりになりやすい
ということを学んだ。
そしてそれに味をしめ、その後は「脅し」と「恫喝」が彼らの外交手法となった。
彼らの外交姿勢は高圧的なものに転じて、江戸幕府は最後には彼らの理不尽な開国要求に唯々諾々と応じるしかなかった。
アメリカに至っては、その後も日本に対する外交スタイルは一貫しており、最終的局面で高圧的手法に出て来るというスタイルは、現在に至るまで何も変わっていない。
もはや、日本式「和」の解決法や「先送り」という一時しのぎの解決法は今後ますますスピード化する世界の情勢には通用しなくなるだろう。
ただ日本人の「和」の精神は、神代の時代より継承してきた文化ともいえるもので、日本人ひとりひとりのDNAに染みこんでいることから、そうおいそれと変えることはできないだろう。
ではどうすればいいのだろうか。
簡単である。
「和」の精神はさておき
国際社会では自分の言いたいことは
きちんと言うこと
である。
世界は是々非々で動いている。
是とは「正しいこと」、非とは「正しくないこと」を指し、是々非々とはそれを私情に流されず判断することを指す。
しかし世界中どこの国もそれを自分の物刺し、つまり自国の価値基準や損得勘定で判断する。
しかし日本だけが、ここに「和」の精神を持ち込もうとするからやっかいだ。
何も日本だけが、「和」の精神を持ち出して
なるべく穏便に
とか
波風を立てない解決法
などと手探りしても通用しない。
交渉も戦いの一種と考えた時、その発想は最初から下手に出たと思われるだけでなめられるだけだ。
「和」の精神は今のところ、ワールドスタンダードとはなっていない。
世界は未だに弱肉強食の理論でまわっている。
日本の近代史もしっかりと検証すれば、何も日本だけが悪者ではなかったことがすぐに分かる。
その歴史的事実をなおざりにして、相手と「和」の精神でまず謝罪と補償で臨もうとするからなめられる。
欧米諸国に対しても過去の植民地支配をカードにしたいぐらいだ。
しかし彼らはそんなものに絶対になびかないだろう。
なぜなら彼らには「和」の精神がないからだ。
相手の主張には自分の主張で返し、決して負けない。
これが外交の基本的スタイルだ。
日本だけが「和」の精神で「なるべく穏便に」と思っているだけだ。
そしてこの是々非々は来日外国人に対する処遇にも言えることである。
日本は法治国家である。
また属地主義と言って、日本国内においては、国籍の如何に関わらず日本の法律を適用するのが原則だ。
何もそれに従わない外国人に対してまで甘い顔をする必要はない。
日本に来ても自国の風習や文化を貫いて近隣住民とトラブルを起こしたり法令を無視した行動をするなど日本に馴染まない外国人には、あらゆる法令を駆使して強制的に排除して退去させればいいだけのことである。
このようなことを書くと、メディアは必ずといっていいほど
差別だ
多様性に理解が足りない
などと騒ぐ。
しかも、難民かそれに類似する外国人居住者が地元住民とトラブルを起こしても、ほとんど報じられることはない。
日頃から多様性を報じている関係上、自分たちの主張と矛盾する報道はできないところだろう。
しかし考えてみてほしい。
逆に日本人が外国に住んでいながら自国の文化と伝統に固執し、その国の住民と交わらなかったりトラブルを起こしたりしたら、その国の人たちは日本人のことをどう思うだろうか。
今ヨーロッパでは、多くの国が難民や移民で治安が悪化している問題に直面しているが、それと同じことにならないだろうか。
それを「多様性」などと容認する国はないだろう。
だから
郷に入れば郷に従え
という諺はワールドスタンダードなのだ。
多様性はあくまでも国家が安泰であってこそ許容されるものであって、それで国家の基盤が揺るぐようになっては、もともこもない。
公共の安全と秩序の維持に優先する個人の自由はない。
それを許せば世界は無秩序と混乱の坩堝(るつぼ)と化す。
メディアの喧伝で洗脳された日本人は、そこに気づいておらず、警察でさえそのような外国人犯罪の捜査には、批判をおそれて及び腰だ。
ただし、日本を好きでいてくれる外国人は温かく遇して、日本のしきたりや伝統に溶け込まさせればよい。
ここでも是々非々の対応が大切なのだ。
郷に入れば、郷に従えの論法(これは世界共通の概念らしい)に従ってくれる外国人ならば、次第に日本的「和」の精神も理解してくれるはずだ。
そして「和」の精神に日本発展の源があることに気づいてくれるはずだ。
そのようにして日本的「洗脳」を受けた外国人が、帰国後日本の素晴らしさを広めてくれることになる。
彼らが世界中に日本の素晴らしさを伝導してくれる「宣教師」となってくれる。
外国人観光客のオーバーツーリズムという問題もあるが、「和」の精神の輸出のためのコストと思い、この際少し目をつぶる必要(ただし、それもあくまでも日本人の許容できる範囲内)があるかもしれない。
観光立国大いに結構!
おまけに日本にお金まで落としてくれる。
捉え方は悪いかもしれないが、彼らが「和」の精神を輸出する手段と見ればよい。
円安も考えようによっては言い面もあるのだ。
しかし日本人が肝に銘じておかなければならないことがひとつだけある。
「和」の精神と「多様性」は似て非なるものだということだ。
とかくメディアの喧伝により、日本人は押しなべて
外国人は善
温かく遇するべき
という潜在意識を持ちがちだが、日本人もいろいろいるように、外国人も決して日本に好意的な人ばかりとは限らない。
その好意的でない外国人まで「多様性」で許容してしまっては、日本が崩壊する。
また既に江戸末期に見抜かれたように、日本人はことさら周囲とのトラブルを嫌う民族だ。
しかしそれは日本人同士であればいい方向に働くかもしれないが、こと「和」の精神を有しない外国人には通用せず、最終的にはペリーのように
日本人は脅しに屈する民族だ
と判断して強圧的な解決法に転じることとなる。
「和」の精神を逆手に取っているだけだ。
何もそのような手法で臨んできた相手にまで「多様性」理論を持ち出して「和」の精神で応じることはない。
「和」と「多様性」を混同させたままでは、その混乱はヨーロッパ諸国の比ではないかもしれないことを肝に銘じておくべきだ。
今日本に必要なのは、日本の立場をしっかり主張でき、相手に対して日本的価値観を持って是々非々の対応ができる強いリーダーシップを発揮できる「CEO」だ。
問題の「先送り」では、いつまで経っても日本は自虐史観にまみれたままで、唯々諾々と外国人の要求に応じるしかない民族のままだろう。
外国人犯罪が発生しても処分保留で釈放する。
日本の国土や資源を切り取られるように外国人に買われても、何ら対策を講じようとしない。
日本の領土や領海に侵入されても威嚇射撃すらしない。
いつまでも過去の戦争に謝罪と補償を繰り返すばかりの近隣外交。
国土を守る戦いの犠牲になった先人たちへの参拝さえ外国の顔色を窺う政治家。
自国の軍隊すら持たず、先の大戦国にいまだに広大な基地を貸し与えて、経済的自由しか与えられず、とても独立国とはいえない惨めな姿。
そのような今の日本の姿を見れば、先人たちは、英霊たちは何と言うだろうか。
何を思うだろうか。
俺たちはこんな情けない姿の日本
のために命がけで戦ったのではない
と、憤りを禁じ得ないかもしれない。
先日、石破総理が公の場で
総理は他の閣僚の何倍も大変だ
寝る時間もあまりない
しかしメディアを見ればあまり
私の評価は芳しくない
と嘆いていた。
耳を疑った。
このような発言をする人が日本のリーダーなのだ。
そんなことは最初から分かって総理になったのではなかったのか。
寝る時間も惜しんで国家に奉仕する信念など最初からなかったのか。
国民の評価よりメディアの評価が大切なのか。
何よりも一国の総理たるものが、公の場で口にすることか。
はっきり言って彼は総理の「器」ではなかったようだ。
ただ上に立つ者を酷評することは誰でもできる。
問題なのは日本は民主主義社会で、間接民主制なるも、この総理を選んだのは我々国民になることだ。
そしてその政権を自民党に託したのも我々日本人なのだ。
我々にも責任があるのだ。
今後の日本に必要なものは、強力なリーダーシップを持った、そして命の危険も顧みず日本のために働く日本人「CEO」かもしれない。
西郷隆盛のように
命もいらず名もいらず~
(西郷南洲遺訓第30条)
と公言するような人物に国家の命運を賭ける真の日本のリーダー(CEO)になって欲しいと思った現総理の悲しい発言だった。