対話考#3「対話の準備」 【連載】
1 #2の補論
どうも、連載3回目を迎えました。
前回は、日本人としての視点で「対話を阻むものってなんだろう?」と考察しました。高取正男の民俗学の知見をお借りしました。日本人の価値観は近代化によって「接ぎ木」され、台木となる部分は無意識下に押し込められたのかもしれないとの考え方でした。
他にも、「江戸〜近現代」の民俗学は柳田國男、「昭和初期〜平成」の民俗学は司馬遼太郎などが有名どころです。また、「タテ社会」といえば、中根千枝。「事大主義」の言葉を造った福沢諭吉など、ご興味に従って書籍をお買い求めください。民俗学、面白いです。
ところで「台木となる部分は無意識下に押し込められた」との考え方は、モヤモヤの正体を掴めたようで、またどこかへ隠れていってしまうような感じがします。近代化の前の「台木」をどう探り当てるか?
それに気づくことは至難のワザでしょう。
ということで、
今回のテーマは「前回の話で日本人の民俗学的な特徴が影響しているのは、まあわかった。せめて、対話しやすくするにはどうしたらいいのか?」を考えていきます。
筆者が言いたいことを小出しにすると、国民全員の内部を言い当てて「あなたはこういうクセがあるとか」「気づいてないところはこういうところかもよ」なんていうわけにもいかないので、自分の内部を自分で(もしくは他者との関わりの中で)掘り当てることはできそうじゃないか。という主張なんです。
2 気づきを自分にぶつける
行動や価値観の源泉「台木」に気付くことは「自己対話」の一つと言っていいと思います(もちろん自己対話はもっと広い意味があります)。そして、自己対話は、他者との「対話」の第一歩でもあり、人生を豊かにする上では必要条件だと感じています。特に、西洋の論理「私」が輸入され、定着した現代社会では。
自分と自分が対話する「自己対話」とはいったものの、なんだか難しそうな概念です。
「自分と喋るなんてどうやるんだ」と思いませんか。
それに一定の示唆を与えてくれるものヒントとして、MITのD・A・ショーンが体系化させた「リフレクション(省察)」概念にヒントをもらおうかと思います。
一旦、なんの文献引用なしに、筆者独自のアウトラインをお示ししました。第一回で登場した、中原先生たちの書籍にあった説明方法「先に簡便な概略を伝える」をちょっと参考にしています。
まずは「まあ、とりあえず『経験を振り返る』んだなあ」「いろんな場面で使えそうなんだなあ」と抑えていただきたくての説明でした。
それを持ち歩いてもらって、込み入った話に入ろうかと思います。
筆者は、学生時代〜今まで「リフレクション」を勉強していました。
大学院入学当初は、「先生として授業が上手になる」ことがリフレクションを学ぶ目的でした。例えば、自分が実践した授業のビデオを撮り、文字に起こして、検討する。そして、気づきを元に徹底的に言語化するのです。見えていなかった部分に気付くとき、すごくワクワクしていました。
とはいえ、授業の「行為」を振り返るという営みなのですから、実のところ、どんな実践でも活用できる概念です。『省察的実践とは何か/D・A・ショーン』では、専門職と言われる医療・経営・技術・建設・教育といった広い分野を対象にしています。
なので、人生における「行為」や「経験」といったものなら、大抵のことは振り返ることはできます。
こんな風に、リフレクションを勉強するうちに色々な場面にも使えるなあと気づき始めたのです。
ちなみに、2017年に「リフレクションしながら実践する職業人をどう教育するか」についての本も刊行されました。ネットでは品切れが続いているので、どこかの書店かオークションサイトで見つけた時は、興味があるのなら買ってしまうといいです。
「自分と喋るなんてどうやるんだろう」という先ほどの問いに答えたいのですが、学校の授業にリフレクションを使っていた話で、すでにヒントが出ていたように思います。
「リフレクションの意義」を一言でいうと、「見えていなかった部分に気付けること」なんじゃないかと思っています。多分それが、リフレクションのアイデンティティです。
自分と対話しようと、他者と対話しようと、この意義は同じではないかと思うのです。
「今まで気づけなかったことに気づく」ことを大雑把に捉えると、今や死語となってしまいましたが「複眼的」だとか、「多視点」みたいなイメージがいいかとと思います。
個では気づけなかったことに気づくのですから、当然なんらかの外からの刺激が必要です。
3 複眼的な視点で俯瞰し、対話に備える。
さあ、リフレクションの概論を述べてきました。この連載の主題である「対話」にリフレクションがどう生かせるのかというと、「対話の前の準備段階」と捉えています。
よく、「自分の考えはあるんだけど、言葉にするのが苦手。言語化するのも発言するのも辛い。」という方をお見かけします。
それを受けて、疑問が浮かびます。
そもそも、「考えを持っている→言語化する」のか、「言葉を獲得している→考えとして立ち現れる」のか。
私は、後者ではないかと思っています。つまり、物事をポジティブ・ネガティブに捉えるのは、そういう言葉(枠組みとしての)を持っているから、そう捉えているのだと思うのです。
少し上から目線で、厳しめの言い方をすると「考え以前に、あなたの認識ってどれくらい説得力のあるものなの?それは検証したの?」という哲学的な問いです。
もちろんこれは筆者自身も、日々自戒するように考えていきたいところです。
以下をご覧ください。
「美しい山だなあ」という、誰かの感想を聞いたとします。
筆者はそれに対してこう思います。
美しい山というのは、存在するのか?と。
(現実に、山の景色を見ている人にこれを言ったら、興醒めするのでやめましょう笑。雰囲気をぶち壊して、嫌われますね笑。)
では、アプローチを変えましょう。あなたが言葉を獲得していない赤ちゃんだった場合、山を「美しい」と感じそうですか。
否ですね。
語彙をほとんど持っていない赤ちゃんにとっては「緑色の塊」という認識かもしれません。そもそも遠近感覚も定かではないはずですから、何百mか先に大きな物体があるという認識すらできないでしょう。
これは一応、ヘーゲルあたりからニーチェ、フッサールなどが「認識論的転回」としてある程度まとまった体系があります。『哲学とは何か/竹田青嗣』で非常にわかりやすく述べられています。
また、「言葉が世界を作る」で有名な、社会構成主義にも似たような話があります。合わせて『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門/ケネス・J・ガーゲン』を参照ください。
「自分の考えはあるんだけど、言葉にして、発言するのが苦手。」という方にもう一度お聞きしたいのですが、「自分の考え」とは一体なんですか?それは、あなたの感情にどれほど合致していますか?また、あなたにとってどんな意味がありますか?
ここを抜きに対話すると「自分の信念」に背くことになりそうです。
例えば、山の話をよくよくリフレクションしてみたら「周りが美しいと思っていそうだから、美しいと言っただけ」ということに気づいてしまった場合、あなたはちっとも山を美しく思っていなかったのです。
それなのに、他者との対話場面になって、「ヤマハウツクシイ!」と主張しても、2〜3回やり取りをするとだいたいボロが出る。しかもボロが出たことにすら気づかないのです。
それでどうなるかというと、もうヤケクソになって「いろんな人がいる」なんて、相対主義的な落とし所を見つけることが定番ではないでしょうか。
語彙の量が世界認識を規定している具体例を述べてきました。まずはこれに気づくことが、対話の準備段階で重要なところです。本気で対話を発生させようとするなら、まずはそこにフォーカスしてみたいです。
どんなに本を読んでも、人の話を聞いても、それらを受け入れる認識論的なマインドセットが準備されていないと、何を聞いても「聴くこと」はできません。
リフレクションの方法はたくさんあります。メンタルモデルを知るとか、ワークシートを使うとか、複数で質問し合うとか。
これらの方法、気づけなかったところに気づくためのツールです。
しかしまず原理原則に遡って考えたいです。なので、ちょっとお堅い、哲学的な話にお付き合いいただいているところです。
4 私たちは、いつから山を美しく感じるようになったのか
では、赤ちゃんが成長して、「美しい山だ」と感動するまで、どんなプロセスがあるでしょう。
ざっとこの程度でしょうか。この認識の段階は、何か裏付けがあるわけではありません。もし、科学的根拠や理論的にまとめれば、もっと精度の高い段階整理にはなります。
ただ「経験を積むごとに、語彙が豊かになっていく様子」は、そう変わることはないはずです。
生活経験を積むことで認識がアップデートされているということが重要です。
とりあえず大雑把な認識段階をもとに話を進めます。
特に、山への認識の質が変わってきたのは小学校〜中学校あたりでしょうか。幼児期の単なる山の定義や特徴だけではなく、成長するに従って、山に関する「日本の伝統的な認識」や「自然科学・社会科学の知識」なども交えて山を捉えるようになっています。
これを「複眼的・多視点」の変化と言っていいかと思います。
それは例えば、小学校あたりで地域の山に関する伝承を聞く体験をするとか、ジブリ映画で山の神性を感じたりとか、はたまた、実際に登山に行って山を五感で感じる体験をするとか、いろいろな経験が認識へ繋がっているのだと思います。
この時期、「聴くこと」の態度はかなり純粋で、相当力強く準備されているはずです。子どもは、成人よりも比べ物にならないほど世界への興味があります。子どもは世界と「対話」するスペシャリストなのかもしれません。
逆説的ではありますが、私たち大人はいつの間にか、世界を知っているものだと錯覚するようになりました。「聴か」なくていいと勘違いしてしまっているのかもしれません。こういう大人の階段が、対話を阻む弊害になっているかもしれませんね。
では、こんな大人の私たちに捧げる「マインドセットの醸成過程」を辿ってみましょう。
仮の場面を設定しますが、問いに合わせてご自身の中でも振り返ってみてください。
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まず、先の例題と比べると、あなた個人の物語は全く違うはずです。
あなた個人の物語を聴かせてください。
あなたの心の中の山は、何色でどんな匂いがしますか?
今までなんという山を見て、感動してきましたか。
山でどんな経験がありますか?
それはいい記憶ですか?辛い記憶ですか?
同じように、百人百通りの山物語が、その人の「山」観を作っているはずです。この質問を、百人にしたら、それぞれ違う答えが返ってくると思います。いろいろな人に「山」観を聞いてみたくなりませんか?
こういう欲求が、複眼的に捉える態度の準備です。
では、自分の「山」観と、他者の考えを照らし合わせてみましょう。
自己の心の中の山は「緑」だと思っていたのが、
他者の心の中の山は「深緑と土色、灰色のドット柄」だったらどうでしょう。
もう一度、山に行って確認したくなりませんか。
「本当にたくさんの色がある!」と気づくかもしれません
言葉を得て、世界認識が変わったということです。
でもあなたは気づいてしまった。「深緑と土色、灰色のドット柄」に加えて「赤」もあることに。
それをまた持ち歩いて、観察し、次の対話に備えるのです。
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5 なんのために振り返るのか
山エピソードを巡る旅、お疲れ様でした。
さて、筆者はリフレクションの対象は、目的に従属すると思っています。今回の山の話では、目的はなんでしょうか。「もっと山を好きになる」とか「アウトドアライフを豊かにする」とか考えられます。
これは、テーマからどう対話を展開させていくかに直結します。
リフレクションする内容は、基本的になんでもいいです。
あなたにお任せです。
よくリフレクションは自由で、何をいっても良いと勘違いされる方がいます。もしくは、何も感情が揺れなかったのでリフレクションが思いつかないという人がいます。
まあ、かつての筆者なんですが笑
そこで点検してもらいたいのが、「あなた自身の幸せを志向する目的に合致しているのか」ということです。
こういう目的の話は、また次の回でしようかと思います。