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シーオーナメント(ショートショート)

 子供の頃、海に潜って危うく波に攫われそうになった事があった。これはその時にした、不思議な経験の話だ。
 よく言われる話で、子供が溺れる時は静かに溺れてしまう、というものがある。その時の僕も同じだった。
 意気揚々と泳いでいたのは良かったのだけれど、それなりに海岸から離れてしまってから気づいた。向こうまで戻る体力が残されていないかもしれない。
 それに気づいた瞬間からはもう、不安や恐怖で胸が一杯になった。
 どうにかして、足のつく場所を探さなければ、と思ってけれど、周囲を満たしているのは海水のみ。自分の足が届くはずもない、はるか下方に沈む珊瑚や岩の、様々な色の塊が、揺れる波間からちらちらと見える。いつもは綺麗だと喜んでいるのだけれど、この時ばかりはその姿がひどく不気味に見えた。
 いくら周囲を見回しても何もない。心を落ち着ける場所がないことの恐怖が、これほどまでに恐ろしいものなのかと、幼心に感じていた。
 どうにか移動しようと、体の舵を切るように腕を動かしてみるけれど、周囲の波をほんの少し乱すだけで、本質的には何もできていないのが分かった。そうなると余計に焦ってしまうもので、どんどん体力を消費してしまう。自分の力がことごとく波に溶けていくのを感じながら、もうだめだと思った。
 すっかり重くなった腕がぽたりと波の上に落ちるのとほぼ同時に、これまでで一番大きな波に飲まれた。それまでどうにかできていた呼吸も、その一波でできなくなってしまった。
 鼻の奥に入り込んだ海水が、皮膚同士をぴりぴりと刺激する。その不快さで息が詰まり、残りわずかな酸素をすり減らす。
 自分の体がどの方向に向いているのかも分からない。どちらに向かって進めば、そして、どれだけ進めば再び呼吸ができるのか。
 意識が途切れかけた時、海水で滲む景色の先で何かが輝いているのが見えた。
 それは泡のようにキラキラと輝いていて、けれどどこか硬質的な輝きを持っていた。命の危機に瀕しているのに、その輝きは妙に心を落ち着かせた。
 感覚のない指先で、その光に手を伸ばす。
 腕の先に、微かに物質同士がぶつかる抵抗を感じて、そこから先の記憶はぷつりと途切れた。

 目を覚ますと、僕は砂浜の上に横たわっていた。どうやってここに戻って来れたのか、自分でも分からない。ただ、手の中に何かの存在を認めて、ゆっくりと開く。
 転がり出したのは、一つの球体のオーナメントだった。
 海の青緑色を湛えた、水光模様の滲むオーナメント。日差しを浴びてしきりに揺れている。
 砂浜にうつ伏せで横たえている体の向きを変え、上体だけを起こす。
 オーナメントを日差しに透かす。とても綺麗だ。それの匂いを嗅ごうと、鼻先に近づける。その瞬間、景色がいつもより鮮やかに見えるほど、呼吸が楽になった。驚いてオーナメントを落としてしまう。それは転がり、砂にまみれながらも、変わらず日差しを反射している。
 その輝きがどうにも忘れ難く、僕はそれを持ち帰ることにした。このオーナメントはどこか異国の地から流れ着いたのか、それとも別の理由で生まれたものなのか。それが知りたくなった。
 家に帰った後、僕の異変に気づいた両親に問いただされ、何があったかその一部始終を話すと、こっぴどく叱られた。けれどその中に、無事で良かったという想いが透けて見えたので、僕もどうすればいいか分からず、二人の言葉に頷いたり、分かった、と答えたり、それぐらいしか出来なかった。
 それから年月が経って、分かった事があった。
 件のオーナメントは、酸素を主成分にしてできていた。
 それがどうしてあんなふうに形状を保っていられたのか分からないけれど、あの時鼻を近づけた時に呼吸が楽になったのはそういうことだったのか、と思った。
  海で採れたオーナメント。それなら、その名前はシーオーナメントだろうか。そんなことを考えながら手のひらの上のそれを眺める。
 窓の外では変わらず、キラキラと日差しを反射する海が見える。

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